第4話 侵入者
少年の全身から触れられそうなほどの怒気が飛ぶ。周囲の瞳、その全てに鋭い殺意が宿る。絶体絶命の状況の中、アクアマリンが庇うようにそっと私を引き寄せた。そのまま少年に向かって静かに語りかける。
『この子は私の恩人だ。奴らとは違う』
『そんな事わかるもんか! 人間はすぐ嘘をつく、自分のためならなんだって裏切る!』
アクアマリンの言葉に少年は間髪を入れず噛みついた。ぎらぎらと光る目が鋭く私を睨み付ける。ほぼ同時に四方八方から蔦が伸びてくる。正確に私に迫る蔦を、アクアマリンの指先から放たれた水滴が弾き飛ばした。
『!』
少年が息をのむ。大きく見開かれた緑の目にはどこか傷ついたような色が浮かんでいた。じっとアクアマリンの指先を見つめる少年を、アクアマリンもまた静かに見つめ返している。
やがて。少年の唇が震え、掠れた声がこぼれ落ちた。
『なんでだよ……。お前だって、森のファータじゃないか……。人間がどんな奴らか、知ってるはずだろ……!』
ぎゅっ、と少年の小さな手がこぶしを握る。その姿を見た瞬間、胸に突かれたような衝撃が走った。
(……そっか。あの子も、奪われてきたんだ)
大切なものを無くしたあの日、怒りを刻み付けるように握ったこぶし。他にどうすることもできなくて、ただひたすら手のひらに爪を食い込ませた。この痛みすらいつか敵を討つための力になると、呪いのように言い聞かせて。
人間を、侵入者を拒む彼の気持ちがわかってしまった。私の考えを裏付けるように、少年はゆっくり口を開く。
『人間は森を壊す。勝手に入ってきて、何もかも奪っていく』
もう一度蔦が動く。迎撃しようとしたアクアマリンの手首に木立の陰からリスが飛びついて来た。ほんの一瞬アクアマリンの動きが止まる。その一瞬で、蔦はあっという間にアクアマリンの手足を絡めとって動きを封じた。
『なっ……』
アクアマリンの焦ったような声が聞こえる。逃れようと身体を動かすたびに蔦がギシギシと音を立てる。そんなアクアマリンを横目でちらりと見て、少年はまっすぐ私を指さした。
『あいつをどうやって丸めこんだか知らないけど……お前は、ファータ【エメラルド】の名においてボクが必ずここで倒す』
「!」
言葉と同時に生き物たちが一斉に飛びかかってきた。あるものは爪で、あるものは牙で、的確に急所を抉ろうとしてくる。私は気配を頼りにそれを避けながらきゅっと唇を噛みしめる。
(ここで負けるわけにはいかない……。でも……)
私にはするべき事がある。まだ何も成し遂げていないのに、こんなところで森の養分になっている場合ではない。それなのに、エメラルドの痛みに共感している自分が武器をとるのを邪魔する。ここで戦うのが本当に正しいのか、わからなくなってくる。
腕に鋭い痛みが走った。見ると、いつの間に飛びついたのか小さなネズミがするどい歯を突き立てている。とっさに振り払うと、ネズミは地面に勢いよく叩きつけられて動かなくなった。
「ぁ……」
ぐったりしたその姿を見た瞬間、心臓に氷を入れられたような感覚がして身体がこわばった。私はほとんど反射のように膝をつき、両手でそっとネズミを持ち上げる。
(……やわらかい。それに、あったかい……?)
伝わってきたのは覚悟した冷たさとは程遠い生き物のぬくもり。よくよく見ると、やわらかい腹は規則的に上下している。
安心した瞬間身体の力が抜けた。飛びかかってきたリスが私の手の中を見てぴたりと動きを止める。後を追うように次々と動物たちがよじ登ってきて私の手元を覗き込む。のしかかる重みに耐えながらじっとしていると、やがてネズミはひくひくと手足を動かしてゆっくり歩き始めた。
「……良かった」
木立の陰へ消えていったネズミを見送って、私は小さく呟く。動物たちも満足したように私の身体から降りていく。入れ替わるように草が私の足を覆い始めた。
「っ、しまった……!」
慌てて立ち上がろうとするけれど、もう遅い。地面に両手を突っ張ってみても、足首から膝にかけて地面に縫い付けるように覆われた足はピクリとも動かない。次の瞬間何もなかったはずの地面から草が生え、手首に絡みついてきた。
万事休す。両手足を草に縛られた四つん這いの状態で、私は為す術もなくエメラルドを見上げた。エメラルドは冷たく私を見下ろし、指先にふわりと一枚葉を浮かべる。
『もう逃がさないよ。この葉一枚でお前の首を簡単に切り落とせる。……ボクの領域に立ち入ったこと、後悔させてあげる』
言葉と同時に葉がゆっくりと回転を始める。エメラルドが指を振るとさらに二枚、三角形を描くように葉が浮かぶ。斬られる、とわかっても手も足も動かない。……どこにも、逃げ場がない。
エメラルドが指を鳴らす。葉がこちらに向かって飛んでくる。諦めて目を閉じたその時。
『右!』
後ろからアクアマリンの鋭い声が飛んだ。何を考える間もなく私は目を閉じたままそれに従う。ぐっと足に力をこめ、思いっきり右へ。
手にも足にも草がくい込む。直後、ぶちぶちと不穏な音が聞こえてふっと手足が軽くなった。何が起きたのかわからないまま、私は横倒しに倒れこむ。少し離れたところから風切音が聞こえた。
(……助かった、の……?)
