Case Z さよなら、世界

 世界が終わりを迎える瞬間というのは、一体どのようなものだろうか。


 沢山の核ミサイルが世界中に降り注いだとして、その爆炎が世界を包む瞬間を認識できるのだろうか。


 その焔は、全身の血液が一瞬で沸騰してしまうほどに熱いのだろうか。それとも逆に、骨すら凍てつくほどに冷たいのだろうか。


 全てを噛み砕き、踏み潰し、蹂躙する巨大なバケモノがある種の荘厳さすら浮かべながら、何もかも破壊し尽くしていくとしたならば、最後の風景はどんなものになっているのだろうか。自分を踏み潰すバケモノの足の裏は鋼よりも硬いのだろうか。それとも逆に、軟体動物のように柔らかいのだろうか。


 しかし、核戦争が無くても、大きな怪物が現れなくても。


 我々が生きてきたこの世界はもうすぐ終焉を迎える。


 僅かな時間もしないうちにこの大地に落ちる巨大な隕石によって、世界の全ては何もかも消し飛ばされていく。


 もしこの世に神という名の絶対的な存在がいるとしたら、およそ46億年から今までの地球の歴史などなどまるで意味がなかったのだと無邪気に笑いながらリセットボタンを親指で軽く押し込むように、簡単に。この世界になどまるで意味がなかったかのように、人類の営みは地球もろとも木っ端微塵になるのだ。


 それが広大な宇宙に偶発的に、それこそ奇跡が起きて造られた地球という水と命の惑星が迎える、最期の時であった。あまりにも荒唐無稽で、あまりにも突拍子もない。しかし、それこそが現実であった。


 地球の命の残り時間、およそ90分。地球を足の下に置き、星々を見上げる少年と少女がいた。見晴らしがいい山の上に立つ二人の周りには何もなく、少し強く吹く風の音と遠くで聞こえる木々のざわめきだけがお互いの鼓膜を揺らしていた。二人は何も言葉を発することなく、ただアンタレスと夏の大三角が美しく光る夜の空を見上げていた。


 地球の命の残り時間、およそ85分。地球の上に背中を合わせて座り、お互いに目を瞑る少年と少女がいた。コンクリートに囲まれた街の外れに膝を立てる二人の周りには都会独特の喧騒など存在せず、夜の闇をかき消す眩い光を晴らす街灯だけが二人を照らしていた。二人は何も言葉を発することなく、ただ目蓋の裏に各々の世界を映していた。


「なぁ」


 街灯の下でどこか悲しく響く男の声がビルとビルの隙間から流れる生温い風に乗って少女の耳孔に向かって飛んでいく。


「ねぇ」


 星々の下で小さく響くメゾソプラノの声が、爽やかに駆け抜ける風に乗って隣の少年の耳孔に向かって飛んでいく。


「「これでよかったのかな」」


場所は違えど全く同じタイミングで同じ言葉が放たれる。お互いのすぐ隣にいる人間へと向かって放たれる言葉は、地球最後の夜にふさわしいかもしれない哲学的な問い掛けであった。


「それを決めるのは、キミの心の中次第だヨ」


 LEDの蛍光灯が放つ人工的な光の下で背中を合わせて座っていた少女は、少年の左手に自身の右手を乗せる。少しだけ爪を立てられたその指によって、少年の手の甲に僅かに傷が付いた。


「あたしは、後悔はないな。やり残したことは、たくさんあるけどね」


 少年は怪訝そうな顔を浮かべた。彼のその表情を見ることは出来ないはずなのに、まるでそれが見えていると錯覚させるように少女は口を尖らせた。


「失礼だな、例えばお母様……じゃない。お母さんともっとお話ししとけばよかったたなぁ、とか。美味しいものをたくさん食べたかったなぁ、とか。一回はチベットの山奥に行っておけばよかったなぁ、とか考え出したらキリがないぐらいにあるさ!」


 少年の左手に何度も何度も甘く爪を立てながら、開いた自身の左手は様々な形をとりながら夜の空に絵を描くように縦横無尽に動き回る。足元に置いてある真っ黒なレザー製のギターケースが、街灯の光を受け止めて鈍く輝いていた。


「でも一番は」


 空中を忙しなく動かしていた手は下がり、ギターケースに無秩序に貼られたもののうち、顔が勾玉のように変形したデフォルメされた犬のキャラクターが描かれたステッカーを撫でながらどこか悲しく呟く。


