銀のお妃

サンドリヨン。サンドリヨン。サンドリヨン。

—頭の中で、またしても継母の声が響く。私はもう、「灰かぶり」ではないというのに—


 純白のシーツの中で、若い妃は身を起こした。時刻は朝5時、早起きの皇太子はすでに寝床を抜けて、彼女はたった一人だ。もう間もなく、侍女や女官たちが寝室のドアをノックするだろう。「王妃様、お目覚めでございますか。」と。

 早起きというのなら、特に苦ではない。こんな身分なぞ夢のまた夢だったあの時、この時間よりもさらに早く起きていたものだ。眠れなかった。暖炉の前とはいえ、寒々としていたから。

「王妃様、お目覚めでございますか。」

「本日もご機嫌麗しゅうございます。」

「おはよう。」

 彼女の髪は豊かな蒼灰色で、それを上等の豚毛のブラシが梳いていく。一櫛ごとに髪は艶を増し、朝日に照りはえる。やがてそれは次女の細い指先で巧みに編み上げられ、沢山の品の良い飾りが付けられる。


 髪梳きが終わると着替えの番である。フリルのたっぷりとしたネグリジェが、磁器のような肌から滑り落ち、よく洗われた肌着に取り替えられる。元から肉のない身体つきは、コルセットでさらにほっそりと締め上げられ、触れれば手折れんばかり。その上からさらにクリノリンが被せられ、最後に贅沢に布を使ったドレスが着せられる。色使いは派手ではないが彼女の目の色に合わせられ、これも青味がかった銀色をしている。質の良いシルクサテンのドレープが、海に揺蕩うがごとく波立ち、彼女が身動きするたびにその仕草を一層優美にみせている。胸元の形、袖、フリルやレースといった全体の飾り付けは若々しさを装わせるものだ。


 彼女は、陛下との結婚式、そして戴冠式といった特別な場合を除き、ほとんどいつもこの銀のドレスを身につけている。それで、誰言うともなく今では「銀のお妃」と呼ばわるようになった。このドレスの好みだけは、お仕着せを着せられる中で唯一彼女が決めたことだった。


 着替えが終わると陛下とのご対面、身辺の臣下たちとの挨拶、朝食、それが済めば謁見である。朝の謁見の時間は、身分の貴賎なく王妃と対面することができる。そして、

—今日は、いないかしら。

この時間が、王妃の最も緊張する場面である。


王妃がかつて「サンドリヨン」と呼ばれていた頃。亡き父の後妻とその娘姉妹は、容姿も優れ心根も優しい彼女に非常に執着し辛く当たったものだった。だから、その執着心が、彼女が妃になったからといってたちまち消えようとは思えなかった。そう、継母たちの執着心は筋金入りだ。何しろ、父亡き後ろくな収入の途絶えてしまったそれからも、「夫が元男爵だった」ということに価値を求め、没落した屋敷にい続けたのだから。自分は男爵の妻だったとか、義理の娘だったとかいうことにしがみつき、その身分を取り繕うために財産を食いつぶして贅沢を続けた。


「サンドリヨン」だった彼女は知っている。何も彼女を甚振りたいがためだけに下女を置かなかったのではない。家計が火の車ゆえに下女を置くことができなかったのだ。

 そんな義理の母たちだから、いつかは謁見を求めるかもしれない。そうでなくとも、宮殿に出入りする貴族を介して、何らかの接触を求めるかもしれない。そして、再び彼女に嫌がらせをするとか、あるいは金銭的援助を申し込むかするだろうと思い、気が気ではなかったのだ。


 今思えば継母のやり口は巧みだった。甚振るとはいえ、決して身体に傷をつけるようなあからさまな真似はしなかったからだ。虐待していたとはいえ、「サンドリヨン」の体に傷をつけたわけではない。

 しかも、一介の没落貴族の後家である。「たかが知れた」と考えたかどうか、前王は王子が妃を選んでからも特に継母を遠ざけるようなことはしなかったのである。貴族として宮殿に出入りはできないが、謁見の制限まではされていない。こうした措置は、後世の人々は「お妃が御心優しい方だったために、寛大な処遇をされたのだ」と語るだろうが、実のところ妃の所存などはこれっぽっちも働いてなどいない。

 彼女は、できれば地の果てまで継母たちを追い詰めたかった。ずる賢くも恐ろしいような美女でもある継母なら、いや、そうでなくとも二人の娘も、もしかして再び貴族の目に止まり、さらに裕福な家庭に入り込むかも知れないのだから。


平民との謁見が済むと、勉強時間となる。といっても、座って教科書を開くような勉強ではない。貴族たちと交流する社交術の勉強である。会う貴族みな、膝を折ってお辞儀カーテジーをしては妃からの声かけを待っている。「銀のお妃」は挨拶をしてやる。ご機嫌よう。ご機嫌よう。今日はいかが。ご機嫌よう。お妃さまもご機嫌麗しゅう存じます。


