第一章『北の国』

第1話 壁にはまった少女

 改札を抜けて歩きだした軌跡から、夜がやさしくにじんでいた。

 こんなにも頰を撫でる風はやわらかいのに、春が来たという話をニーナは世間からまだ聞いたことがない。きっと空気がまだしんと冷たいせいだ、と思う。

 それでもつぼみはうっすらと膨らんでいるから、やっぱり今は春なのだとも、彼女は思い直す。

 冷たさは、歩き出せばすぐに砂のようにさらさらと流れていった。

 残るのは、ただ、春だけだ。

 春だ。

 頭上では今年に入ってから一番だとうたわれた、大きな月が輝いていた。

 ぼんやりと香典返しの紙袋を揺らして、ニーナはすれ違う他人と変わらず当たり障りのないことを考えながら、慣れないヒールを打ち鳴らし、夜道を歩いていく。

 家まではあと少しだった。周囲になじむよう、ならって身につけていた喪服も立ち続けていた足ももう限界だ。今夜はゆっくり休んで明日からの仕事に備える、と心に書き留めたニーナの目の前で突然、スポットライトが当てられた舞台のように、世界が開けた。

 ぽっかりと灯りがともった街灯の下で、おかしなものがうごいている。

 足だった。

 一軒家の壁から、きれいに一組、足が生えていた。

 見間違いかと思いアイメイクが落ちるほど目を擦っても消えることがない。

 何度見ても足だった。

 このほころびの季節に、ついに私も、頭がおかしくなったかとニーナは自問自答をする。もしくはこんな幻覚を見るほどに疲れているのかもしれなかった。通夜など人生においてあまりないものに参列したせいか。

 でも幻覚にしては音も、匂いも、いやに現実的だった。

「やぁだ! や! やー! やー!!」

 静かな夜には不似合いなかん高い声がニーナの耳を貫いた。

 まるいかかとがコンクリートを擦っては宙に浮かぶ。つま先が丸まって広がり、足がうごめいている。それは、室内ではないのに裸足だった。

 すっぽりと埋まってしまったおおまかな部分は薄汚れた薄い布に包まれていた。足が動くたびにすそがめくり上がる。ワンピースか——そんなに暴れては下着も丸見えなのではないかと思っていると、案の定下着が見えた。真っ白だった。

 ここから抜け出すためならなりふり構わない、と訴えてくる切実な感情が伝わってくる。

「なあんでぬけないの! どーしてぬけないの! いたいーーいたいぃーー!!」

 あからさまに面倒そうなものだ、と疲れた思考回路で判断を下したニーナはなるべく音を殺してこの場からすぐに立ち去ろうとした。

 しかし足の持ち主は暴れながらもニーナが履いていたヒールの音を捉えていたらしい。

「おねーさん! そこのおねーさん! たすけてよぉ!」

「……どこにお姉さんが?」

 ニーナは最後の抵抗といわんばかりにわざと声を低くして返事をする。

「あなたよ! あなた! おねーさん! あなたなのよー!」

 抵抗も虚しく、無駄な演技だった。

 それでもニーナは変なことには関わりたくなかった。

 なぜか、とても嫌な予感がしたからだ。

 そもそもこの会話を続けるのもいけない。このまま見捨てて家に帰ろうと暴れる足を見つめながらきびすを返すと、一転して息を飲んだ足が、いくらか声を低くして言った。

「このまま見ないふりするってなら、これ以上の大声をあげてやるから」

 叫んでいた声と同じものとは言えないほど冷たく、静かな声色だった。

 これ以上の大声となると、さすがに他の人間が気がつかないなんてことはないだろう。駆けつけた見知らぬ他人から見ればもしや、ニーナがこの足をここに押し込めたことになるのか。そんな疑いをかけられようものならいくら無実とはいえ、警察に通報され帰宅がますます遅くなるだろう。

 関わりたくなかったが脅されては仕方がない。ニーナは大きくため息を吐いた。

「わかった。押す……よりも引っ張ればいいの?」

「うん! そう! でもやさしくね、それからはやく!」

 お願いにしては注文が多い足だ。

 ニーナは道端に香典返しの洒落っ気のない紙袋を置いて黒いハンドバッグの持ち手を腕にかけると、壁にはまっている腰を両手でしっかりと持って引いた。

「いたい!」

 悲鳴が大きくなるばかりで一ミリも動きやしない。

 ひねるようにして引くのを試みる——やはり抜けない。

 長く続けるのは痛みが増すばかりのようで、すすり泣きが混ざった悲鳴に、ニーナはさすがに同情した。声の主の体を少し押し潰し、小さな穴から喪服が汚れることも構わずに腕をねじりこんで、それの首根っこを、掴んで引く。びり、と布が裂ける音がしたけれど構わず引き続けて、やっと、足ともども、後ろに体を引きずり出した。