両手を見て、足を見る。草の痕は残っているけれどどこも切られた様子はない。首に手をあてると、きちんと繋がっている。ほっと息をついて身体を起こし、さっきまで自分がいた場所を見て私は息をのんだ。
下草が生い茂る豊かな森の中、私がいたであろう場所だけが別の場所のように乾いている。私を捕らえていた草は不自然に枯れ、引きちぎられてゆらゆらと頼りなく揺れている。何気なく一房手に取ると、草は砂漠にでもあったかのようにカサカサに乾いていた。
「……まさか」
それを見てひとつの可能性に思い至り、私は慌てて後ろを振り向く。ほぼ同時に蔦が伸びてきて左腕を絡めとった。強く引っ張られて体勢を崩しながらも私の目は迷わず「彼」を捉える。
「!」
そこにあったのは、想像したのと程遠い姿だった。細い身体は自身を縛る蔦にぐったりともたれ、苦しそうに肩で息をしている。雨もないのにしっとり濡れた藤色の髪が顔を隠し、表情は見えない。それでも苦しんでいるのであろうことはその姿を見れば十分すぎるほどわかった。
私が名前を呼ぶより少し早く、エメラルドが低い声で呟く。
『お前がここまでするなんてね。……残念だよ、アクアマリン』
言葉と同時に蔦が淡く光る。アクアマリンがくぐもったうめき声をあげた。同時に身体から力が抜け、私はその場に崩れるようにへたり込む。そんな私たちを見てエメラルドは平坦な声で言った。
『水脈をいじって森を枯らす。ああそうさ、お前ならこのセルバティア一帯を更地にだってできるだろうね。……だったらお前は敵だ。主と一緒に死ね』
左腕に鋭い痛みが走った。見ると蔦は腕をきつく締め付け、隙間から皮膚が盛り上がっている。呆然とそれを眺めるうちに、ふるりと若葉が芽吹いた。次の瞬間。
「っ、ぐ……!」
心臓に鈍い痛みが走り、私は胸をおさえてうずくまった。全身が痺れたようになってうまく息ができない。身体中の力が抜けていく。
重い瞼をなんとか持ち上げると、こちらを冷たく見下ろすエメラルドの姿が見えた。暗く淀んだ緑の目がじっと私を見ている。その背後でざわりと木が揺れた。
それを見た瞬間、頭の中に天啓のように記憶がよみがえってきた。森の中での乱闘、蒼波党の男たち、シールズ鋼。そして、苦しむアクアマリンの姿。それらがすべて頭をよぎったその時、私は最後の力を振り絞って地を蹴った。
ヨーヨーを取り出し、右手に握る。エメラルドがそれを見て視線を尖らせた。
『させるか!』
言葉と同時に葉が飛んでくる。それを叩き落とすと、私は欠けてしまったヨーヨーを握りなおして右手を大きく振りかぶった。
エメラルドの目が見開かれる。左肩が悲鳴をあげる。構わずに一歩踏み出し、私は手にしたヨーヨーを思いっきり投げる。ごきり、と嫌な音がして肩を激痛が貫いた。同時にヨーヨーは私の手を離れ、エメラルドの頭の横をかすめて飛び……、木立の陰から現れた男の額の真ん中に命中した。
男がうめき声をあげて崩れ落ちる。けれど、それを見届ける余裕は私にはなかった。ぐらりと視界が歪み、急速に地面が近付いてくる。
「! か、っは……!」
受身も取れないまま全身に衝撃が走り、呼吸が詰まった。心臓が握られたように苦しい。なんとか呼吸しようと唇をかすかに開け、私はその場で凍り付いた。
(っ……だめ、息が、できない……)
空気を吸い込んで吐き出す、それだけの動作ができない。ほんの少し唇を撫でる風は肺には届かず、苦しさだけが増していく。はふはふと無意味な空気の出し入れをしながら生理的な涙が頬を伝うのを感じた。
意識が朦朧としてくる。あれほど痛かった左肩の感覚がない。間近に迫った死の感触に私は黙って目を閉じる。……抗わず受け入れてしまったほうが楽だと、本能にも似た何かで知っていた。暗い瞼の裏で空色が煌めく。
(アクアマリン、ごめんね……)
せっかく受け入れてくれたのに、まだ何も成し遂げていないのに、こんなところでお別れだ。……せめて、私が死んだ後は彼だけでも許してもらえるといいのだけれど。
ぼんやりとそんなことを考えたその時。
『――――、』
霞みのかかった意識の向こうで懐かしい声が聞こえた気がした。その声につられるように少しずつ感覚が戻ってくる。ひんやりした手が額に、頬に、そして喉元に触れる。急に空気を吹き込まれたように息ができた。咳き込むと肩に激痛が走り、私はその場で転がって悶える。
『! すまない、こちらが先か』
私の様子を見て焦ったような声が言った。直後肩にも冷たいものが触れ、痛みが和らいでいく。荒く息をつきながら目を開けると、潤んだ空色が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
(……アクアマリン)
呼んだつもりが声は出なかった。まだ身体にうまく力が入らない。それは彼も同じなのだろう、よく見るとまだつらそうに肩で息をしている。それでも、どうしてかはわからないけれど彼は無傷でそこにいた。
(……無事で、よかった)
安心した瞬間耐えがたい眠気が襲ってくる。せっかく開いた目がもう一度閉じていく。遠くで二つの声が聞こえる。
名前を呼ばれた気がしたのを最後に、私はぷつりと意識を失った。
Gem Stones 紫吹明 @akarus
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。Gem Stonesの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます