第∞章 星を奪うもの

第∞話 ミロクボサツ


 ──これは、意思である。

 穢れきった、ただ時と共にうつろうだけの愚か者どもよ。

 奪うことを許されぬ、聖地を踏み荒らした罪を知るがよい──



 ほろりと、涙が零れた。涙は大粒の雫となって、床を濡らしていく。


「あれ、どうして──」


 愕然と両手に視線を送った。震えている。深雪は笑いながら泣いていた。

 深雪は何故、自分が泣いているのか皆目わからなかった。しかし、とても大切な存在を失ったような、深い喪失感に包まれていた。


(私は、いったい、何を失ったというの──)


「どうしたの、お姉ちゃん。どこか痛いの?」


 心配そうに奈々が見上げている。

 深雪は涙を拭って、奈々に笑顔を向けた。


「ごめん、なんでもないの」

「そう? ジュース、飲む?」

「リンゴ・ジュースは買い忘れたんだよ」

「大丈夫、オレンジ・ジュースならあるから。一緒に飲もうよ」


 奈々の言葉に少し考えたあと、深雪は頷いた。


「じゃあ、リビングに行こうか」


 奈々は心配そうな視線を向けつつ階段を下りて行った。深雪も階段を降りようとした。

 ふいに、二つの扉が視界に映った。主のいない、二つの部屋。何故、主がいないのだろう。

 深雪は不思議に思った。この家は、二人で暮らすには広すぎる。何故、こんなに広い家に、奈々と二人で暮らしているのだろう。

 深雪はリリィを抱いて、階段を下りた。奈々が手招きしながら、リビング・ダイニングに入っていく。

 リビング・ダイニングに足を踏み入れて、深雪は抱き抱えていたリリィを、するりと落とした。

 この灰色のチェック柄のソファに、誰かが座っていなかっただろうか。奈々ではない、誰か他の人物が。


「今日のご飯係はお姉ちゃんだけど、なんだか具合が悪そうだから奈々が代わってあげるね」


 奈々がコップを二つ持ってソファに座った。一つに唇を付けながら、もう一つのコップをテーブルに置いた。奈々は「お姉ちゃんの分だよ」とコップを指差した。

 深雪はコップに手を付けずに、奈々に尋ねた。


「ねえ、奈々。このソファに誰か座っていなかった?」


 深雪の質問に、奈々は怪訝な表情を浮かべながらコップをテーブルに置いた。


「やだなあ。お父さんなんて、初めからいないでしょ?」

「──お父さん?」

「……あは、口が滑っちゃった」


 奈々は立ち上がって、ピンク色のパーカーをぐいと前に引っ張った。


「ねえ、このパーカー、すごく綺麗な色でしょ?」

「──うん、とても綺麗な……」


 ピンク色のパーカーに視線を打ち込んだ瞬間、恐怖で全身が粟立った。


「日本には八百万の神様がいるっていうでしょ。すべての物の中に、すべての人の中に神様はいるの。神様が存在するように、仏様も存在するんだよ」


 奈々はジュースを一口飲んで、話を続けた。


「ねえ、お姉ちゃん。お姉ちゃんは弥勒菩薩の下生げしょうを信じる?」

「──みろ? 急に、なにを……」

「弥勒菩薩。五億七千六百万年後とも五十六億七千万年後とも言われる未来に下生して、人類を救済してくれる未来仏だよ」


 わからない。奈々がなにを話しているのか、少しもわからないよ。

 深雪の呟きが聞こえたのか、奈々は神妙な面持ちで言葉を紡いだ。


「弥勒菩薩は既に下生していると言ったら、お姉ちゃんは信じる?」

「……地球は、破壊された」

「じゃあ、訊くね。ここは、どこ?」


 深雪は頭を抱えて叫んだ。なにもわからない!


「仏様が一度だけ姿を現して、失われた人や物の時を動かしてくれるらしいよ。〝うつろわざる時〟を動かしてくれるっていう噂があるの」

 

 知らない。もうなにも聞きたくない。深雪はしゃがみこんで泣いた。


「私たち星喰い人は〝うつろわざる者〟たち。生者は、ただ時と共にうつろいゆくだけの儚い存在〝うつろう者〟──」


 奈々の気配を感じた。顔を上げると、奈々が目の前に立っていた。


「セカイは、夢を見ている。過去が見る夢の中で、私たちは〝うつろわざる者〟として生きるの。だけど、仏様が私たちに夢を見せてくれるのは一度きり。星喰い人として死ねば〝うつろわざる〟ことすら許されなくなる。それが、星喰い人」


 奈々に手を引かれ、深雪は立ち上がった。


「星喰い人の存在は正しいのか、それとも間違っているのか。誰も考えない。星喰い人は何も考えないし何も決めない。だから、もしもお姉ちゃんが考えて、決めたいというのであれば、決めればいい。〝過去が見る夢〟をただの〝過去〟にしたいのであれば、私はそれでも構わないと思う。だけど──」


 奈々は深雪を見つめながら、右手を差し出した。


「力が欲しいのなら、私が助けてあげる。お姉ちゃんが何を成し遂げても結果は変わらず、お姉ちゃんはうつろう存在には戻れないかもしれない。それでも、真実を求めるなら……自分で動くしかない。私が、助けてあげる」


 深雪は突っ立ったまま無言だった。ピンク色のパーカーから目が離せない。


「もう一度、訊くよ。ここはどこ?」


 深雪は深く息を吐いた。鮮やかなピンク色の謎が知りたい。弥勒菩薩の下生など難しくて理解できないが、ここがどこかと問われると、知りたくなる。


「星喰い星、と答えたら、きっと不正解なんでしょうね」

「──正解かもしれないし、不正解かもしれない。知りたいのなら、求めなさい」


 真実を求めて進もう。

 深雪が奈々の手を取ると、奈々は、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。




 ──すべてを無に帰さんとする愚か者どもに、終焉を──



                     【星を奪うもの──執筆予定】 

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星を喰らうもの various(零下) @2047

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