 尻餅をつきながら、まずニーナがはじめに驚いたのは、足の持ち主の異常なまでの軽さだった。

 足の持ち主は少女だ。背格好の年の頃は五、六歳といったところだろうか。

 生え際が灰色がかった黒い髪を持っていた。身につけているのはうす汚れた薄手のワンピース一枚。この季節にその薄着は異常だろうと眉をしかめたくなるような服装だ。

 加えて裸足で、こんな少女が夜遅くに壁にはまって身動きが取れなかったなんて非現実にもほどがある。嫌な予感はますます膨れ上がるばかりだった。

 結果ニーナが通りかかって助けたからいいものを、他の、下心のある人間が助けたらどうなっていたことだろう。変質者に見つからなかっただけ彼女は幸運なのかもしれない。

 壁にははまっていたが。

「なにがどうなって壁にはまったのか知らないけど、あんたは警戒心が無さすぎる。早くお母さんのとこに帰りなよ」

 耐えきれず口にした苦言に届いたはずだ。ぽかんと口をあほのように開けた少女をしばらく前にして、ニーナは用事は済んだはずだから帰ることができる、ということに遅まきながら気がついた。

 帰らなければ。

 なかなか立ち上がらない体を受け止めるのをやめてニーナは立ち上がる。

 喪服の尻についた土埃をたたき、払うと、放置していた紙袋を掴んだ。思わぬ運動のために体は疲れていたが、自宅まであと少しだ。

 明日は仕事なのだからすぐにでも寝なければ——と思ったが、腰のあたりになにかが抱きついてきたために、一歩を踏み出し損ねた。

 見下ろせば、黒に近い髪の間から金色の目がらんらんと光っている。その中に底知れない得体のなさを感じて、無意識にニーナは舌打ちをしていた。

「ありがと、おねえさん! ねえ、お名前は?」

 ニーナの反応を気にすることなく、少女はまとわりつくように彼女の腰から体を離そうとしない。

 その体を剥がそうとするも、先程とは違い自由になった体は力強く、既に酷使されたニーナの両腕では振り払えなかった。

「あんたね、助けてもらったからって理由だけでよくなつけるね。私はあんたのこと見捨てようとしてたのよ。早く帰りたかったから手伝っただけ」

 引き剥がすのがだめなら、と早々に抵抗を諦めて仕方なくニーナは会話に応じる。

 返した言葉の通り、一度は彼女を見捨てようとした身だ。礼を言われるほどのことをしていない。これ以上関わらず離れたいのが本音だが、一歩も動くことができなかった。

 根っこが生えてしまったかのように、その場から動けない。

 元よりこんなに軽い少女が振り払えないほどの力を持って大の女性一人を押しとどめるなんてありえないのでは——ニーナが事態の異常さに気がついた時には、既にすべてが遅かった。

「おねーさん、助けてもらったついでにあれなんだけど、あたしのおねがいきいてよぉ! こまってんの!」

「いやだ」

「そんなこと言わずに! ねえってば!!」

「うるさい。帰らせてよ聞きたくない」

 少女の声には、その目と同じく、不思議な力を宿していた。

 決して聞きたくないことでも強制的に思考に擦り込むような、そんな不穏な強さを感じてニーナの背中が粟立つ。聞く人によっては抗えず、すぐに頷いただろう。それができないのは、ひとえにニーナの関わりたくない、という意志が固いのか、それとも。理由は分からないけれど。

「あたし探してんのはシロクマなの! おねえさんシロクマさがすのとくいでしょ? 《シロクマのニーナ》でしょ?!」

 食いつくようにひときわ輝いたうつくしい目に、抵抗の意識を狩られて、ついにニーナは彼女に持ってかれてしまった。

《シロクマのニーナ》だなんて、言われたのは久しぶりだったから。言葉の響きに開いた口が塞がらない。

 抵抗するための力が抜けたのをいいことに、少女がニーナの貴重品が入った鞄を奪う。

 体は軽くなったけれど、余計なものまで軽くなってしまったとニーナは顔をしかめる。

 鍵が入った鞄がなければ家に入れない。

「うん、うん、あなた《シロクマのニーナ》でしょ? これがほしければあたしをつれてってよ!」

 勝利を悟った少女が、ひどくうつくしい、笑顔で言い放つ。


 

