下
イズミがそう感じてから、何事もなく早一年が経つ。視線の先には変わらず本のページを捲り、書を読み耽るリブレの姿。本の虫、という言葉がぴったりである。今となっては、“果ての図書館”の司書として、魔術師として些かの違和感を感じざるえない。
「リブレ」
穏やかなテノールが、図書館内に反響する。
「……はい、どうかいたしましたか?」
声を掛けると、視線をあげるリブレ。イズミは問を投げる。
「海の旅は、順調か?」
ざっと見積もって、三年。三年だ。これほどまでに長く居座った来館者など聞いたことが無い。いくら人に迷いがあれど、これ程長考を要する悩みなど、それは只人が抱えていいものの範疇を超えているようなものである。いや、リブレは只人ではないのではあるが。
迷いがある者を導くのがこの図書館の司書たるイズミの務めである。幾度となく迷える者を受け入れ、なんらかの答えを得た者を送り出していれば――ある程度の見分けはつく。したり顔をしてイズミは見つめる。
「……どう、なんだ?」
畳み掛けるようにそう続ける。視線が交わって、数舜。やがてくすっとリブレは笑みを浮かべた。
「イズミ様は、鋭くていらっしゃいますね」
観念した、というようにそう告げるリブレ。安楽椅子に深く凭れ掛かると、きいぃ、と椅子の足が音を鳴らす。開いていた本をぱたり、と閉じて膝の上に置くと、彼女はイズミに顔を向けた。その面持ちは、ただの人間そのもの。
「今ではよく分かります。“果ての図書館”を訪れた当初、確かに私は、……迷っていました。何故造られたのか。何のために生きるべきなのか」
そうして、リブレは自身の手のひらを掲げて見る。造形からその動きに至るまで、人間そのものの作りなそれは、体温を持たない。
「人として造られ、持て余すような感情を与えられて。……不安、で」
「……」
赤い瞳は影って、その色合いを濃くする。理由を持たず生まれるということがどれほど心許ないことか。それを知っているからこそ、イズミは何も言えなかった。
「でも、沢山の書読んで、字句の海を航海して。此処で迷いを払うイズミ様を見て感じました」
本を胸に抱き、鮮やかな紅の色がイズミに向けられる。それは陰りの無い、爽やかな若葉を彷彿とさせるような笑顔。
「……私の得た
「それはまた……、なんというか。予想外だな」
予想の斜め上を行くリブレの見つけた答えに、イズミはなんとも形容しがたい苦笑を顔に浮かべる。造られた人形だということを何よりリブレは気にかけているが、きっと気が付いていないのだろう。
イズミの目からすれば、書を読み終えていく度に、人間への理解が、己の存在への理解が深まって、何より彼女の心が成長していることは一目瞭然だった。
自分よりもよっぽど人間らしいじゃないか。とさえ思うほどに。
「私の生まれた理由に対する答えは、……まだまだ、海を旅する必要がありそうですし」
字句の海に沈む彼女なりの“こたえ”は、一つとは限らない。海とは得てして広大なものであり、イズミでさえもまた航海を続ける者であることから言わずもがなだろう。
「……まだ、迷いは全て晴れていないと」
「はい」
「なら、……航海の片手間に、司書の真似事でもしてみるか?」
くつくつと喉を鳴らすようにして、イズミは笑う。前代未聞の魔導人形の来館者が、前代未聞の司書見習いとなることを所望するとは。ましてや、“果ての図書館”の蔵書を読破する、とはまた大きく出たものである。
「此処は“果ての図書館”。来るもの拒まず、去る者追わず」
足を組んで、肩肘をついてイズミは司書然として口を開いた。
「居たければ、居るといい」
そう告げたイズミの顔には、リブレが見たことのないような笑みが浮かんでいた。少しの歓喜が自身の胸中にある理由を彼が見つけるのは、また先のお話である。
* * *
さて。書物にとっては、読み手の性別も、年齢も、肌の色も、何もかもが気に掛ける必要のないことなのだろう。ましてや、産まれた者か、造られた者かとかいうことは些末な話で。広大にして果て無き海が、上も下も右も左もなく等しく同じように彼らの前に存在しているのだ。
彼も、彼の傍らに在る彼女も、今日も書を手にとっては字句の海を航海する。いつか、そのことに気が付くために。彼らなりの“こたえ”を見つけるために。
そして、図書館の
「「ようこそ、“果ての図書館”へ」!」
同じ航海をする者として、新たな航海者を迎え入れるために。
迷える者に、ささやかな導きを手渡すために――。
字句の海に沈む 蟬時雨あさぎ @shigure_asagi
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