雨に関する考察
琵琶湖の遊底部
雨。あるいはコーヒーやチョコレート。
「雨が見えるわ」
喫茶店の窓際の席で、人と車の往来を見ていた少女がふとそのようなことを言った。
「雨が……見える?」
「そうよ。雨が見える」
不可思議な言い回しだ、と少年は感じた。確かに『雨を見る』ことは不可能ではないし、考えてみれば『雨が降っている様子を見る』という言い方の短縮として成立する言い方だ。しかし、普通は『雨が降っている』とは言っても、『雨が降っているのが見える』と言ったりしない。
「不思議そうな顔をするのね。雨という現象はそんなに珍しいの?」
「いや……」
少年は否定の言葉を発したものの、その後が続かない。彼は雨が珍しいか、珍しくないかなどとは、考えたことも無かった。
喫茶店の外では、にわかに降り出した雨に通行人が追い立てられていた。少女と少年のいる喫茶店を格好の雨宿り場と捉えたのか、何人かが入店してくる。
だが、少女はその様子には無頓着で、窓の外を見ている。
「あなたにとって、雨は意識するほどのものではないのね」
「そう……だね……。別に、どうということはないものさ」
強がりに聞こえたかな、と思いながら少年はカップを口元に運び、中身の苦さに顔をしかめる。格好を付けてコーヒーをブラックで飲もうなどと考えない方がよかったと、彼は今更ながらに思った。
窓の外から少年に意識を向けていた少女が、そんな様子を見て小さく笑った。
「ふふ……。無理しなくていいのよ。嗜好品に嗜好品を注ぎ足しても、誰も怒らないんでしょう?」
「まあ……ね……」
少年はなんとなくばつの悪い思いをしながら、少女が差し出してくれた砂糖壺から角砂糖を取り出してはカップに投入する。その数、三個。残っているコーヒーの量に比べれば明らかに過剰で、コーヒー好きから喧嘩を売られても仕方のないような量だ。
コーヒー風味砂糖水を飲んで一息ついた少年は、少女に対して口を開く。
「ところで、さ」
「なあに?」
少年の問いに、少女は小首をかしげて続きを促した。
「君のところでは、雨は珍しいの?」
「珍しくはないわ。単に有害なだけよ」
「有害……」
「そ。雨が見えたら、ノックスソックスニュークリア、なんて囃し立てるような歌が出来るぐらいに有害なものよ」
少女は事も無げに言ったが、内容は軽いものではない。
「……“雨が見える”って、どういうこと?」
「うまく説明できないわね。今、窓の外で雨が見えてるけど、それがわたしにとって“雨が見える”ということ。……あなたはこれをどう言うの?」
「雨が降る……だね。それ以外の言い方はしない」
「ふうん……。雨が降る、ね。変な感じ」
不思議そうな表情を浮かべる少女を見て、少年は先程の自分もそういう表情をしていたのかと思った。
二人の間にしばらく無言が続いた。その間に聞こえるものは、雑音にしか思えない他の客の会話に、店主自慢のレコード盤から流れる優雅で荘厳なクラッシック音楽だけだ。
「ほんと……変な感じ。ここの人たちは、命の危険も無いのに雨から逃げようとする」
「誰だって濡れるのは嫌だよ。下手をしたら、風邪をひくし……」
「かぜ……?」
少女はオウム返しに尋ねた。少年はからかわれているのかと思ったが、少女の心底不思議そうな表情を見て、彼女が本当に風邪が何のことか知らないのだと理解した。
「病気だよ。熱が出たりとか……鼻水や咳が出たりとかする……」
「死ぬの?」
「お年寄り……とか体力のない人はそういうこともあるけど……普通は死なない。薬もあるから……」
「そう……。教えてくれて、ありがとう」
少年は、少女が何らかのショックを受けているように見えた。何か声をかけようかとも思ったものの、気の利いた台詞が出てこなかったので、コーヒーの残りを飲み干すことでごまかす。
「……ぜいたくね」
「えっ?」
「ぜいたくだわ……」