 一通り挨拶が済むと、ごく親しい貴族だけは居残ってサロンでおしゃべりに興じる。誰それが誰と恋の真似事をしたの、誰それが昨夜の舞踏会で見事に踊ったの踊らないの。銀の妃は愛想よく相槌を打つ。こうした話は、継娘たちから耳に胼胝ができるほど聞いてきたことだ。今更新しいものでもなかった。

 それだけに「聞き方のこつ」とでもいうものを心得ていたのであろうか、皆は何かと王妃に話しかけてくれるのだった。それはあながち妃にとっても満更でもない。聞き手として役に立てる、「頼りにされる」ということは、妃の自尊心を少なからず満足させるものであって、その上若いながらも最高位に立てるということはどんなに慎ましやかな彼女だったとしても快感を覚えぬはずはない。

 たとえ一部の女性陣から自分より尊大な態度を取られようとも、それは継母がかつてやってきたことで、だから彼女は寛大に微笑んで赦してやることが出来たのだった。したがって、年齢の割には人あしらいの上手い妃であった。


 しかし、こうした彼女の舞台の裏では、お目付役が暗躍していることにも気がついていたかどうか。いや気づかぬはずがない。なぜといって、妃の側には、まだその頃殿下と呼ばれていた夫と婚約したての頃からお目付役はいたのだから。

 すなわち、陛下の叔母御たちである。彼女たちが密かに選出した数多の花嫁候補を押しのけて、サンドリヨンは入内したわけである。それだから、始めは「何を、どこの馬の骨とも分かぬ小娘風情が」と目を三角にして見張っていた。

 ところが、説き伏せようにも王子が心を奪われているので彼女たちも方針を変えた。要は、世継さえ生まれてしまえば良い。サンドリヨンの出生くらい、あとで何とでもなる。今はこの灰かぶり姫を何とか妃に仕立て上げ、陛下と添い遂げさせねばならない。妃への一見献身的な気遣い、奉仕は、こうした計略の結果である。

 銀の妃の足元は、その足に一度嵌めたガラスの靴よりも脆く危うい。まさに、今にも粉々に砕けそうなガラスに両足を載せて立っているようなものだった。若く美しい王妃として君臨する代わり、子供ができなければあっという間にお払い箱である。


こうした圧力が、王妃の華奢な心身に堪えぬわけはない。王妃は、一人きりになると密かに行うことがあった。いくつもの廊下を抜けたさき、人気のない小部屋。自分だけが使うことのできる、ささやかな金庫にそれは安置されている。ある日に自分の足元を飾った、片足だけのガラスの靴。それを取り出し、手にとったり足を嵌めたりするのが慰めであった。これを履けば、王子と出会った時の思い出が蘇るからだ。

 この靴に触れたときだけ、自分は堂々たる王妃ではなく、哀れでか弱い少女なのだと思い出せる。冷ややかな感触は、つま先を伝わって昂ぶった頭を冷静にしてくれる。硬質であるのに、それは窮屈さを感じさせずに彼女の足にぴったりと嵌り、桜貝のような爪先を、円いかかとを包み込む。他の全てのものが他人から与えられたものである中で、これだけが彼女の財産であった。


 靴から再び足を外したとき、—あの人がこの靴を嵌めてくれることはもうないのね—王妃はさめざめと泣く。


若い国王はしかし、何もお妃を蔑ろにしたいわけではなかった。今でも時間があれば、恋を語らい仲睦まじくしていたい。愛情あらばこそ、彼女だけが使用できる金庫をあてがい、そこにガラスの靴を安置することも許した。だが自らの立場はそれより深い、情ある介入を許さぬ。若き王の双肩には、国の未来がかかっている。先代王亡き後、彼には学ぶことが山ほどあった。

 それは、「殿下」と呼ばれていた頃には分かり得なかった苦労と責任である。自分がどの姫君でもなく—政略結婚の相手として選ばれた隣国の王女ですらなく—「サンドリヨン」と呼ばれていた少女を選んだ後で、それが父王の偉大な考えをふいにしてしまったことに無邪気な王子だった彼はようやく気がついた。若き恋人として、「サンドリヨン」との恋愛を優先したことで「君主としての懸命さ」を捨ててしまったのだった。もし父や叔母の意見に耳を貸し、政略的には正しい結婚を選択していたら—自分の感情でなく理性で政治を行う王として波風立つこともなくいられただろう。

 サンドリヨンだった自らの王妃に叔母たちの見守りをつけたのは、むしろ彼女のためになれかしと思えばこそだった。宮廷のしきたりに詳しい叔母たちに認められさえすれば、王妃の宮廷内での立場は確たるものになろうと鑑みてのことであった。


閨でのひとときは、二人にとって唯一束縛から逃れるときであった。夜鳴鶫の窓辺でさえずる頃、ひっそりと身を寄せ合う。闇の中で互いの顔も見えないが、このときだけは心を通わせ、温もりを感じることができる。


 足先の冷えで、いつもより早く王妃は目を覚ました。この頃は何故かしら、妙に気怠い。それでいて、食欲は増えたようだ。うっすらと眠気の残る頭を振りつつ身を起こす。無性に寂しさを覚え、王妃は閨を抜け出した。


