紹介文、あらすじにある「馬鹿馬鹿しくも哀しい」という一言が、どれだけの意味を持っているのかと読後に思わされる物語です。
読み進める内に私は、三人称で書かれているのにも関わらず、主観で夫婦を語る人の前に座っているような気持ちになりました。親しいのか親しくないのか分からない友達、或いはたまたま相席になった人か、そんな関係の人が何かのついでに出してきた話を聞かされているような、そんな風に。丁寧に描写があるにも関わらず、私はどうにも作中の風景も、この夫婦の外見も頭に広がらず、ただ向かいに座る人が話しかけてくる、そんな雰囲気を感じてしまいました。
この物語を主観で語る第三者の声は、朗々として聞き取りやすく、名優を思わせる程でした。
これは地の文が中心となっている事と、作者の持つ文才があればこそ感じられた事だと思います。物語を俯瞰できる読み口だからこそ、こんな感覚に陥ったのですから。
その物語は、確かに馬鹿馬鹿しいです。
確かに哀しいです。
しかし結末まで読んだ時、その人の胸に去来する想い、それ故に想像できる未来は、様々のはずです。
このまま悲劇的な結末に向かうのか、それとも一晩、寝てしまえば弥次喜多のような関係が続いていくのか、はたまた…そういう隙間がある物語にできるのも、作者の持つ感性故だと思います。
病院の待合室でipod touchに入れた青空文庫に収録された織田作之助の『夫婦善哉』を読みながら、医師に呼ばれた19の春を思い出した。
どうやっても上手くいかない夫婦が、それでも仲良く質素な暮らしをしていく物語だが、もしこの作品が戦後すぐに出たとしたら似たようなタイトルで出されていたのではないだろうか。
トルストイの「家庭の不幸は人それぞれだが、幸福はみんな同じようなものだ」という言葉にもあるように、この作品の夫婦は不幸であり幸せだ。
子供を作ることができない妻と悪い癖を持つ夫。その間には子供のことを始め、様々な出来事が日常の中で襲いかかってくるのだろう。
現在、愛には様々な形があってそれは私たちの思想や言動にも様々な影響を及ぼしている。
この物語はその一例で、普遍的な夫婦を表したものだ。いつか私もこんな妻になるのかもしれない。
そう思いながら物語を読んだのだった。
タイトルが手抜きだけにひとこと紹介も手抜き。
もち、レビューも手抜きで。
偏に手抜きと言っても様々な「手抜き」がある。
大きく分けて二つ。手を抜くのか、手で抜くのか。
さらに、何を抜くのか、抜くとは何かで派生していく。
読者は、手抜きの奥深さを知ることになるだろう。
タイトルの割に意外と手抜きじゃない内容。
一つの言葉で違う意味を持たせるのは、作者のアイディア勝ちだ。
例えば、上手い川柳なんかだと一つの言葉で二つの意味を持つ言葉を入れていることが多い。普通はその程度なところを二つ以上の意味を持たせている。
お主、なかなかやるな。
まあ、もっと上手いモノになるとカタカナ表記にして英語も混ぜてくるのがあるけど、素人にはムズイわなー。