少年が問うても、少女は答えない。ただ、少年がやったのと同じように自分のカップの中身をひと思いに飲み干した。
「あー……味がしない」
「大事に飲んでたのに……いいの?」
「えっ? あなたがやったから、てっきりここの流儀だと思ってやったんだけど」
そう言う少女に、ふざけた様子は無かった。間が持たないから適当な行動に走ったとは言いづらい。
「もしかして……そういうことじゃなかった?」
真剣に問い掛けてくる少女に負け、少年は少し赤面して頷いた。そうすると少女はがっくりと肩を落とすという、意気消沈した仕草を見せる。
「なんだ……。もっと味わえば良かったなあ……」
「ごめん……。お詫びにもう一杯……頼もうか?」
少年の提案に少女は一瞬輝いた表情を見せたが、すぐに目を伏せて首を横に振った。
「いいわ。あんまりここのものに舌を慣らすと、あとが辛いから」
「そう……。ごめんね」
「いいのよ。気にしないで。勘違いしたわたしが悪いの」
「そんな……」
自虐的になり始めた少女を見て、少年は慌てた。この勢いで泣かれたりすれば喫茶店に居づらくなる。何より、クラッシック音楽の似合う喫茶店で、若い男女が面と向かって話をしているというのはかなり目立つ。自然と他人の意識が向きやすい状況で、女性の方が悲しげにしているというのは危険な状態だ。
「そ、そうだ……」
少年は慌てた様子でカバンの中を漁り、目当てのものを見つけた。封の切っていない板チョコ。これが現時点の少年が出せる、女性が気に入りそうな物品の最高峰だった。これの他には、年頃の少女が気に入りそうな品物は少年の手元に無い。
「こ、これ……お詫びにならないかもしれないけど……」
「え、これって……」
板チョコを見た少女から先程までの沈んだ雰囲気が吹き飛んだ。口元に両手を当てて驚きを表現しており、その瞳からも驚愕の色しか読み取れない。
「ほんとうにあったんだ……」
呆然とした呟きが少女の口から漏れる。自分の前に置かれた板チョコにおずおずと手を伸ばし、指先が当たるとびくりを身を震わせて手を引っ込めた。その様子を見て、少年が苦笑する。
「噛み付かないよ」
「わ、わ、分かってるわ。幻じゃないか、確かめただけよ」
少女は気勢を張って切り返したが、その気勢ほど台詞の内容はしっかりしていない。
何度かそんな事を繰り返したあと、ようやく少女は板チョコを手に取る。そして、体温で溶けるかもしれないと少年が不安になるほど、彼女はしっかりとそれを胸に抱いた。
「ありがとう。こんな……いいものをくれて」
「どういたしまして」
「でも、さっきの件の謝罪にしては、これは大きすぎるわ。何かわたしからも……」
「気にしなくていいよ。ぼくのところでは、珍しくないんだから」
「でも……」
納得のいかない様子の少女は、どうやったら納得してくれるだろうか。少年は少し考え、できるだけ芝居がかったわざとらしい口調と仕草で、思い切り偉そうな調子で言った。
「そうやって渋るんだったら、それを返してもらおうか」
少女は、最初はきょとんとしていたが、すぐに笑いを堪える顔になり、そして耐えきれずに笑い出した。
「ふふ……あはは……似合わないわよ……それ……っ!」
指で差されて笑われた少年もまた、笑った。恥ずかしさをごまかす意味もあったが、少女が笑ってくれたのが嬉しくて、笑った。
二人がひとしきり笑ったあと、不意に少女が窓の外を見て言う。
「あ……。雨、見えなくなってるわね」
「……ほんとだ、やんでる」
「ふうん……。ここでは“雨が見えなくなる”ことを、“雨がやむ”って言うのね。変な感じだわ」
少女は感心したように言ったあと、口元に微笑みを浮かべて続けた。
「でも、好きよ」
はにかむ少女。
美しかった。
雨に関する考察 琵琶湖の遊底部 @biwako_no_yuteibu
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