貴方の気紛れが起こらなければ、また明日
綿柾澄香
「もう、別れよう」
「もう、別れよう」
そう振り絞るように言い放ち、私の返事も聞かずに、彼は私に背を向けて歩き出した。その背中は昨日見た彼の背中とまったく同じものだった。少し猫背気味で丸く、悲しげな後ろ姿。
彼の『もう別れよう』という言葉を私は今日までにいったい何度聞いてきたことだろう。そして、これから何度聞くことになるのだろう。私は願う。何度だっていい。何回だって、その言葉を聞かせて欲しい、と。
彼の『もう別れよう』という言葉を、私は昨日も聞いた。一昨日も聞いたし、三日前にも聞いた。出来ることなら、明日にもその言葉を聞かせて欲しいし、明後日、明々後日にだって聞かせて欲しい。
今までに何度も見てきたその丸くて悲しげな後ろ姿が、徐々に遠ざかっていく。それを眺めながら、私は小さく呟く。
「貴方の気紛れが起こらなければ、また明日」
と。
私が彼と出会ったのは大学生のときだった。付き合い始めた理由は至って平凡。端的に言って、私の一目惚れだった。学食で見かけた彼に惹かれて、友達中に彼の情報を聞きまわり、私と彼の友人を巻き込みながら、何とか交際にこぎつけた。この時ほど異性に対して積極的にアプローチしたことはなかったと思う。
そうして付き合うことになった私たちは無事に大学を卒業。社会人として荒波に揉まれることとなった。そして、社会人となってから二年目の夏。彼は事故に遭った。
自転車を漕いでいた彼の元へ、スリップしたワゴン車が突っ込んだのだ。不幸中の幸いだったのは、彼の命に別状はなかったということ。最悪だったのは、彼の脳に重度の障害が残ったことだった。
端的に言ってしまえば、彼の脳は記憶を一日しか維持できなくなった。目を覚まし、一日を過ごし、眠りに就くと、その日一日の出来事は全て綺麗さっぱり消えてしまうのだ。
朝、目を覚まし、枕元に置かれたノートを手に取る。そして、自分の置かれた状況を知り、彼は一体何を思うのだろう。そしてどんな気持ちで一日を過ごし、眠りに就くのだろう。正直、私には想像もつかない。目を覚ますと、記憶は一気に飛んでいるのだ。そして、眠ってしまえばその日一日の記憶が消える。そんなの、毎日生まれて、死んでを繰り返しているようなものじゃないか。それを、彼は実際に経験している。今も経験し続けているのだ。
彼が病院から退院してから三日目の朝、彼からメールが来た。文面は至ってシンプルで、ただ一言『会いたい』だった。
約束の時間、約束の場所に着くと、彼は自らの脳の障害のことについて話した。彼も、私と同じことを思っていた。この状況は、まるで毎日死を経験しているようなものだ、と。記憶を積み重ねることのできない自分と一緒に居ても、君に未来はない。だから、
「もう、別れよう」
そう言って彼は背を向けて歩いていってしまった。
その日の夜、私はずっと涙を流し続けた。そして次の日、彼から『会いたい』というメールが届いた。私は訳がわからずに、昨日と同じ時間、同じ場所に向かうと、彼が昨日と全く同じ話をし、そして「もう、別れよう」と言って歩いて行ってしまった。
不思議に思って、彼のお母さんに電話をしてみると、彼女はごめんなさい、と電話口の向こうで謝った。
「あの子ね、あなたを振って帰ってきた後、ノートも書かずに泣きじゃくるの。そして、泣き疲れて眠ってしまうの。だから、朝目覚めるとあなたを振ってしまったことも忘れてしまっているみたいで。今日、あの子が同じように眠ってしまったら、私がノートに書いておくから……」
と言いかけたところで、私は彼女の言葉を遮った。
「いえ、書かなくても大丈夫です。例え彼が、私を振るためだとしても、会いに来てくれるなら、とても嬉しいです」
そう、今の彼の一日は一生に匹敵する。その貴重な一日を私なんかの為に費やしてくれる。それがどうしようもなく悲しくて、そしてどうしようもなく嬉しかった。
今日の彼は昨日の彼と同じ彼だ。ならば、基本的には昨日の彼と同じ行動をとるはず。私を振って、家に帰って、泣きじゃくってノートに書かずに眠りに就く。
彼が気紛れで、帰ってすぐにノートに書いてしまわない限りは、再び彼と出会える。
今日も彼からメールが届く。内容はもう見なくてもわかる。いつもの時間にいつもの場所で彼を待つ。そして、今日も昨日と同じ彼が来る。昨日と同じ表情で同じ話をして、昨日と同じタイミングで、
「もう、別れよう」
と言う。そして、昨日と同じように振り返りもせずに彼は歩いていく。少し丸くて悲しげな後ろ姿。
その後ろ姿を眺めながら、私は祈るようにして呟く。
帰った後、彼が気紛れでノートに私を振ったと書いてしまわないように、と願いながら。
「貴方の気紛れが起こらなければ、また明日」
と。
貴方の気紛れが起こらなければ、また明日 綿柾澄香 @watamasa
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