 十年ほど前のことだ。ニーナは叔父と一緒に訪れた上野動物園のホッキョクグマに一目惚れをした。見かけた瞬間、身体中に熱が走り、それまで色あせていた世界があざやかに息をしたのだ。これが恋だとさまざまな小説や話を聞いて……すぐに知った。彼女は、獣を、たまらなく愛おしく思ったのだ。

 そこに獣と人間だとかそういった種族の違いに関する哀しみや隔たりはなく、恋をはじめて知った少女は成就を諦めながらも、その熱をただ手元に置くことを望んだ。

 これが家で飼えるような愛玩動物であればまた話が変わってきたのかもしれないが、ホッキョクグマを飼うということはとてもじゃないが夢物語であるとニーナ自身にも分かっていた。

 両親を早くに亡くしていたニーナは親戚の家を転々として、やっと長く預かってくれるという、叔父の家にたどり着いたばかりで。物の一つをねだることすら、子供心には苦痛だった。だから。

 行き場のない、恋という厄介な執着心を持て余すニーナの目の前にあったのは、子供として生きるために与えられた紙とペン、そのふたつきりで。

 彼女は迷うことなく、それを利用する道を選んだ。

 その頃にはニーナは中学生だったが、絵なんて描いたこともなかったのに美術部に入部届を出し、美術室でホッキョクグマの絵を毎日描き殴ったのだった。

 それは高等学校に進学しても変わらず、のべ四年の月日をホッキョクグマに捧げた。

 毎日白い画用紙、あるいはキャンバスに地の色と変わらない白いかたまりを描く姿は一見すれば頭がおかしいと噂されるには十分だろう。

 それでも描いたものは一部に評価された。一色のみを用いて描き、画材の重ねの加減によって、描いたものを浮かび上がらせるように見せる手法をニーナは生み出し、誰が呼んだか、彼女を天才と褒めそやした。

 そんなことを言われても本当は天才なんかじゃないことはニーナ自身がよく分かっていたから、寄せられた賞賛の声はすべて聞き入れないことにした。正当な心の防衛手段として正しい反応であったと、今でも彼女は思う。

 手を変え品を変え、それまで愛想のなかった親戚が、ニーナを金のなる木として見なし、口を揃えて引き取りたいと言ってきたからだった。その手に関しては断固として頷かなかったけれど、掛けられた声は数しれなかった。加えて、実際どれだけ描いてもニーナが追い求めたホッキョクグマの姿には到底及ばなかったせいもある。

 ——そう、どれだけ描いても、彼には到底及ばなかった。

 理想を求めてホッキョクグマを描くことに費やした脳みそは、この時期に培うべきコミュニケーションをすべて放棄した。なにを言われようとも口をつぐみ、耳を閉じ、放置したのだった。

 その結果、ニーナは《シロクマのニーナ》とひそやかに呼ばれるようになった。

 ホッキョクグマに焦がれ、ホッキョクグマを愛し、感情を捨てた女。

 人間とも思えない、つめたくて、氷の世界で生きてきた、女。

 嘲笑がほとんどだったが、一部の人間には畏敬の念すら込められて。《シロクマのニーナ》は周囲の人間に止められることなく、溺れるように描き続けた。描いて描いて、描き続けて。

 ある日、突然夢から覚めるように、目が覚めた。

 目が覚めた後には体を支配していた熱が、かけらたりとも彼女の中には残っていなかった。

 衝動に動かされないのならば無駄に紙を、ペンを消費するような趣味はやめるべきだ……自身の選択に従ってホッキョクグマを描くのをやめたニーナには、もうなにも残っていなかった。

 長年耳を閉じてきたせいで、周りと歩調を合わせることは難しくなっていた。ただ長い時間が過ぎて、周囲に流されるように就職し、育てられた叔父の家を出て社会人になり、なんの変哲も無い人生を送っていた。

