ひとりっていいよな
中川 弘
第1話 浮かび上がるクエスチョンマーク
ウッドデッキで、そこにおいたポットで育てたそら豆。
幾分、小ぶりではありますが、それでも、初収穫を果たしました。
晩御飯は、そら豆を塩茹でして……とウキウキしながら、二階にあるリビングに上がっていくと、常につけっぱなしにしているテレビから、ニュースの音声が耳に入ってきました。
耳慣れない、「退職代行」なるものの、それはニュースでした。
一体、何のことやらと、そら豆を手にしたまま、私はソファーにどっかと腰を落として、アナウンサーの言葉に耳を傾けます。
三十代ほどの、顔を隠した男性が、テレビの中で語っています。
休日でも、お客のクレームがあれば、出社して、まったく、自分の時間がないんです、こんなんでいいのかって、それで……
分かるよ!分かるっ……
仕事って、そんなもんだよ。
もっと、いい職場があれば、そっちに行きたいって思うこと、誰だってあるんだって。
私、そう思いつつも、でも、なぜ、退職するのに、代行を使うんだって、そんなクエスチョンマークを頭のはじにかざしながら、画面に見入っていたのです。
この男性、代行に、手続きを任せながら、その間に、新しい職場を探し、今は、自分の時間も持てて、幸せだって語っています。
それにしても、退職代行なるものにあしらわれた、この男性の会社、何とも哀れだなって思ったのです。
きっと、この会社からすれば、もっと言うなら、人事や直属の上司など、けったいなことやないかって思っているに違いありません。
ニュースは、辞めた男性の立場からこの一連の出来事を扱っていました。
この男性の会社は、休日も働かせるブラックな雰囲気がある、そんな空気がニュースを流す背景に漂っていたのです。
そら豆のさやを手にしたまま、ソファーに腰掛けている私の頭の横に浮かび上がったクエスチョンマークは、さらに、もう一つ増えました。
何で、自分で、かれこれこう言う事情だから、辞めさせてもらいたいって、直接に言えないんだろうかって。
私も、随分と長く勤めた学校を退職した経験を持ちます。
理事会が派遣してきた、新しくやって来た上司に、退職届けを出して、それなりの手続きを踏んだのですが、簡単には受理をされませんでした。
しかも、いろいろな気分の悪いことをされます。
いちゃもんをつけられたり、金銭的な不利をほのめかされたり、上司としては、何と言うこともないことも、辞めようとしている人間には酷な言葉が投げかけられるのです。
今、思えば、その上司にとっては、新しく学校にやって来て、立て直しにとりかかるのに、その一人の教師が辞めたいと言い出すのですから、この上司にとっては、困ったことだと思うのは当然です。
そんなことされれば、自分の評価が下がるからです。
ですから、余計な言葉も浴びせてしまうのでしょう。
でも、私は、魅力を失った学校にいるわけにもいきませんでした。
ですから、新しい学校に行くことを、心に決したのです。
退職するまでに、四ヶ月ほどかかりました。
受け入れてくれた学校も、そんな私の事情をよく理解してくれていたのですから、世間は捨てる神あれば拾う神ありと言うのは本当だと思ったのです。
もし、あの時、退職代行があれば、それを使ったかしらって、私のひとつ増えたクエスチョンマークは、実は、そのことであったのです。
きっと、私は、精神的な重しがあっても、自分でそれを果たしたに違いないって、そう結論づけたのです。
もっとも、テレビに顔なしで映るあの男性を非難罵倒する気などは毛頭ありません。
その男性の会社がいかなる会社かもわかりませんから、擁護もしません。
働き方が、今の日本では、大きく変容しているのです。
生涯をかけて、その会社で勤めようという時代ではないのです。より良い待遇、環境を求めて、働き手は移動していくのです。
アメリカであれば、そんなことしょっちゅうあることです。
会社を移動するたびに、その人の価値は高まっていくのです。
それに、そのようなことは弁護士に任せているのが実情でしょうから、何も、代行だと驚くこともないのです。
でも、きっと、私は、それでも、自分で自分のことは決着するだろうと思ったのです。
キザな言い方をすれば、古い人間であるからとでも言っておきましょう。
でも、今は、もうその必要はありません。
社長は私であり、唯一の従業員も私だからです。
自分一人で、好き勝手にやっているのですから、何も気にする必要などありません。
私が、辞めたいと思ったら、社長である私は、そうしようかって言うに違いありません。
これが私の働き方改革であると言えばそうも言えるのですが……、いけません、もうひとつ、また、クエスチョンマークが出て来てしまいました。
今度は何のクエスチョンマークかって……
それが、私自身にもよくわらかないって言う、クエスチョンマーク……なんです。
世の中、一体どうなっていくんだろうかって、なんだか、時代が令和になってから、急速に、私、時代から取り残されているんではないかって、そんな気持ちになって来てしまったのです。
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