「恋が、したかったな」


 深い溜息とともに彼女の口から漏れた、初めて聞く弱音のような寂しく悲しい声に少年は思わず背筋を伸ばす。もたれかかった姿勢が少しだけ戻った分、少女は一層少年に背中を預ける姿勢になっていく。体温を伝え合う場所が少しだけ変わり、今度は背中全体が密着するような形になっていく。いつしか二人の手は、乗せることなく握りあう形へと変わっていた。


「産まれてから19年。愛を交わしたことなんか、それこそ星の数ほどあったさ。あたしのことを都合の良い肉布団かなにかと勘違いしてる奴もいたかもしれないし、あんな偉そうなことを言っときながら、あたしが気付かないだけで一方的にあたし自身の気持ちを押し付けていた。それこそそいつらにとってはマスタベだったかもしれない。それでも、あたしにとっては愛を感じていたんだヨ。愛を与えていたつもりだったんだヨ」


 少女の述懐に、少年は何も答えない。しかし無言は無視ではなく、彼女の右手を握る自身の手に力を入れたり抜いたりして応えていた。それが、彼女にとっては一種の頷きだと主張しているかのようだった。


「今、こんなことを言うのも変かもしれないけどさ。こんなでも、キミが愛を知らないまま死んじゃうのはさ。とっても悲しいことだと思ったんだ。誰からも愛されないまま死んじゃう人が目の前にいてさ。キミが、泣いてるみたいだったからさ。こんなカタチになっちゃったんだ」


 背中を合わせているために、少年は彼女の表情を窺い知ることは叶わなかった。憂いているのか、泣き顔を浮かべているのか。それとも、笑っているのか。二人は背中だけでなく後頭部も預けあい、頭の重さすら共有しているようであった。


「そういえば、あたし、キミの名前も知らないのにね! なんでだろうね? ま、こんな時だ。理由なんて、きっとどうでもいいんだ。止まり木が欲しかったし、止まり木になりたかっただけなんだろうね。結局のところは」


 思い出したかのように、明るい声を上げながらけらけらと笑う。その笑い声の中に、まだ若干の悲しみを残していることに、少年の胸の中で燃え盛る怒りの炎がぬらり、と揺れるのを感じていた。


「まぁ、僕もあんたの名前も知らないのにな。『星浜 結』なんて名前、どう考えたって偽名じゃないか」


 少年の言葉にバレたか、と舌を出して笑う少女の声は、先ほどまで悲しみに染まっていたものではなく、いつもの調子に戻っていた。やはり地元で活躍している球団からとった名前だと楽しげに語ったあと、後頭部に少しだけ体重を乗せていく彼女の頭の重さは、十数年生きてきた彼女の命の重さのようであった。


 少年の感情などお構いなしに、少女は声のトーンを落とし、小さく艶かしく呟く。


「なら、教えてあげるよ。あたしのホントの名前。それじゃ、先にキミの名前を教えて欲しいな。あ、レディファーストとか言わないでくれよ? あたしは淑女でもなんでもないんだからさ」


 一瞬の躊躇いの後に、少年は息を吐きながら名乗る。ここで意気地になって何も言わなかったところで、世界はじきに吹き飛んでしまうのだ。いっそのこと、胸の中で燃え続けている怒りも吐息とともに抜けてしまえばいいのに。そんなことを、少年は考えていた。


「征樹。竹房 征樹。もうこんな時間だ。突っ込まないから好きなように呼んでくれ」


「ふむ、じゃあ安直だけど、マサでいいか。マサ、あたしの、ホントの名前はねーーー」


 首を横に動かし、竹房征樹の肩に後頭部を乗せた星浜結とつい先程まで名乗っていた少女は、すぐ近くにある耳元に、熱い吐息とともに自身の名を口にする。彼女の名前を聞いた征樹は、特に表情を変えることもなく呟いた。


「案外、普通なんだな。折角だから、ここから最後まで、その名で呼んでやるよ。亜弥子。野々村亜弥子」


 彼女の名前を口にした瞬間に征樹は胸の中の炎がふ、と消え失せるのを感じた。何故、そんなことで炎が消えたのか。そして燃え尽きなかった彼の胸の中に残ったものを彼自身が理解することなど叶わないが、彼の胸に残っていたのは渇望だった。それが意味していることがまるで分からずに、征樹の目から涙が止めどなく流れ落ちた。