 だから、道端で助けた少女が口にしたのは、ニーナ自身が遠い昔に置いてきた名前だ。

《シロクマのニーナ》そんなもの。

 忘れられていると、ニーナ自身も忘れていると、思っていた。まさか、今になってそう呼ぶ人が現れるなんて思ってもみなかった。あれから最低でも五年は経っている。そう呼ばれることすらニーナにとっては久しぶりで、心が締め付けられるように痛くなる。



 こんなにもうつくしい夜に叔父との別れの儀式があったことは不幸だ。

 父親のように育ててもらったのだから参列するように、と叔母に言われたのは通夜と葬式の両方だったけれど、もっぱらニーナは通夜を選択した。義父として世話になった彼のために二日も割けないほど仕事も忙しいというわけではなかったが、堂々と彼の娘として両方に参列するにはまだ、勇気が足りなかった。両親が早くに死んで、親戚の家でたらい回しにされてきた幼い頃の記憶はすべて薄れてはいない。

 呼吸の常識が、吐いて吸うように。

 ニーナにとっては昼、より、夜、の方が、別れも静かで穏やかだと感じていた。

 その選択を、主役であるところの死者は怒らないだろう、と彼女は靴を脱ぎながら甘えるように思考する。生前はニーナに特別優しくしてくれたから。

 死因は脳卒中だった。こればかりは予測もできないから仕方がないと、親戚が叔母を慰めているのを遠目に見ていた。

 棺の中の叔父の顔は化粧が施されていて、一目で亡くなったとは分からないほど、きれいに整っていた。まるで穏やかに眠っているようだった。

 通夜の最中に見かけた叔母は、涙で輪郭をあやふやにしながら、憔悴しきっていた。葬式には参列しないつもりだと言ったニーナのことを周りの親戚のように責めはしなかった。苛烈な人だから昔はきっと、責めただろうけれど。そんな元気さえ今回彼女には残っていないようだった。

 まなうらで白と黒の横断幕が焼けついたようにまたたいている。

 とっ散らかった思考のままゆっくりと吐いた息は、式場で白く煙って、流れ星のようにあっという間に消えてしまった。その儚さはまるで人の命のようだ。命に質量があるかはわからないけれど、実際に、この吐息のように、彼は逝ってしまった。

 まさか彼は、おとつい死ぬだなんて思ってなかっただろう。

 ゆっくりとこれから死ぬことを覚悟する年齢だ。

 白髪だってたくさん増えて、体の筋肉だって落ちていって、ふしぶしが痛むようになって、衰えを感じながら余生を過ごすつもりだったに違いない。そんな穏やかさとやさしさを彼は持っていた。はじめからかはわからない。けれどそれは、彼の持つ美徳だったはずだ。

 そして、そんな美徳を、彼は惜しげも無くニーナに分け与えたのだった。

 叔母との間に子供は最後までできることはなかったが、自らの子供として。彼は、ニーナをここまで生かしてくれていたのだ。親として、兄妹として、親友として。

 ニーナが家に着いたのは少女と出会ってから間もなくのことだ。

 玄関先で清めの塩を体に振りかけようとして彼女はやめた。通夜、葬式帰りに玄関先で塩を自らの体にかけるのは故人を家の中まで連れて帰らないためだ、とはぼんやりだけれども知識として知っている。でも、でもねぇ、と彼女は思う。

 今夜の通夜は叔父のためのものだった。

 生きてきた中で、唯一、ニーナに優しくしてくれた大人だった。

 救われていた人を連れて帰ってきて何が悪いことがあるのかと、彼女は玄関先で他人事のように考える。

 ふたりの間に漂う愛は、確かな実感ではなかったけれど、ニーナはそれを嘆くほど子供でもなく、はやくに大人になってしまった人間だった。

 愛というものは、あったのだとは思う。それがなくなったことを、さみしいとは思わないけれど惜しいことをしたとは感じている……なるほど、親しい人間がひとりでも亡くなるということは、こういうことなのかと、彼女はゆっくりとはじめての感情を噛みしめている。

 愛情を注いでくれる人間が消えたことは、かなしくはなかった。

 ニーナはの人生は、幼い頃より感情をどこかで落としてきたと他人に言わせるようなひどい見てくれのものだった。

 両親など気がついたら既に無い身で、親戚にたらい回しにされた彼女は笑い方の一切を忘れてしまった。可愛げのない子だと言われ続けていた。それは仕事を始めるような年になっても、愛嬌なしとささやかれ続け。それでも助けてくれた人はいた。叔父が、ただひとりの人だった。かけがえのない。

