第3話 ひとりっていいよな


 私が尊敬してやまない一人の友がいます。


 せっかくだからと、御茶ノ水の山の上ホテルのバーで待ち合わせして、会ってきました。


 せっかくだからというのには、いろいろと意味があります。


 私は、上野の美術館に行く予定があり、彼は、今住んでいる軽井沢から横浜に出てくる用事があるというのです。

 ですから、一時間ほど双方で都合をつけて、お茶でもしようということになったのです。


 お茶をしようというのに、バーで、とはどういうことかと言いますと、これまた意味のあることなのです。


 彼、このホテルの雰囲気がとりわけ好きなんです。

 御茶ノ水のこの界隈に、彼の青春があるのも一因しているのです。

 だから、彼が私と会うとき、いつも、彼が指定するのが、あのホテルの一階にあるバーなのです。


 彼、気を遣っているんです。 

 私は、教員をしていたせいで、常に、五分前集合の習慣が身についているんです。


 生徒にそう言っている手前、それが習性になってしまい、教員とは関係ない世界に暮らしている友人たちからすると、お前は、窮屈なやつだなんて言われたりするんです。


 だからと言って、私が、時間に厳格であるわけではないのです。


 遅れて来たって文句の一つも言いませんし、嫌な顔するわけでもないのです。

 でも、友人たちからすれば、いつも、先に来て、そこにいるのが私ですから、そんなことを言って、自分たちの時間にルーズなことを正当化しているのです。


 そんなことですから、彼、自分が仕事が立て込んで、遅れてもいいように、酒の飲めるような場所を指定してくるのです。


 彼が遅れて来た時、いつも、彼は私が飲んだ珍しいカクテルのあれこれの代金を支払うのを常としていましたから、私、恐縮しながらも、彼とのこのホテルでの待ち合わせを楽しみにしていたのです。


 この日、連休の真っ最中です。


 上野は嫌になるくらいの人出でしたが、御茶ノ水はすっかりと人の気配がなくなっていました。学生も、勤め人も、人っ子一人いない、ちょっと大げさに過ぎるような表現ですが、それが決して大げさではないくらいの、そんな静けさであったのです。


 その日、最初に来ていたのは彼の方でした。


 久しぶりに会った彼の随分と老けた顔に、私はびっくりしてしまいました。

最初、カウンターの端に居るのが彼だってわからなかったくらいなのです。

 人は、さほどに老けるものなのかって、それがあまりに激しかったので、私は、冗談にも、お前さん老けた顔してやがるなどと悪態もつけなかったのです。


 彼、ついこの間、自分のやってきた事業を清算して、横浜から軽井沢に転居したばかりなのです。


 事業を清算するって、どういうことかと、私、開口一番、それが知りたくて、問うたのです。

 お前さんたちの言う退職金っていうやつだよって、軽くいなされました。


 それは言いたくない、語るのが億劫だと、彼そう思っているに違いないと、私、察しました。

 人が、それまで、何十年もいた職場から離れるというのは、寂しいものです。まして、自分が始めた事業を、自分一人の決断で、清算をするのです。


 きっと、並大抵の決断ではなかったと思うのです。


 部下に事業を経営させながら、会長か何かに自分を置いて、気楽にやればいいのに、呑気な私などは考えるのですが、彼にとっては、そんなことは邪道に違いなかったのです。

 ですから、彼の事業を継承する優れた能力を持つ何人かに、彼はその遺産を渡し、彼らに彼の事業を継承させたのです。


 そんなことを私が知っているのは、彼のところで私の教え子の一人が世話になり、その事業を継承した一人と結婚をしたからなのです。


 まぁ、彼の表情から、過去のことはあまり語らないという強い決意を感じ取っていましたから、私も友人として、それ以上の話はしませんでした。


 彼、軽井沢で、自然とともに暮らしているっていうんです。

 しかし、この夏はともかく、冬は初めて体験するので、この春の寒さを体験した彼は、これから冬の準備を始めるだなんて、そんなことを言うんです。


 私の家に暖炉をしつらえていることを知っている彼は、以前、電話をして来て、暖炉は暖かいかと質問をして来ました。

 軽井沢に別荘を持つという時のことでした。


 だから、暖炉より、薪ストーブの方が暖かいし、料理もできるから、その方がいいと忠告をしてやったことがあるんです。


 ですから、彼の軽井沢の宅には、それがあると言います。


 そうか、薪は自分の敷地から調達するから、今から薪を作る、だから、準備を始めるだなんて言うんだなって、私察したのです。


 私のような、勤め人と違って、彼のように事業をしていた人間は、それに、トップに立ってあれこれと指示を飛ばしていた人間は、組織から離れると、どうなんだろうとそんなことを彼を前にして思っていました。


 そしたら、彼の方から、一人っていうのはいいもんだなって、言葉をかけて来たのです。


 書類を見て、判子を押して、報告を受けて、うまく言っていれば任せて、そうでなければ口をさして、そんな生活ではなくて、自分の頭の中で、考えて、書類もなし、当然、判子などおすこともなし、前夜に思ったことを、翌朝から実現に向けて活動するんだ、最高だぜって、白くなった髪の毛を右手で梳いて、これが彼の癖なのですが、そうして私に語るのです。


 その気持ち、私も、よくわかるのです。

 だって、今の私が、そうですから。


 ひとりっていいよなって、私も彼に言葉をつなぎました。


 彼もまたうなづきました。

 そして、彼、こうも言ったのです。


 人間って、どうして、上下を作り、損得の関係を作り、世の中をややこしくするのかなって。

 私などと違って、彼は、上下、損得の世界に生きて来た人間ですから、そのことをしみじみと思っているに違いないのです。


 給料を払って、社員の生活を支え、そのために仕事を請け負う親会社の意向をいつも気にしていたはずです。

 私などが想像もできないありとあらゆる問題に面と向かって来たはずなのです。


 だから、彼、こんなに老けてしまっているんだと、私、思ったのです。


 でも、ひとりで、何事もやらなくてはならないのだから、楽しいだろうと私が言いますと、彼、大きく頷いたのです。

 きっと、彼、軽井沢で生活をし、ひとりで何事もやっていけば、若返るのではないかと私思ったのです。


 次に会うような時、今度は、あまりに若い姿に、きっと驚くのではないかって。

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 ひとりっていいよな 中川 弘 @nkgwhiro

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