「マサ、それが愛なんだよ、きっと」


 征樹の嗚咽を聞きながら、亜弥子は静かに呟いた。彼女の手を痛いほどに握りしめている彼の手は、何かを求めて、何かを与えていた。



 街の至る所に眩いばかりに輝く街灯に照らされた二人が儚げに手を交わし、言葉を交わしているのと時を同じくして、煌めくベガ、アルタイルとデネブが形作る巨大な三角形を見上げながら、赤いTシャツを着た少年は隣に立つ少女に言葉を返す。


「わからないなぁ」


 星々を見上げて全ての終わりを待つ二人は、お互いの手が触れるかどうかという距離にいた。付かず離れずといった一定の距離において、時折二人の手がぶつかるが、弾かれるように離れていく。


 少年は隣の少女にちらり、と視線を移す。白いブラウスに薄い黄色い色のスカートが、彼女の頭上で光を放つ蠍の心臓、アンタレスの鼓動するように揺らめく紅い光を纏って一層美しく輝いているように見えた。


「それでも」


 また僅かにお互いの手の甲が触れる。今度は離れる事がないまま、どちらが先に動いたわけでもなく二人の触れたままの手がゆっくりと絡み合い、結ばれていく。


「俺は、山石さんとこの場所にこうしていられて、今は嬉しい、かな」


 右の掌に山石琴里の体温を感じながら、少年は再び視線を空へと移す。まだあの隕石は姿を見ることが出来ない。気象省の最後の発表によると、南東の空に現れ、そのまま夜空を彗星のように駆け抜けて日本の西側、太平洋のちょうど真ん中あたりに衝突するとのことだ。


 テレビに映る、子供の頃からずっと見続けていた気象予報士はすっかり白髪になっていた。それでも今までずっと変わらない笑顔を向けていた。そんな少年の日常の一つであった彼は、もっともっと日々を過ごしていたかった。それでも、共に生きてきた全てのものに感謝をしたいと泣きながら笑っていた。その涙に少年は、同じく涙を流しながら笑みを浮かべて生徒達を見送った高校の校長の顔が重なっていた。


「随分前に言ってたよな。もし生まれ変われたとしても、地球が無くなっちゃったら、って。思ったんだ。地球ってさ。何十億年も前に、いろんな星がぶつかりあってできた星らしいんだ」


 二人の握った手は、お互いの体温を伝えあって一つになっていく。高鳴り続ける少年少女の心臓の鼓動は、世界の崩壊が迫るこのような時にでも、このような時だからこそ互いの想いを無言で伝え合うようであった。


「だからさ、もし全てが消し飛んでも、今まで俺たちがいたこの星にさ。また、何十億年もかけて、新しい命が産まれるかもしれないじゃないか。生まれ変わりなんて信じられない。でも、そんなことがあったなら、また、会いたいよな。山石さんに。俺が好きになった、女の子に」


 少年の言葉に琴里は少しだけ目に涙を浮かべるが、すぐに袖で拭って再び笑顔を浮かべる。瞳にアンタレスと銀色の光を放つ月を映しながら、琴里は少しだけ声を震わせる。

 

「そうなのかな、いつかまた、私たち会えるかもしれないのかな。会えたなら、こうしてまた、好きって思いたい。うん。風間くんの手、あったかいね。私たち、生きてるんだね。最後の、最後まで。ずっとずっと、風間くんのあったかい手を感じたままで、いたいな」


 少年は少し顔を赤くした後に、無言のまま頷く。数日前に傷つけ合うように身体を重ね合わせた二人であるが、こうして手を握り合っているだけで多幸感で脳が満たされ、それ以上をまた求めることはなかった。


 山石琴里と風間孝太郎の二人は、それからは何も言わずにただ空を見上げていた。夏の満天の星空の下、大人になれなかった二人が感じているのは、手のひらに伝わるお互いの温もりと愛おしさだけであった。


 二人と二人が言葉を交わしているうちにも、世界の終わりは刻一刻と近づいていく。まず最初に気づいたのは、星々を見上げていた孝太郎と琴里の二人だった。見上げる星の中で、飛行機とも彗星とも違う、大きな大きな流れ星のようなものを視界に捉えたからだ。まるで巨大な箒星のように尾を引きながら、眩い光を放ちながら東の空から夜の闇を切り裂くように一直線に駆け抜けていく。