 亡くなった事実が、目の前に、砂漠のように横たわっている。

 ひろい、とてもひろい砂漠だ。

 人のうるささはなくて、ただこの間まで一つの北極星が灯っていた。

 星は、やさしさだ。叔父の持っていたやわらかさだ。

 落ちた星に輝きは戻らない。ニーナと、案じるようにかけられた声は、もう戻ってこないということを、莫大な砂漠を前にしてニーナは考えてしまう。

 こうしてぼう然と考えたところで生き返るわけではないことを、もうニーナは知っている。考えたって解決はしない。時間の無駄だと分かっている。

 この喪失感も、感情も、生きているだけで失われる水分のように、どこか彼方へ消えてしまうのだ。

 叔父のこともニーナはいつか忘れるだろう。

 はじめは声、それから体温、最後に姿だ。

 それが大人になって生きていくことだと、世界がニーナに教えてくれた。

 そうだ、だから、かつてそうしたように今夜あったことを忘れていい。

 両親や育ての親が亡くなることは、そんなに重要なことじゃあない、とストッキング越しに廊下を踏んでただ考える。

 かなしくなかったことなど、忘れていいんだ、とかすかな声で、心に、ニーナは呼びかける。

 泣かないのは、ひどいことじゃない。泣くのは可愛げのある人間がするものであって、乾ききったニーナの目は、もはや膜の一つさえ張ってないのではと思うほどに、乾ききっていた。

 それでいいのだ。

 それが、ニーナだ。

 ゆっくりと物思いにふけりながら行動するニーナを少女は責めなかった。けれど後ろから遠慮なくついてくる。

 いつ帰るのだろう。

 ニーナにとっては叔父の霊よりも彼女の方がよほど実害があるのでは無いかと疑ってやまない。

「広いおうちなのね」

「どこが」

 ニーナは突き放すように言って脱いだ喪服をハンガーにかける。知らない少女の前で着替える自分も彼女に言ったように警戒心が少ないのかもしれないと考えたが、自分の部屋に脅してまでも勝手に上がり込んだのは彼女で、自分の部屋で他人に遠慮することはないとすぐに開き直った。

 どこででも見かけるようなマンションの三階に位置するワンルームだった。広く見えるのは家具が少ないせいだろう。カーテンは紺色、ベッドカバーも紺色で服もクローゼットに収まるほどにしか持っていない。視界にものが散らばっているのを見るのが苦手、ということもあるが、ニーナには物心ついた頃より身の回りのものは持ち歩くことができる程度の質量を保つことが刷り込まれている。周囲の人間に迷惑をかけまいとする心構えは、もはや習慣のようなものだった。

 唯一の個性といったら天井まで届かんばかりの古い本棚が一つきりあるだけだ。並べられた本は少ないけれど、叔父と叔母の家から出る際に与えられたその入れ物だけは贅沢品だった。

「ふしぎ。シロクマの本はないのね」

「私がなにを並べてようが勝手でしょ」

「ねえさっきからさあ」

 少女の顔がぐりん、と動き爛々とした目がニーナを射抜く。

 先程からこうだ。彼女はニーナの心の奥底を覗こうと食らいついてくる。

「シロクマの話をするとおこるのね」

 苛立ちに舌打ちを漏らしそうになった。

 そもそもシロクマじゃなくてホッキョクグマだと間違いを指摘したところで少女には響かなそうだ。数々の不満を懸命に飲み込んで、かろうじて、もつれる舌でありきたりな返答をする。

「別にそんなんじゃないよ」

 眼光の強さに負けて先に目を逸らしたのはニーナだった。

 こんな得体の知れないガキにたじろいだ、わけじゃない。言い聞かせながら少女にグラスに注いだ麦茶を出す。受け取ったグラスを一気に傾け、飲み込む、その喉には骨が浮いていた。蛍光灯の下で改めて見た彼女の、ぼろぼろのワンピースに包まれた体はひどく華奢で、折れてしまいそうだった。

 どこもかしこもぼろぼろなのに、目の光だけが生き生きと輝いていた。体に不似合いな目の強さ、と心中で吐き捨てながらニーナは部屋着を身につけて声をかける。

「あんた名前は? お父さんとお母さんは?」

 さっさと出て行って欲しかったから口早に問いかける。ただでさえ今夜は別れの夜なのだ。そのことを悲しいとは思わなかったけれど、優しい人を失ったその衝撃に体が疲れていない、わけじゃあ、ない。

「あたしはね、ツヅリ。お父さんとお母さんはいない。兄妹はいるよ! シロクマのヤット」

「ふうん」

 やっぱり連れて来るべきじゃなかったかなとニーナは思いつつスマートフォンを鞄から取り出す。兄妹が動物だなんて、普通ではありえない。面倒そうな事情を持った子供なのだと納得したからには即座に警察に連絡するつもりだった。少女を保護なんて、とてもじゃないが個人の手に負えるような問題ではない。

 ここに置くにしても長続きするわけでもなし、壁から救って家に連れてくるよりも、はじめからこうすれば良かったのだ。

 一一〇を押し、受話器のアイコンに指を滑らせる。

「うちに帰るにはヤットがいなきゃだめなの。彼がどうしてあたしのそばからはなれて行ったのか……分かんないけど、あたしが悪かったのならあやまりたいの」

「そう……それで?」

「おねがい、おねーさん。あたしをここに居させて。連れもどしたいの、彼を。あたしはあきらめたくない」

 通報には、至らなかった。

 耳に飛び込んできたツヅリが言った言葉に反応してつかの間、動きが止まった。折れそうな肩を改めて見下ろして、ニーナが思い起こしたのは昔の自分だ——親戚に振り回されて疲れ切った頭がホッキョクグマに溺れていた頃。

 信じられるものは、自らの心に住み着いたものだけだった。

 叔父のいない間に親戚とはよく衝突し、怒鳴られて殴られたこともある。後ほど叔父がどれだけ親族との絆を取り戻そうとしてくれたって無駄だった。自分にはホッキョクグマの他にはなにもないと、思っていた。

 創り出すことで、呼吸をしていた。そんなバカな理論だってあるはずがないって今になっては思うのに。

 どうしてツヅリを前にしてそんな記憶ばかりが頭に浮かぶのだろう。

 例えば彼女がなにかから逃げているとして……この時間が救いになるのなら。そう思うと、一晩ぐらいはいいだろうと、許す心がゆるゆると頭をもたげる。

 そうだ。電話したところで、こんなぼろぼろのワンピースを着せられた少女を見たら外聞が悪いということにしよう、とニーナは思考する。一部生地が破けているのは塀から救い出すとき強く引っ張ったからだけど——他人にあらぬ疑いをかけられたくもなかった。

 服ぐらいは明日適当にどこかの店で見繕うことにして、それを着せたら家から追い出そうと考えをまとめれば早かった。

 一晩ぐらいは、いいだろう。

 迷っているような、少女の逃げ場になったって、ばちは当たらない。かつて逃げていた人間が、屋根つきの部屋を持っているのだから。

「その……ヤットはどういう、子なの?」

 もう追い出す気はなかった。

 ただ沈黙に耐えきれず、聞けばより深みにはまると分かっていながらも、ツヅリの置かれた現状から逸れた理由を尋ねる言葉をニーナは口にする。

 床にあぐらをかいて座り込んだ彼女の顔が明るくなった。

「ヤットはね! 大きくてふわふわで、まっしろで、あたしの兄妹で、いつも助けてくれて。……あたしの、ゆいいつのひとよ」

 熱のこもった最後の声は、あまくてとろけそうなほどの熱を讃えていた。途端に吹き出すツヅリの色気にニーナは茶を飲む手をやめて生唾を飲む。

 細くて貧相なだけの少女が、突然目の前でうつくしく花開いた。

 破れたワンピースでさえも、彼女の色気に拍車をかけるようだった。むせるような女の匂い。彼女の倍以上歳をとっているニーナでもなお持ち得ない、暴力的な力だ。

「彼は、あたしの力よ。彼がいないと、帰れない」

 魂さえもかけて、誓うように彼女は口にする。

 あんた、私が恋愛対象が少女とか、そういう性的趣向じゃなくて良かったわね、と軽口を叩く気もニーナには起きなかった。

 この子供は、こわい。

 そして、彼女を見ているととても苛つく。心に住み着いた恐怖と圧倒された苛立ちから、がちりと犬歯で噛んだグラスは簡単に割れはしなかった。いっそ簡単に割れて怪我をすれば良かったのに。そうしたら、ツヅリにとっての都合のいい大人に戻れる。

