鈴蘭に搦め捕られる

位月 傘


 お隣さんは頭がおかしいから、あまり関わらない様に、とは友人が引っ越してきた私に対して告げた言葉である。

 とんでもなく失礼だな、と同時にいったいどんな狂人が出てくるのだろうか、と思いをはせながらスタンガンを購入したのは記憶に新しい。

 しかし引っ越してくることを止められたわけでもないし、そこまで怖い人ではないのだろう。精々、へんなひと、止まりでなのだろう。家具の類が届くのは明日だから、今日はもう暇だ。善は急げというし、挨拶に行こうと手土産をまとめて掴み、身軽な格好で玄関を開けて、清々しい気持ちで一歩、踏み出した。

 なんとなく、例の隣人のことは後回しにしてみた。他の方はごく普通の、そして幸いなことに優しそうな人たちだった。もっと言えば、誰もその例の隣人のことについては語らなかったし、なにか不安を煽るようなことも言われなかった。

 友人を疑う訳ではないけれど、どうして彼女はわたしの引っ越し先の隣人が、頭のおかしい人間だと知っていたのだろう。下見に来た時も、たった今、人にそれとなく聞いた時も、どこも可笑しなところは発見できなかったというのに。

 まぁ、今更気にした所でどうしようもない。機会があれば今度聞いてみよう。ポケットにスタンガンを忍ばせたまま、チャイムを鳴らす。おおよそ人が生活しているとは思えないほど、扉の向こうは無音だった。壁の薄いアパートの壁は、理由にはならないだろう。

 一度出直そうかと考え直したところで、何の前兆もなしに扉が開かれた。飛び出しかけた悲鳴を紙袋の取っ手を握り締めることで抑え込む。

「本日隣に引っ越してきた――」

 ネットで調べて出てきた定型文を、マニュアル通りに口に出すよりも早く、目の前の長身痩躯の男に遮られる。

「いつ、帰ってきたんだい?」

 不自然なほど白い肌に、整った顔立ち――つまり一度見たら忘れることのないような初対面の男は、親しい者に見せるような表情で、そんなことを言ってみせた。

「あー、もしかして、昔あったこと、とか、あります?」

 確かに十数年も遡れば、この町で暮らしていた。でも生まれて一桁の記憶なんて曖昧なものだし、そもそもそんな昔のことなんてすっかり忘れてしまった。

「僕が、君を忘れるはずがないとも。君も覚えているだろう?」

「えっ、あっ、はい」

 にこにこと愛想のよい笑みで、そんなに嬉しそうな顔をされて、到底否と言えるはずもなかった。あとでばれたら後悔するのは私で、傷つくのは彼だと分かっているけれど。

 淑やかな笑みを深めた男に、罪悪感が湧き出てくる。同時に、この嘘が露呈することだけは避けなければならないと、強く心に誓った。

「隣に引っ越したから、また仲良くしてくれると嬉しいなぁー、なんて」

「もちろん。君のためなら、どんなことでもしよう」

「うん?……ありがとう?」

 確かに変ではあるのだろうけれど、害があるようには思えない。何よりこの時、こんなに慕ってくれているのにすっかり忘れている焦りで、他の事に気が回らくなっていた。

 ひとまず彼が疑いをかけてくる様子がないことに安堵する。しかしいつボロが出るか分からない。あまり会わないようにしようと、奇しくも彼女の言った通りになったことを胸の内で決めることとなったのだ。半ば押し付けるように紙袋を渡すと、新しい自らの基地へと逃げ帰った。もちろん、言葉通りに走りだして、脱兎のごとく逃げだしたのではないけれど。強いて言うなら、熊と出会った登山者のような心持で、しかしどちらにせよ逃げ出したというのは、疑いようもない事実であった。

 避けようと言ったって、隣の家なのだから接触は避けられないだろうと思っていたのに、あれから数日経っても見かけることはおろか、隣の部屋から物音もしない。はじめは安心していたが、ここまでくると不安になってくる。いかにも不健康そうな青白い顔色と薄い身体を思い出して、血の気が引く。そのことに思い至ったが最後、人並みの良心を持ち合わせている一般人が見て見ぬふりをするというのは、到底不可能なことだ。

