中
本とは――書とは、先人の智の結晶であり、また、想いが形を持ったものであるといえよう。読書とは、過去の智に触れる事。時と場所を超えて、誰かの想いに触れる事である。
そして、それは人によっては途方もない困難を極める。
文字を読むこと自体が難しい場合、綴られた想いが難解である場合、意味すら持たぬ概念である場合もある。穏やかな海があれば、荒れた海も存在するように、読みやすい物語と読みにくい物語が存在する。それは航海者の熟練度因っても変わるだろう。
自分以外の者の心を自分なりに理解し、咀嚼し、自分の中に落とし込むという事は、存外に気力を要するのだ。
それを彼女は通し続けに、人間の時間にして二年。時折訪れる他の来館者が“こたえ”を得て帰っていく中、「まだ、答えがでない」と、“果ての図書館”の蔵書を読み尽くさんとする勢いで彼女――
「……」
魔力を
対に置かれている、安楽椅子に二人凭れ掛かって書を手に持つ。しかしイズミは、肩肘をつきながら彼女にじっと視線を向けていた。と、気が付いた彼女が不思議そうに見返す。
「……イズミ様、私に何か御用がおありでしょうか?」
本を読み終えるにつれ、彼女に蓄積される人間のデータが増えていったのが理由だろう。彼女はより人というものに、人間に近い感性や言葉遣いになってきていた。イズミは、普段同様に決まりきった問を投げかける。
「海の旅は順調か、と思ってな」
彼女はイズミの詠唱が余程気に入ったらしく、こう尋ねると海の様子とそれに対する自身の状況を文字通り航海に例えて伝えてくる。なんだかこそばゆい感覚がするが、魔術詠唱とは得てしてそういうものだ。
「……残念ながら海は
「それは困ったな」
何度目か繰り返した問答を、また行う。
海が
「言語は判るか?」
「ギリシア文字のようなのですが……どうにも解釈しづらさがあって」
ぺらぺらとType-IIがページを捲る音だけが、館内に響く。
Type-IIの持つ本の背表紙を見て、題名を確認する。確かにギリシア文字だが、いやに装丁が古く見覚えのあるものだった。イズミがギリシャ文字、読みづらさ、そしてこの題名から導いた答え。
「……
「いーりあす、ですか?」
Type-IIが首を傾げると、題名を知らずに読んでいたのか、と少し呆れた顔でイズミは見返す。
「原本の言語は古代ギリシア語。ギリシア神話を題材とした叙事詩だ」
トロイア戦争における神々の話。トロイの木馬、という言葉は現代でも使われており、聞いたことが有ることだろう。神らしさと人らしさと、両者が存在する時代の物語というのは、
「イーリアスなら、多くの言語で訳されている。それは原本の複製だが、読みやすい言語で読むこともできるが」
イズミはそう言うと、魔力を帯びた人差し指ですぅっを空をなぞる。すると、本棚を縫うようにして数冊の本が飛んできて空に浮く。装丁や本の大きさも、言語もまちまちであるが、揃って題名は「Īlias」を意味するもの、
「英語、日本語、……それ以外にも様々な言語で、多くの人が訳しているぞ」
考えるように、手元のイーリアスと、宙に浮いたイーリアスを交互に眺める。数秒の間が空いた後、視線をイズミに戻して、はっきりとType-IIは告げた。
「……これを、読みたいです」
「ほう」
「いずれ、訳された
「……そうか」
自分の意志を、はっきりと伝えるようになった。迷いはあれど、彼女の在り方の変容について見続けていたイズミは感じるようになった。
“果ての図書館”における彼女の、――Type-IIの航海の終わりを。
「では此れを貸そう」
イズミはもう一度、魔力を帯びた人差し指ですぅっを空をなぞる。すると、今度は
「これは……」
「読み解くための、古代ギリシア語用の辞書だ」
そう告げて手渡すと、彼女はぱあっと表情を明るくした。こうしていると、本当に人間然とした本の虫である。
「有難うございます!」
「これも務めだ。気にすることはない」
ふと、イズミは思う。
人間か、人間でないか。彼女を人間と呼ばない理由はなんだろう。人と同じように書を読み、思考をし、感情を露わにする彼女を。
そこで一つ、気がつく。書物からは読み取れない、自分が人間のサンプルとして彼女に教えなければならないこと。Type-IIが図書館を去る前に、伝えるべきことを。
「……
「え?」
イズミの唐突な言葉に、Type-IIは本から視線を上げる。視線がかち合い、それが彼の独り言でなく、自分に向けられたものだと理解する。
「星座の一つである、天秤座を意味する。正義と秩序の女神、アストライアーの持つ天秤が元だと言われている」
意味を諳んじるイズミに、よく分からないながらもType-IIは相槌を打つ。
「そう、ですか。覚えておきます」
「嗚呼。――いや、違う。その、あれだ」
珍しく歯切れの悪い物言いに、首を傾げる。人間に対する理解は深まったものの、Type-IIはまだ、他人の心の機微には疎い。慎重に言葉を選ぶように、そしてちゃんと伝えられるようにして、イズミは言う。
「いつまでも識別番号で呼ぶのは忍びないものだ。名としては、
そう、彼が気が付いたのは、彼女に未だ名が無いという事だった。
来館時に彼女が名乗ったのは、あくまでも識別番号である。物と物とを呼び分ける為のものであって、人間たる性質を持つ彼女にとってそれは名前でないことを、イズミは知っておくべきだと思った。いや、知っていて欲しかったのだ。
Type-IIの表情を窺うと、彼女は驚きを見せてから慌てて首を振った。
「いえ、……いいえ。勿体無い言葉だと思います。そして嬉しく思うのです」
名を頂くというのは、これ程喜ばしいことなのですね。
嬉しそうに笑う彼女に、イズミの口元も綻びを見せる。人間は、名を生まれたときに何気なく与えられる大事な自分唯一のものだ。彼女にとっても――時期こそ違うが――彼女だけの、大切なものになるといい、そうイズミは思った。
「これからは、どうぞリブレとお呼びください」
頷きでそれに返答して、我ながら良い名と付けたと内心思う。それをおくびにも出さずに、司書たる彼は己の責務を全うせんとした。
「分からない言葉があったら呼ぶといい。一通りは理解しているつもりだ」
「幾多の心遣い、感謝いたします。イズミ様」
「嗚呼」
辞書を片手に、Type-II――もとい、リブレは字句の海へと旅を始めた。その様子とイズミは、何処か複雑な面持ちで眺める。
始まりがあれば、終わりがある。物語にも、人生にも当てはまる摂理だ。しかし、存在することが当たり前になってしまった今。
イズミは近く来たるだろう別れに、少しの戸惑いを覚えていた。
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