向かったのは、例の金庫である。どうしようもなく、足元から冷たいものが這い上がってくるような感覚がし、靴を履いて安心したかったのだ。王妃は鍵を開けるのももどかしく、ガラスの靴を取り出した。

そっと、靴を床に置く。朝日立ち昇る中で清らかな煌めきを放っているそれは、どこかしら触れてはいけないほど神聖に見えた。ネグリジェの裾をたくし上げ、王妃は右足をそっと滑らせる。


体重をわずかにかけたその時だ。不吉な音を立てて靴が軋んだ。途端に、王妃の顔が青褪める。差し込みかけた足を引き抜き、靴を恐る恐る持ち上げた。側面に、稲妻に似た亀裂が生じているのを、王妃の両眼は認めた。

一体どうしたことか。まさか、王妃の体重が支えられなくなったわけでもあるまい。これは、いつでも彼女の体に合うよう創られている。

 では、経年によるものか。曲がりなりにも魔法のかかった靴であるから、老朽もするはずがない。それとも妖精の加護が急に失せたのだろうか。


 王妃は恐ろしいものでも見たかのように、震える手でそれを摘み、金庫にしまいこんでさっと鍵を掛けてしまった。心臓が早鐘を打ち、貧血になったかのようにぐらぐらと目眩がする。早まった呼吸を抑えるのにしばらくかかった。


王妃懐妊の報せが飛び交ったのは、それから間も無くのことである。


 お目付役の態度が急に軟化し出し、以前と打って変わって王妃をいたわるようになった。周囲の家臣も出入りの貴族たちも、口々に祝福や励ましの言葉を述べる。王妃様おめでとうございます。お加減はいかがですか。お体にお気をつけなさいませ。

しかし王妃の内心はさざ波が立つがごとく揺れていた。もし靴を割ってしまったことが知れたら、どうなるだろう。「妖精の加護なき王妃」だと、底が割れたら。あのひび割れは不吉の象徴ではあるまいか。稲妻のようなあの亀裂、何か私への罰の印では。


そうした懸念もだが、何より彼女を悩ませたのは他でもない周囲の期待である。「健康な男児」を産めと。圧力に苛まれるたび、責めるような継母の声がこだました。


サンドリヨン。サンドリヨン。サンドリヨン。


—ああ、ああ、嗚呼。

警告のように呼び声が響き渡るごとに、彼女は耳を塞いだ。


 贅沢を知らなかった王妃のもとに、靴屋が度々訪れるようになったのはそれからのことである。王妃はほぼ毎日のように靴を作らせては届けさせた。身重になってから、足先が冷えて。もう少し、足に合ったものを作って。もっと爪先を包み込むように。注文する品はどれも、毛皮のスリッパであった。身重の体には踵のあるものは危のうございます、と叔母たちがいうからだった。

 銀狐や貂、兎の、ブルーと呼ばれる深い灰色の、それも特に品質の良い柔らかで繊細な毛皮を惜しげも無くあしらったものばかりが、足元を飾るようになった。サテンのドレスでは毛皮に合わないというので、これもビロードのものをいくつか作らせた。ちょうど秋も深まる頃だったので、毛皮は夏の倍の値段がしたが、誰も咎めるものはいなかった。

 王妃の心はしかし、満ち足りることがなかった。どれだけ豪華な靴を手に入れても、足先の淋しさは癒えない。時たま、例のガラスの靴を出してはみるのだが、それにはもはや包み込むような優しさは残されていなかった。爪先を入れてみても、硬い感触が窮屈に感じられるだけだった。ただのガラスの塊に過ぎなかった。冷徹で、無機質で、魅力の欠片もない。突き放すような鋭い光沢だけがぎらぎらと王妃の目を射た。

それに引き換え、毛皮のスリッパは確かに温かく、柔らかい。ところが、いささか物足りない。ガラスならではの硬質な安定感に比べ、柔々とし過ぎてどうも頼りない。だからと言って、ほかの材質には興味が持てなかった。シルクも皮も王妃の心を捉えはしなかった。実際、ガラス職人に特に頼んで、ガラスの靴を造らせてみたことがある。しかし、一流の職人の腕を持ってしても、実用的な靴は一足も造れなかった。欠けたガラスの代わりを埋め合わせるが如くに、王妃は靴を求め続けた。


もっと靴を。もっと靴が欲しい。もっと作らなくては。


だんだんと丸みを増すはらを抱えながら、毛皮に埋もれんばかりにして王妃は暮らした。娘らしい軽やかさはもはやない。その代わり、何人なんぴとも寄せ付け難い強かさが備わった。まるで何匹もの獣に守られているかのように。


 王妃は、重い身体をゆっくりと起こした。薄く透明な日の射す目覚めの時間であった。珍しく、王子が、いや国王がまだ閨に残っていた。彼は王妃が身体を起こすのを手伝うと、冷たい大理石に並べられた毛皮のスリッパをそっと王妃の片足に履かせた。

 つま先をやんわりと、しっかりと包み込んだ彼の手先から、温もりがじんわりと妃の身体に伝わった。


 その日、王妃の月は満ちた。

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