 慌てて靴を履いて、鍵も持たずに飛び出した。どくどくと嫌な音を立てる心臓に呼応するように手元は震え、呼び鈴ひとつ鳴らすのにもひどく時間がかかってしまったように思える。

 相変わらず、薄い扉の向こうからは物音ひとつ聞こえない。数日家を空けることも、絶対に無い事ではないだろう。だというのに、嫌な方へ嫌な方へと、思考の海へ沈みきっていた。

 こういう場合はまず管理人さんに伝えに行くべきなのだろうか、と開かない扉の前で散らかる考えをかき集める。しかし予想とは裏腹に、またなんの脈絡もなく扉は開かれた。

「あぁ、どうしたものか。君から訪ねてくれるとは。何か困りごとが?」

「……特に理由はなかったんだけど、なんとなく、ね。なんか、ごめんね?」

「もてなしをしよう。君が好きだった菓子も飲み物も、すぐに用意をしよう」

 何ともなかったことは、焦った自分が恥ずかしいだけで済んでよかったけれど、この展開にはさすがに困惑を覚えて、つい男の顔をまじまじと見つめてしまった。彼はなんてことのないように扉を開けて、わたしが中に入るのを待っている。当然、一般人が浮世離れした美人の、しかも吐きたくない嘘を吐いている相手に、目力で適うはずもない。あ、鍵閉めるの忘れてた、なんて現実逃避しながら、わたしは同じ構造の、他人の家に上がり込んだ。

 彼の部屋は、申し訳ないけれど、意外なほど普通だった。寝具があり、机があり、椅子がある。ただ、そのどれもに使われた形跡を感じないところだけは、違和感を覚えた。慣れた様子で紅茶と焼き菓子を運んでくる彼にすっかり気を取られて、些細な違和感は直ぐに忘れてしまうことになったけれども。

 見覚えのないお菓子。確かに美味しいけれど、果たして子供の頃にこんな上品なものを食べたことがあっただろうか。紅茶も美味しい。だけど記憶にないほど幼いころに、この美味しさを理解できていたのだろうか。

 目の前の至極楽しそうな男に質問をするのは躊躇われた。かといってこの場で他に聞ける人間もいない。曖昧な笑みを浮かべながら、違和感を紅茶でお菓子と共に飲み干した。

 拍子抜けするほど何も起きることは無く、薄暗い室内はここだけ空間が切り取られているような穏やかさに包まれていた。

「明日は僕が迎えに行こう。部屋から出てはいけないよ」

「明日?明日は確かに暇だけど……」

 これは彼が私の部屋に来る、ということだろうか。それとも何処かに連れて行かれるのだろうか。

 深く考えずに部屋にあがってしまったが、何かされるならもうされているだろうし、今更警戒したってどうしようもない。誘われるままに頷くと、男は満足そうに笑った。黙っていると人形のようだけれど、笑った顔だけは普通の人にしか見えなくて、可愛らしさすら感じる。

「やぁ、おはよう」

 とはいったものの、何をするかわからないことについては困惑しかない。どうしてか、彼の声は有無を言わせぬ響きがあって、気が付いたら頷いている。あとになって考えれば考えるほど、不可解さに頭をひねる。

 手を引かれるがままに外に出ると、いかにもお高そうな車が停車しており、なんの躊躇いもなく車のドアの前までエスコートされる。流されるままに乗りこみ、びっくりするくらい柔らかいシートに、身を固くした。こんなに良い車に乗っているというのに、気分は貴族というより、誘拐されている心地だった。

「これってどこに向かってるの?」

「君も会うのは久しぶりだろう。彼女もきっと喜ぶはずだ」

 もしかして、また昔の知り合いだろうか。それは困る。だからと言って、走行中の車のドアを開ける訳にも、ましてや窓から飛び出すわけにもいかない。

 どんどん山の中に入っていく車に、不安を抱かないと言ったら嘘になるけれども、この男が都心の一戸建てのチャイムを鳴らしているところを想像して、それよりは可笑しくないだろうと独りごちる。

