モノクロオムの庭
Peridot
モノクロオムの庭
ガーベラ。ダリア。マーガレット。トルコキキョウ。華々しいが、どれもピンとこない。では、いっそ多肉植物にしようか。サボテン。それとも、苔玉か。
Mは、インテリアショップの一角で足を止めた。
「ひとは ちきゅうを つくりたがる」
—そんなキャッチフレーズの垂れ幕とともに、観葉植物のコーナーが据えられている。シンプルな白壁を背景に、丸いガラス瓶に入った緑のかたまりが、Mの気を引いたのだった。小さな球形に収まった緑は、確かに地球のミニアチュールである。生花風のものから、本物の森を切り取って凝縮させたような緻密なものまでが、寄せ集められている。Mはかすみ草を使ったテラリウムを一つ手に取った。
無言で家の鍵を回す。暗い玄関で靴を脱ぎ、沈黙したまま自室へ入る。「帰った」と告げることも億劫だった。同居している祖母とは、もう最後にまともに口を聞いたのが最後だったか記憶していないほどに言葉を交わしていない。ドアは開いているので廊下からは祖母の部屋が見えるが、その中に一瞥をくれるだけで通り過ぎるだけの関係が続いて、何年になるだろうか。
たとえ家内ですれ違おうとも、互いに興味も示さない。祖母はそこにいるだけ。息づいているだけ。それでいて物凄く鬱陶しくて、側に居られるだけで息が詰まる、ただただどす黒い不機嫌を撒き散らす存在だ。彼女の撒き散らした不満や我儘は、黒黴のようにこの家に渦巻いている。Mは手の中のガラスをかばうように包み込みながら自室へ引っ込んだ。
テラリウムの中で、かすみ草は清らかにその花をつけている。この家の中でここだけが、この球体の中だけが清浄な空間である。素手で触れても穢してしまうように感じて、恐るおそる持ち上げて机上に飾る。透明なビンは白い光を湛えたちきゅうである。
純白のちきゅうはしかし、数日で色味を失った。水をやってみたり置き場所を換えたりしたが、もはや無垢な輝きは失われた。やがてMが新たなビンを手に入れるまで、時間はかからなかった。
今度のビンは細やかな苔類のものだ。しっとりとした緑はどこまでも深く、青々としている。葉の一枚一枚はあまりにも緻密で繊細で、それでいて巨木を思わせるような安定感がある。Mがもし極小の虫か何かだったら、この苔を大木の茂る深い森と信じて疑わないだろう。
苔の森が単なる土くれに帰したのは、Mの祖母の手によってであった。苔むしたビンは、老婆にとっては芸術品でもなく深淵たる森を思わせるものでもなく、汚らしい緑の湿った塊に過ぎなかった。無残にひっくり返った苔の破片が、ごみ捨て場に散らばることとなった。
Mはしかしめげなかった。むしろ、静かな闘志が沸き立つほどであった。情熱を心密かに燃やしながら、Mは次なるちきゅうを探し回った。さらに昏さを湛えたちきゅう、奈落のように濃密な、凝縮された鬱蒼とした緑。
ここにもない。ここも駄目だ。これもいまいち違う。
テラリウム売り場を転々としたが、Mの求めるものはなかった。もっと強く、黒さを漲らせていなければ。
数時間後、とある画材屋にMの姿はあった。
球体状のガラス。黒と白の塗料。木々のミニチュア。苔や草を作るための素材。砂。ピンセット。接着剤。Mは買い込んだ品々を抱え込むようにして自室へ引きこもった。
寂寥とした、灰色の砂漠に、ぽつんとそびえる枯れた大木は、じりじりと日に焼かれたかのように黒く乾ききっている。それを取り囲むように置かれたまばらな礫石。生命の陰は、一つもない。
それが、Mの新しいちきゅうだった。納得のいくテラリウムが見つけられなかったので、1からテラリウムを創造したのだった。本物の緑では表現し得ない、どす黒い陰影を持つミニチュアのテラリウムを。
一つ作り終えると、さらにもう一つ新しいものを作り出した。そしてまた一つ。また一つ。Mは手を休めることなく作り続けた。どれもこれも、色彩は皆無で、全くの白黒だった。色を着けることに興味を持たなかったからだ。灰色の草原。真っ白な砂漠。漆黒の立ち木。モチーフの数は極力少なく。生命感とは正反対の、色のない影の世界がMの作品であった。
モノクロオムの庭。白黒の題字で記されたバナーが、会場入り口に掲げられた。Mの作品はいつしか話題を呼び、個展を開くまでになっていた。制作を手がけてから1年、Mの手によるちきゅうの精密さはプロの目を引くほどだった。
とはいえ、M自身の個展開催への興味は薄かった。周囲で知らない人間がどれだけ騒ごうと、褒めようと貶そうと無意味である。
無味乾燥。地味。ドライ。虚無。ゼロ。色味のないテラリウムが体現するように、Mの精神は寂寞そのものだった。ただひたすら、モノクロオムのテラリウムを生み出すことにのみその興味と情熱は傾けられた。
観る人の感情はしかし、多様で多彩である。人々はモノクロオムの庭を鑑賞し、それぞれの感性に作品が響くのを感じた。色彩溢れる世界に住んでいながら、どういうわけかこの白黒の世界が心を捉えて離さない。本物の自然な植物では生みだし得ない、死んだような静謐な世界から、むしろ込み上がるパワーを感ずるのは何故だろう。人々は息を潜めて見入った。
「この中に入り込んでしまいたい」
誰もがそう感じた。作者の精神世界に取り込まれたい。そう願う人間も少なくなかった。彼らの目にはMの作業に没頭する姿は、ひたむきな職人を思わせるものですらあった。
とうに自室にはスペースがなくなり、Mは市内のアパートを借りてそこをアトリエにしていた。寝食を忘れて日がな一日作業に没入した。家に帰ることは少なくなった。必要最低限の頻度で、家に立ち寄る。そこでのMは擬似的に死んだも同然なほど、感情の起伏を示さなかった。かえってアトリエで過ごしている方が、明らかに生き生きしていた。たくさんの小さな白黒の宇宙に囲まれて、Mは夢中になって次のちきゅうを創造するのだった。
祖母が息を引き取ったのを発見したのは、Mが久しぶりに自宅へ戻ったある日のことだった。喪服と鯨幕。真っ白な面布とろうそく。自宅に俄かに白黒が押し寄せ、そして引いていった。死の影が立ち込め、そして消えていった。黒黴のような不機嫌の気配は、跡形もなかった。
Mはアパートを引き払った。それから間もなくして、ふっつりと「モノクロオムの庭」は製作されなくなったのである。
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