 なのに、畳み掛けるように、ツヅリは言うのだ。

「あたしにとってのヤットはあなたにとってのシロクマと同じよ。……ねえ、会えたら聞きたいと思ってたの。ニーナ、どうしてシロクマをかかなくなっちゃっちゃったの?」

 いろいろと引っかかる物言いをする女だとニーナは思う。シロクマじゃなくて正しくはホッキョクグマだ、とは再度言おうとするだけ無駄だと分かっていたから、返事の代わりに大きなため息を吐いた。

 その質問には答えたくない。立派な意思表示のつもりだったのだが。

 それでもツヅリはため息を返事の代わりには捉えていないらしく、大きな目をニーナに向け続ける。瞬き一つしない目は、ニーナの声を一音さえ逃すことはしないと物語っていた。

 そのひたむきな姿勢に根負けしたのはやはりニーナの方だった。

「やめたのに別に理由なんかない。なんとなくよ。私には技術も腕もなかった」

 疲れた頭で嘘をつく体力はなかった。

 吐き出した、長年温めていたニーナの本音に対してツヅリの返事は早かった。

「うそね。そんなことない」

「あんたになにが分かるの?」

「わかるわ」

 うまく説明できないけどわかるのよ、と言った声はひどく細くて泣きそうだった。所詮は他人事なのになにをそんなに意地になることがあるのだろうか、と意地の悪い考え方をしてしまう。

 こんなに親身に、お前の味方だと言われて受け止めるには、ニーナは歳をとりすぎてしまった。

 もう、遅いのだ。

《シロクマのニーナ》そう呼ばれて、這い上がることができるような年齢では、もうない。

「もういいや。あんた、明日ちゃんと帰りなよ」

 予備のスウェットを渡しながら突き放すようにニーナは言う。

 これだけ言葉を交わせばもう十分だった。

 現実から逃げるのは一晩でいい。彼女だって大人になったらそう思うはずだ。ニーナが今そう考えているように。

 見つけられないという、そのヤットとかいうものが本物のホッキョクグマだなんて妄想もはなはだしい。大切なぬいぐるみとかそのあたりが妥当だろう、とニーナはずるい大人だから次々に思考を切り替える。

 そうだ。ぬいぐるみのひとつ無くしたぐらいで追い出されるような家ならあんたそこを出ればいい、とは思ったけれども口には出せなかった。そこまではこの年頃の少女には言えなかった。

 代わりに口から出てきたのは都合のいい大人の事情だった。

 ニーナには明日の仕事があるのだ。ツヅリの妄想のおままごとにこれ以上付き合ってられるような余力はない。

「ここに置いてあげるけど今晩だけだよ。私には仕事があるからあんたの面倒は見てられない」

「あたしの言うこと、信じてないでしょ」

 ツヅリは受け取ったスウェットを素直に身につけた。

 呆然とした声で非難するように言われて、残っているかもわからない良心が痛まないと言ったら嘘になるけれど。

 過去を勝手に掘り起こすような人間がまともなわけではない、とはニーナの人生における教訓だった。

「おねーさん、あなたのこと知ってるのも、今の話もほんとよ! あたしあなたのこと知ってるの!」

「私のこといろいろと誰から聞いたのか知らないけれど、ずるい手ね。今日日、子供だって騙されないよ。知らないの? 知らないやつの言葉は鵜呑みにしちゃあいけない。ましてやそれを使って人を脅しちゃいけないし嘘ついちゃいけないのよ」

「やめてよ、おこんないでよ。大人の言葉はもういやよ! 全部ほんとなのよ!」

 もう相手にするのが面倒だった。

「はいはい。おやすみ。シロクマさん」

 シャワーを浴びるのは出勤前でいい。

 ニーナは彼女を担ぎ上げてベッドに押し込め、自身は押入れから予備の掛け布団を出し、床でごろりと横になって目を閉じる。しばらくは小さな声で抗議していたツヅリの声はじきに止んだ。元気に振舞っているように見えても疲れていたのだろう。明日になれば落ち着いているだろうし、また彼女の中で何かが変わるかもしれないとニーナは思う。変わった先で、落ち着いて、家に帰ってくれればいい。

 彼女に背を向ける。布団の中でかすかに鼻についたのは線香の匂いだ。

 しっとりとした、別れの匂いに包まれたままニーナは深く眠りにつく。

 体は泥のように重くて、夜に溶けていってしまうようだった。

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