 まるで城のような広くて大きい家の庭へ、迷いもなくずんずんと進んでいく。すぐに品の良い初老の女性が、私たちを待つように立っているのが見えた。穏やかそうな笑みを浮かべた女性に、彼が優雅に頭を下げるので、つられるように同じ行動をとる。

「あら、あら。本当に見つかったのね。早くこちらにいらっしゃいな。貴方も着替えてらっしゃい」

「いってらっしゃい、僕は先に待っているから」

「え、え?私、どうすれば」

 女性は私の手を両手で包み、花が咲くような笑みを浮かべたと思ったら、すぐさま家の中に入って行ってしまう。見失ってしまいそうな女性の姿と、相変わらず笑みを浮かべている男を交互に見遣ったが、結局女性を追って部屋に入ることにした。

「もう着られることはないから、悲しくて全部棄ててしまおうかとも思っていたんだけど、残しておいてよかったわ。今日はどれがいいかしら」

 連れてこられたのは、衣装部屋、というところだ。舞踏会にでも行くのだろうかと思うようなドレスや靴、アクセサリーの数々に目を見張る。

 どうしてこうなったか分からない。でもここまでしてもらって嘘を吐くのも。後になってから真実を言うほうが難しいことを身をもって理解した私は、今度は自分の意志で頭を下げる。

「ご、ごめんなさい。実はあんまり、私、あなたの事をよく覚えていなくて」

「あぁ、そうだったの。でも、そういうことも、あるわよね」

 少し落胆した声、罪悪感が募るけれど、それ以上に肩の荷が下りた。頭をあげて、視界に入ったのは、予想外に楽しげな女性の顔だった。

「でも彼のことは忘れなかったなんて、やっぱり運命みたいで素敵ね」

 実際に自分の肩に乗っている荷物が、予想外に重たい事に気が付いて、曖昧な笑みが、意図せず零れた。

 有無を言わせず椅子に座らせられた私とは対照的に、彼女は世話しなく室内を歩き回る。どうにも沈黙に耐えらないこちらに気が付いたのか、彼女は歌でも歌うように穏やかに言葉を投げかける。

「あなたは昔よりおしゃべりになったわね。彼はいつまでたっても無口だけれど」

 呆れるようでも、悔しがるようでもなく、当然のように紡がれる言葉に首をかしげる。自分から積極的に話すほうではないかもしれないけれど、無口と言われるほどだろうか。そこまで考えて、確かに彼女に向かって話しかけてはいなかったことを思い出す。

「そんなに無口ですか?」

「えぇ、彼の声は商売道具ですもの。あんまり安売りしてはいけないわって教えたのよ。雄弁になるなら、自分のすべてをただであげてもいいと思う人の前だけにしなさいってね」

「声が、商売道具……」

「えぇ、えぇ。彼の声、特に歌声は素晴らしいわ。音楽に興味のなかった人間が、うっかり支援してしまうくらいには。あなたもこれから彼の舞台を見に行くのでしょう?なら、むやみやたらに声を出しては駄目よ」

 彼女はパトロン、というものなのだろう。言葉として知ってはいたが、現実で聞くことになるとは思わなかった単語に、つい真顔になる。という事は、彼は歌手か何かなのだろうか。真っ当な会社員、とか言われるよりは納得できる。

 確証は持てないけれど、ひとつ彼のことを知れたのはよかった。どうにも謎が増えてしまったような気もするけれど。それにどうして私も声を出してはいけないのだろう。彼の品位が下がるから、とかだろうか。うんうんと考え込んでいる間、業務的な会話しかされなくなっていたので、されるがままに着せ替え人形になっていた。 

 初めて着る上質なドレスと、普段より高い視界に、転んでしまうんじゃないかなんて心配が胸によぎるけれど、それを超えるほどの高揚感に支配される。少女趣味ではなかったはずなのだけれど。

「ねぇ、変じゃないかな」

「いいや、君はいつでも美しいとも」

 似合ってるよ、とか、可愛いね、とかならまだよかった。でも面と向かってこんな恥ずかしいこと、しかもその台詞が似合う人から言われて、思わず言葉に詰まるのは仕方のないことだろう。

「あ、ありがとう」

 にっこりとお手本のような笑みを浮かべ、手をとられる。まるで本当にお姫様になったみたいだ。再び車に乗り込み、窓から見える女性にペコペコと頭を下げた。ほんの少しだけ彼について知れたことと、一生着ることのないと思っていた衣服や装飾具に感謝を込めて。

「次はどこに向かってるの?」

「今日は君の好きな演目だ。君の最後の演目だ」

 うーん、何もわからない。どうしたってわからないなら、根掘り葉掘り聞きだして疑われるよりも、黙ってついて行ったほうが賢明かもしれない。どうせ着いたらわかるのだ。もう考えるのをやめたくなってきた。というかやめた。

 また車が止まる。今度は街の中であった。なんなら引っ越してくるときに見た覚えのある街並みだ。先ほどの女性の家も大きかったけれど、それよりも大きい。

「この劇場に出るの?あなたが?」

「さぁ、手を。静かにしていなければいけないよ」

「流石に会場でおしゃべりする勇気はないよ」

 憶えていないけれど、彼と会ったのは大分昔の頃らしいし、子供扱いされているのかもしれない。それにしても些か過保護な気がするが。

 いかにも関係者席、というような所に連れてこられた。もしかしなくても、花束とか持ってくるべきだったのでは。それと出演者を開園直前まで連れまわすのはまずかったのでは。

「ここから動いてはいけないよ」

 相も変わらず有無を言わせぬ声音で、至極当然の様にそう言われては、頷くほかなかった。

 もちろん個室にいる訳では無いので、周囲の席にひとり、またひとり、と座っていく。その誰もが私の顔を見てくるので、居心地が悪い。この薄暗い会場では、小さなポシェットの中に入った手鏡を出しても意味を持たない。

 動くな、と言われたけれど、顔に何かついていたりしたら、それこそ彼の恥さらしだろう。その場から逃げ出すように、重たいドレスを引きずってお手洗いに向かった。

「わっ、ごめんなさい!」

 正面衝突、ではないけれど、急ぐあまり向かいから歩いてきた男性にぶつかりかける。直前でお互いが気づいたことと、あまり早く歩けないヒールが幸いして、実際にぶつかることは無かった。

「こっちこそ――」

 自分よりも幾分か高い位置にある顔を見上たと同時に、男が動きを止める。やっぱり私の顔って、なにか変なのだろうか。

「あの、なにか」

「い、いや、すまない。君があんまりにも似ていたから」

「似てる?」

「言われたことないかい?あの歌姫に似ているって」

 あのって、どれだ。困った顔で愛想笑いを張り付ける。会場で私の顔を見ていた人も、似ているから驚いていたのだろうか。そんなに似ているなら、と少し興味が湧く。

「こういう場に来るの自体、初めてなので」

「そうなんだ。初めてで歌姫のそっくりさんが、彼の舞台に来るなんて。すごい偶然だな」

「歌姫は、よくその彼って人の舞台を見に?」

「付き合っていたらしいからなぁ。でも歌姫は彼に殺されたってもっぱらの噂だ」

 随分と物騒な話になってきた。その男の名前を聞く気にはどうしてもなれず、彼の顔を見つめることで続きを促す。男は男で誰かにこのことを話したかったのか、小声で意気揚々と続ける。

「ファンに刺されたって話だし、犯人も捕まったけれど、事件の直前から舞台に一切でなくなったんだ。二人ともね。そんな偶然あるって思う?だから当時は皆言ってたよ。彼が彼女を閉じ込めて、逆上した男が彼女を殺したんだってね」

「それはまた、なんというか」

 どこか物語じみている、というのが正直な感想だ。こういう場に来る人達は、みんなある種のロマンチストなのかもしれない。愛ゆえに閉じ込める、なんて本当にあり得るのだろうか。

 それでも足場の悪いところを歩いているような不安定さに苛まれるのは、私もこの空気に吞まれているからかもしれない。聞いてはいけないことを聞いてしまった気がして、足早に自分の座席に戻った。私には、その男が彼のような気がしてならなかったのだ。

