5-2.世界はこんなに美しい

 シプの船の甲板に立ちつくしながら、グリュテは崖の方を見ていた。セルフィオが巻き貝みたいな建物に入って数十刻経つ。見覚えのあるような、おぼろげな記憶しかない建物から早く、彼が出てこないかとそわそわしながら、潮風がさらう橙色に染めた髪をなでつける。


「こらグリュテ、外に出てはいかんではないか」

「グナイオス、今はルタだよ。あんたの方こそ名前を迂闊に出すんじゃないよ」


 小さな声が後ろから届いて、グリュテは振り返った。シプとグナイオスが肩を並べて、困ったようにこちらを見てきている。紙束の一番最初の頁に、持っていたペンで、ごめんなさい、と書いて二人に見せた。怒ってるわけじゃないよ、とシプが苦笑を漏らした。


 ルタというのは、グリュテの偽名だ。自分はどうやら、一度死んだようにされなければならない人間らしく、持っていた遺志残しの荷物は、セルフィオが巻き貝の建物に持っていってしまった。


 どうして自分がそうされなければならないか、理由は知らない。思い出せない。でも、セルフィオやみんなで考えた結果がそうだったらしく、グリュテはそれを素直に受け入れた。荷物にあった見慣れぬ箱、その中に入っていた手紙にも自分の死を示唆するようなことが書かれてあったから、多分それでいいのだと思う。箱はセルフィオが旅商人に売ってしまったけれど。


 グリュテの記憶も、声も、なにも戻ってはいない。遺志残しとしての力もまた、消えた。


 だが不思議と戸惑いはなく、遺志残しだったグリュテ、ということまでは薄ぼんやりとした記憶がある。それ以外に覚えているのはセルフィオへのことだけで、それでいい、そんなふうに割り切った。大切なのは、彼に抱く止めどない思慕の念、そうとすらグリュテは感じている。


 目線を元に戻すと、桟橋を渡ってくる人影が見えた。青紫の髪をしている。ノーラだ。彼女ははしごを身軽な所作で登り、こちらに近づいてくる。


「どうだった、ノーラ」

「とりあえず名前、ルタでいいのよね。薬草師組合の方で新しく身分証、作ってきたわ」

「ふむ、意外と簡単にすんだな」

「冗談いわないでよ、でっち上げるために工作し回ったんだから」


 嘆くようにため息をついて、ノーラは小さな、手のひら程度の板金をこちらに向けてくる。共通語で『ルタ・薬草師』と書かれたそれを見て、グリュテは目をぱちくりとさせた。


「あなたの新しい身分証。旅をするには欠かせないから」


 やくそう、と声を出そうとして、出ないことに気づき、頭の中だけで考えた。おぼろげだが、薬草や香草やらの種類は知識として記憶がある。


「琴弾きではさすがにだめだったか」

「遺志残しなら薬草のこと、少しは知ってるでしょう。天護国アステールなら琴弾きに知り合いがいるから頼むこともできたんでしょうけど、あなた、楽器弾けないのよね」


 ノーラにうなずき、手渡された板金を服の隠しに入れた。紙に書く。


 ――薬草の知識なら、少しありますから大丈夫だと思います。


「そうじゃなきゃ困るわ。赤字もいいところだし」

「相変わらずがめついな、お前という女は」

「うるさい、シプの尻に敷かれてるくせに」


 グナイオスは豪快に笑い、横にいたシプを胸元に引き寄せた。やめとくれ、と小さく反発するシプの顔は、それでもどことなく嬉しそうで、見ているこちらもなんとなく幸せな気分になってくる。


 グリュテには顔見知り程度、そんなくらいしかグナイオスたちの記憶が残っていない。多分いた両親のこと、師のこと、そんなものも曖昧で、でも、そのままでいいのだと思う。大事なのはこれからどう生きていくか、それだけだから。


「おや、フィオが戻ってきたね」


 シプの言葉に振り返り、全身灰色の鎧に身を包む姿を確認してグリュテはほほ笑む。セルフィオ。誰よりも愛しく、忘れがたい存在。

 

 彼と共にグリュテはこれから、シプたちと別れ、神権国ガライーに行く。中央島から船と陸路を使う旅路は、困難に満ちているかもしれない。けれどグリュテには不安はなかった。わたしだけの騎士がいる、そう思うだけで心がときめく。


「ルタ、外に出ていたらだめだろう?」


 甲板に上がったセルフィオにいわれ、しゅんと少し、顔をうつむかせた。胸に当てた手をそっと、優しく握られる。


(怒ってないよ。心配なんだ)

(心配、ですか?)


 伝わる念話に、グリュテは小首を傾げた。心配するようななにかが、あの巻き貝の建物の中にあるのだろうか。グリュテにはわからない。建物を見ても、どことなく懐かしい気持ちが浮かぶだけで。


(確かに少し、どこか、懐かしい気持ちはあります)

(そうだろうね。十年の月日は長い)


 セルフィオが苦笑したように答えて、突然なにかからかっ攫うかのようにグリュテの体を抱いた。


 肩を抱かれるたびに胸の動悸が激しくなる。手に触れられるたび、その箇所が熱くなる。手甲から伝わる冷たい、それでも落ち着いた手の動きに甘い痺れを感じる。


(でもそれに負けない想いは、俺にだってある)


 負けない、その意味はわからないけれど、グリュテは伝わる念話に嬉しくなって、でもちょっと赤面した。お熱いことで、とシプがからかいの言葉を投げかけてくる。グリュテはセルフィオの腕と胸の中、それでも伝わる鼓動だけに集中した。


「それじゃあ出発するよ!」


 シプの声が高らかに周囲にこだまし、船がゆっくりと動き出す。速度を上げた船の側、すぐに巻き貝の建物が、崖が小さくなっていく。さようなら、とどこか見覚えのある、思い出せないままの場所に別れの言葉を、心の中で投げかけた。多分大切だった場所、とつけ加え、消え去った建物から目を離した。セルフィオに抱きしめられたまま、グリュテは眼前に広がる景色に視線をやった。


 薄曇りの空から陽光が布のように射しこみ、白いさざなみを黄金色に染めている。かもめたちが飛び、様々な色をした船が通り過ぎる景色に、グリュテは吐息を漏らして愛しいぬくもりに身を預けた。二人、顔を合わせて笑い合う。


 世界がなによりも、美しく見えた。セルフィオと共に生きていくこの世界がきれいとしかいい表せなくて、ただグリュテは頭を、静かにセルフィオの胸に預ける。


(心配はないかい、グリュテ)

(ありません、なにも)


 名前を呼ばれるたび、嬉しくなる。外ではルタだけど、この人の前だけではグリュテだ。


(これからはずっと一緒だ。もう、君を離さない)


 グリュテは目を閉じ、愛しさとぬくもりの中、目いっぱい潮風の香りを楽しんだ。


 生きなさい、とどこか懐かしい、優しい老婆の声が胸に響いた。グリュテはうなずく。


(生きます。この人と一緒に、ずっと)


 肩を抱いたセルフィオを見上げ、まぶしい日差しに目を細めながら、きらめく陽光にグリュテは唇をほころばせた。


 そこにもう、死はない。


                                  【完】

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告死病の遺志残し 実緒屋おみ/忌み子の姫〜5月発売決定 @ushio_soraomi

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