第2話 二つの印璽
まことにおめでたい今年の十連休の最中のことでした。
ご退位とご即位の様子をテレビで見ていて、実は、思い出したことがあるんです。
いやね、私の務めていた学校でのことなんです。
最初の学校の上司は、決裁を、印鑑ではなく、サインでおこなっていました。
そのサインが、なんというか、おたまじゃくしのようなものだったんです。
自分の名前をアフファベットでいっきに書き上げたらしく、それがないと、何もできない、そんな仕組みを作った上司だったんです。
もちろん、彼には、先見の明があり、少子化の到来をデーターを使って、予測し、かつ、対応をしてきた方ですから、私など尊敬をしていた上司なんです。
その上司がいなければ、あの学校は立ちいかなかったんではないかとさえ思っているんです。
でも、サインがなければ、何できないというシステムを作るくらいですから、その我の強さ、人間の濃さというものが、お分りいただけるかと思います。
ですから、当然のごとく、職員からの逆恨みも半端ないって、そんな感じであったんです。
教師の世界っていうのは、そこが子供を介在して成立している社会ですから、表向きは実にスマートなものなのです。
でも、ちょっと裏に回れば、つまらないことで人の揚げ足を取ったり、それとなく人を潰しにかかったり、そんなことが平然と行われる社会でもあると、私など思っているんです。
表が仮面をかぶっていれば、裏ではその仮面の下に隠された醜い顔が必然的に出てくるというわけです。
ですから、理事会で、この上司が解任されると、当然のごとく、裏の醜い性状が露骨に表れてくるというわけです。
ある教師は、掌を返して、罵詈雑言をその上司に浴びせるようになりました。
ついこの間まで、コメツキバッタのように頭をペコペコ下げていたのに、それを他の教師も生徒もみていて、ちょっと度がすぎているよねって話をするくらいだったんです。
また、ある教師は、その上司によってうだつがあがらなかったことを非難し、自分の評価を改めるように誰彼なく求めてきました。
つまり、組織の、箍(たが)が緩むんで、いや、外れてしまったということです。
サインでことを済ます上司がいなくなった学校に魅力が消えうえせてしまったのは、どうしてだろうかと、私、今でも思っているんです。
もう一つは、これもまたひどい話なんです。次に勤めた学校のことなんですがね。
その上司に、可愛がられ、育てられてきた幹部たちが、なんと、その上司の追い出しにかかったという話なんです。
ある日、それは突然に起こりました。
もっとも、それは小さな小さな壺の中で起こったにすぎない出来事なのですが、彼らにとっては、意を決した出来事ですから、彼らだけの決定的瞬間まで秘匿されるのは当然のことです。
理事会で、最後の議題が終わると、それは起こりました。
理事の一人である弁護士が、緊急議題を出し、上司の解任を提案し、投票権のある理事の挙手を求めたのです。
上司は、それを承知していなかったのか、それとも、承知していた上で、彼らに暴言を吐いたか、それは分りません。
お前たちを取り上げ、これまでにしてきたのは、この俺だと、叫んだのです。
上司を追い出した彼らは、このままでは学校が立ちいかんと切迫した思いがあったのです。
だから、もっと、合理的な経営をしていかねばならないと、そういう思いであったのです。
双方とも言い分にはそれなりの正当性があったのです。
理事会の席で、あの弁護士が、上司から印鑑を預かれと事務員に指示を出します。
法を心得ている者は、こういう時は冷酷に振る舞うことができます。
半年後、その上司は失意の中で亡くなりました。
あの冷酷な弁護士に、幹部教師の一人が、もう少し待っていれば、あんなことしなくても良かったと、ボソリと言ったのです。
しかし、もはや後の祭りです。
侍従が、厳かに捧げもつ小さな箱のなかには、国の印と天皇の印が入っていると言います。
縦横9センチ、重さ4キログラムほどある金印です。
国璽御璽(こくじ ぎょじ)と呼ばれるものです。
それが新天皇に、つつがなく、承継された画面を、連休の最中、私は見ていました。
その光景をまざまざと見て、私、私の周りで起こったささやかな、どうでもいいような、でも、立場を左右に分けた下衆な人間のありようを、思い起こしてしまったのです。
あの人たち、今頃、何を思って、あの二つの印のありようを見ているのかって。
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