 関係者席以外の場所は、既に埋まっているようだった。ひそひそと話をする、なんてことはなかったけれど、やっぱり彼らは私の事が気になっているようだった。

 しかしその居心地の悪さは、すぐに終止符が打たれることとなった。薄暗い会場がより一層暗くなり、注意喚起のアナウンスが入る。公演がはじまるのだ。

 それは、いわゆるオペラ、というものだった。しかしそんなものは私を驚かせる要因には足りえなかった。何故なら、そう。それらすべての演目が、日本語では無かったのだ。

 もちろんボロアパートに引っ越してくるような私が、多言語に精通しているはずがない。彼も同じ場所に住んでいるけれど、それはそれである。

 わからないなりに、そこそこ楽しもうという努力はした。具体的に言うと、知り合いの顔を探すのだ。主役級に出番があったので、探すまでも無かったけれど。実際主役だったのかもしれない。

 それに、わたしの努力なんて嘲笑うように、すっかり彼の声に引き込まれていた。まるで催眠術をかけられたみたいだ。他のことなんて頭から抜け落ちて、それにしか思考が割けなくなる。

 公演が終了したあと、本当の意味で花束を持ってこなかったことを悔いることになるなんて。余韻に浸りながら、彼の事を待つ。もう悩んでいたことが馬鹿らしくなるような歌声だった。

 ぼうっとし過ぎてどれくらい経ったのか分からないけれど、体感的には直ぐに彼は戻ってきた。近くで見ると、化粧を施した彼は、人外じみた美しさにより磨きがかかっていて、隣を歩くのが恥ずかしくなるほどだ。

「すごくよかった、びっくりしちゃったよ」

「君が喜んでいるようで僕も嬉しい」

 つい大きな声を出してしまって、周りを確認するが、先ほどまでの喧騒が嘘のように、会場からは人気がなくなっていた。彼を待っている間に、みんなもう帰っていたのだろう。

「さぁ、こちらへ」

 手を差し出されて、この夢のような一日が終わりを告げることを悟る。初めはどうなることやらと思っていたが、意外にも楽しんでしまった。

 明日からは、やっぱり徹底的に関わらないようにしよう。こんな良い思いをさせてもらって、自分がいかに不誠実だったかをまざまざと思い知らされた。

 手を引かれるままに決心する。だから来た時と違う方向に向かっているという事に気が付くのに遅れた。

 なにか荷物があって、楽屋に向かっているのだろうか、と考えたけれど、どうやら彼はステージに向かっているようだった。

 重たい扉を細腕で軽々と開け、誘うように彼は私の手を引く。まだ夢の延長線上にいるわたしは、戸惑いながらも足を踏み入れる。

「ねぇ、ここって私入ってもいいの?」

「当然だとも。君がこなかったら、誰がこの舞台を使うというんだ」

「さっき君だって、他の人達だってここで歌ってたじゃない」

「誰もが君の前座に他ならない。無論、僕も」

 彼が歌っていたときと同様に、ステージの上だけは爛々と人工の明かりが輝いている。そして今もなお、彼は歌い続けているようだった。穏やかさと不安定さを含んだ声音で、彼は歌い続ける。

「さぁ、僕の歌姫。もう一度歌ってくれ」

「――きっと、なにか勘違いしてるよ。私は歌姫なんかじゃない」

 まだ酩酊している頭を、それでもこれは流されていいことじゃないと、左右に振る。何処かを眺めるその瞳をじっと見つめる。

「怖がっているのかい?突然ナイフで身を裂かれる苦しみを味わったのだから、当然だ。だからといって、誰も君が歌姫であることを否定してはならない」

「違う、違うよ」

「嗚呼、嗚呼、君の声はいつだって美しい」

 男は何かに酔っているように、言葉を紡ぐ。私もその空気と声に中てられたのか、まともな思考が働かなくなる。ステージの光に目が眩み、耳に心地いいテノールに頭をかきまわされる。

「今度こそ君を閉じ込めよう。以前は小鳥の様に逃げ出してしまったから、その羽をもいでしまおう」

「違う、違う!私は、そうじゃない……」

 ひどく眠たい。今すぐにでも、倒れてしまいたい。倒れこみそうになる私の腰を掴んで、男は踊るように歌う。夢を見ているのは、どっちだ。

「さあ歌おう、僕の歌姫。この舞台は、君の為に用意したものなのだから」

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