 握り合っていた手を思わず手放し、ほんの数秒間の文字通り非日常の体現であり世界を滅ぼすものが、こんなにも幻想的な光景だとは誰も思っていなかった。奇跡など起きるわけがないと思っていた。確かにこれは奇跡などではない。これが奇跡ならば、この星の全ての生きとし生けるものを満遍なく殺し尽くすようなことはしないだろう。




 それでも、大気圏に突入する時の摩擦熱で白い光を発しながら夜を駆け抜けるこの巨大な星は、地球最後の夜に相応しいと誰もが思う程に美しかったのだ。空を見上げている全ての人が息を呑み、自分の命がもう間もなく消えて失せてしまうという生命としての根源的な恐怖を一瞬忘れてしまうほどに。


「綺麗、だね」


「あぁ、なんか、凄く綺麗だ」


 星が空を通り過ぎ、山の陰から眩い光が放たれた。おそらく、これが全てを滅ぼす機械仕掛けの神が地球に降り立った瞬間なのだろう。瞬間的に理解した二人は、同時に顔を見合わせて全く同じ表情をする。それは、無理をして強がっているが、それでも笑おうとしたぎこちない笑顔だった。お互いがお互いを不安にさせまいとせめて笑っていよう。そう思っているような表情を見た二人は、改めて微笑んだ。




 「凄い光だネ。もうすぐおっきな揺れが来るらしいし、こりゃそろそろかな?」


 自身の身体の向きを反転し、涙を流し続ける征樹の背中を優しく撫で続けながら亜弥子は目を閉じて静かに歌い出す。それは、理解を超えた感情を抱えた少年に対しての慈愛と滅びゆく世界に対しての仁愛を含めた、ありとあらゆるものに捧げる愛に溢れた子守唄だった。


 その歌声も、もうじき征樹と世界に届くことは叶わなくなるだろう。それでも、細く嫋やかな歌声はもうすぐ終焉を迎える世界に少しだけ彩りを与えていた。


 程なくして遥か遠くの方から、地響きがやってくる。最初は軽い地震のようなものであったが、すぐに今まで体感したことのない激しい揺れに変わり、少し遅れて耳を塞ぎたくなるほどの轟音が秒速340メートルで更なる衝撃と共に世界に襲いかかる。


 孝太郎は力強く琴里の手を取り、自分の胸へと引き寄せた。もう離すことのないように、しっかりと。自身の腰に回された彼女の細い腕も、離すまいと力強く抱き締めていく。密着した体勢でも、もうお互いの声は聴こえない。地球全体がスピーカーと化したような轟音に耳を塞いでしまいたくなるが、たとえ鼓膜が破れたとしても、二人はお互いを抱き締める両手を離すことはなかった。


 ビルが崩れ、道路が割れる。ところどころから人々の悲痛な叫びが聞こえる。つい先程まで信じるものは救われると言い続けていた街宣車のスピーカーから助けを求める滑稽な声が流れる。世界が滅ぶ決定的な破滅の音が奏でられている間も、亜弥子は子守唄を止めなかった。世界に響く破滅の音が大きすぎて、征樹にはその歌声はもう聞こえないが、彼女が何かを歌っていることだけは理解していて、その行動に揺籠の中で揺れているような安らぎに近いものを感じていた。


 そこからはもう、全ての終わりまでにそう時間がかかることはなかった。


 痛みなど全くなかった。あるのは落ちながら浮遊するような形容し難い不思議な感覚と、反転していく視界の中で一瞬だけ見えた愛する人の顔。次に見えたのは高速で回転する数多の星の公転。そして何も見えない漆黒に向かって亜音速で突っ込んでいくような加速感。闇の向こうにあるのは、全ての命の輝きが消える場所なのか。それを認識することは、地球上のどんな存在にもできなかった。


 少年少女達は、大人になれずに死んでいく。


 それでも。


「俺は」

「私は」

「僕は」

「あたしは」


 不幸では、なかったんだ。


 今はただ、それだけでよかった。


 彼らが最後に感じたのは、抱きしめあったお互いの相手の体温だった。幸せとは少し違うかもしれないが、それでも愛おしい温度を感じながら、二人と二人は何処までも落ちていった。


 

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20-1(ナインティーン) 木村竜史 @tanukiss

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