第89話 信仰とお金

 翌4月3日の日曜日、月谷陽梅(つきたにひうめ)は住み込みで働いている芹沢家兼緑野家の屋敷で目を覚ました。屋敷は鐘留の願いで11年前に琵琶湖の津波で流されて消失した緑野家を鐘留の記憶と玄次郎の設計で再現しており、周りに人家が少ない鬼々島の南東部にある土地へ建てられている。そこに鐘留と玄次郎、子供たち三人、まったく帰ってこない鮎美の部屋、家政婦の住み込み部屋、SPの住み込み部屋が設けられている。家政婦は合計3人いて、職位職責は定められていないけれど、鐘留が陽梅のことをメイド長と呼ぶのと、陽梅がもっとも勤続年数が長いことから、家政婦の長という感じになっていた。そのおかげもあって礼拝がある日曜日は休みをもらえている。

「いってきます」

 早朝なので誰にも聞こえない程度の声で言い、陽梅は屋敷を出ると港に向かう。徒歩300メートルで港に着くと始発の連絡船に乗った。他の乗客は2人だけ、いずれも互いに見知った顔で島に住み、島外で働く2人で日曜日も勤務がある仕事をしているところまでは陽梅も知っているし、向こうも陽梅が礼拝のために毎週日曜朝、必ず島を出ることを知っている。

「おはようございます」

 陽梅から挨拶すると、返してくれる。

「「おはようございます」」

 それで会話は途切れて、静かになる。島民への宗教勧誘は鐘留からも玄次郎からもしないよう厳に言われているので、それは守っていた。連絡船が本土の港に着くと路線バスで琵琶湖姉妹学園に向かう。途中のバス停で初老の男性が乗ってきた。

「おはよう、シスター陽梅」

「おはようございます、ブラザー栄一郎」

 乗ってきた大林栄一郎は3年前に受洗した信徒で、もともとは三重県在住だったけれど、津波で妻子を亡くし、生き甲斐を無くしていたところを陽梅の夫である啓治が勧誘して入信していた。栄一郎は陽梅の隣に座って握手を交わしてから話しかけてくる。

「ブラザー啓治はお元気でしょうか?」

「はい、今朝の礼拝には間に合うよう三重から戻ると」

「おお、それは嬉しいですな。けれど、夫婦で別々に暮らすのは淋しいでしょうに」

「いいえ、私には私の仕事があり、夫には三重県の復興という大切な仕事があるのですから、少しも淋しくないですわ」

「ご立派なことです、アーメン」

「アーメン」

 二人が祈っているうちにバスは学園前に着いた。学園に入り、敷地の奥にある礼拝堂に向かう。飾り気がないのに荘厳さを感じさせる礼拝堂は教祖ラッセル・大川・ヴォーリズが日系アメリカ人にして建築家であったこともあり、その設計様式を受け継いでいる。そして学園の駐車場には300台近い車が駐まっていた。正規の駐車場だけで足りないので礼拝日はグラウンドまで臨時駐車場としている。陽梅が感慨深く言う。

「あの震災前は多くても100台ぐらいだったのに、今は信徒も増え、今日もいっぱいです」

「あれだけの震災を見れば、世界観だって変わってしまう。私だって、そうだった。大地震、そして疫病、戦争、もう本当に終末の時が近いのかもしれない」

 他の信徒たちと礼拝堂に入った。一歩入って、お香が焚かれていたので陽梅は今日が特別な日だったか、記憶をたぐったけれど、思い当たらない。けれど、お香が焚かれる日は何か特別なことがあるはずで嗅覚が脳を刺激し、気持ちが高ぶった。他の信徒たちも同様で雑談したりせず、すぐに着席している。信徒たち500名あまりが待つ中、教会長が演壇に立った。

「おはようございます、シスター、ブラザーのみなさん」

「「「「「「おはようございます」」」」」」

「本日の講話は私ではなく、幸福にもエホパがマザー陽湖を遣わしてくださいましたので、マザー陽湖にお願いいたします。マザー陽湖の御入来です」

 礼拝堂にCDで再生される音楽が鳴り響く。

 ハーレルヤ♪ ハレルヤ♪ ハレルッヤ♪ ハレーェルヤ♪

 演壇の幕間にいる陽湖は少し間をとる。そして、ゆっくりと歩き出した。

「ハレルヤ! マザー陽湖! マザー!」

「ああ、陽湖様! マザー陽湖!」

「ハレルヤ! マザーに万歳!」

「…」

 万歳は仲国皇帝を讃える言葉なんですよ、と陽湖は思ったけれど口にも顔にも出さず、なるべく神々しく紫ローブを揺らめかせながら、無表情と微笑の間ぐらいの顔で演壇に立った。

「人は自分が撒いた種によって、刈り取ることも嘆くこともあります。人の不条理によって降りかかった問題も、すべてはあなたのあり方一つで害にも益にもなりうるのです。人は人を通して自分と向き合い、受け止め、弱さを知り、どう進むかを考えさせられるのです。聖書にかくあります、義人などいない。人はみな罪人なのだ、と」

 陽湖の唇から出る言葉を信徒たちは目を輝かせて聴いている。話ながら陽湖は11年前を思い出した。鮎美の政治活動を手伝っているとき、鮎美の演説を聴く聴衆たちは目を輝かせてなどいなかった。あの目は値踏みしている目だった。任せていいのか、悪いのか、大丈夫なのか、大丈夫でないのか、疑いをもって自分で判断しようとする目だった。けれど、陽湖が浴びているのは信じ切っている目、熱い信仰の眼差しだった。そして、あの11年前の震災から日本を建て直している鮎美が街頭演説をすると年々、人々は自分で判断しようとする目から、信じ切っている目に変わりつつある。たまたま偶然にコロナ前、鮎美の街頭演説の場に通りがかることがあり、聴衆たちの4割が信仰の目になっていることに陽湖は気づいていた。

「人は善をなしたいはずなのに、罪を犯してしまう自分が存在してることを認めたとき、信仰の道か、悪の道か、どちらに進むかの岐路に立ちます。十字架の上で私たちの罪のために死なれたイエス、そしてエホパ神の導き、神の国を見ることができるよう今日も祈りましょう」

 陽湖の講話が終わると、洗礼を希望する者が17人も挙手した。その17人に受洗を施すために礼拝堂の奥に17人と入る。そこには洗礼用の小さなプールがあって更衣室もある。陽湖は紫ローブを脱いで、もともと着込んでいた水着姿になった。肌の露出は控え目の黒い競泳水着で布地は手首と足首まである。色気のない尼僧のような黒装束がかえって男性に興奮を与えることがあることも知っている。

「では、ブラザー茂雄から」

「はい」

 陽湖は60代の男性とプールに入る。その様子は天井にあるカメラで全国の教会に生中継されている。

「日本全国の信徒のみなさん、これからブラザー茂雄が洗礼を受け、新たなイエスの子として、私たちの中に加わります。どうか、祝福を」

 プールの水温は真冬でも24度以下にならないよう設定されているし陽湖が着ている競泳水着は保温性が高かった。

「ブラザー茂雄」

「はい」

 男性が頭をさげ、陽湖はその頭に右手を置くと、左手では男性の肩を抱き、プールに沈める。全身、髪の毛1本に至るまで、しっかり水没させると手を引いて掬い上げた。

「おめでとう、ブラザー茂雄」

「ありがとうございます。ハレルヤ!」

 軽く抱き合うと次を呼ぶ。

「ブラザー聡」

「はい」

 受洗者17人のうち13人が男性だった。信徒全体の男女比は2:8で女性が多いのに陽湖が全国を巡って受洗するようになってから、男性信徒たちは洗礼は是非とも陽湖に施されたいと待っている感じがする。一人3分で終わるとしても合計51分かけて陽湖は洗礼式を終え、更衣室で全裸になると紫ローブを着る。できれば熱いシャワーを浴びたいところだったけれど、濡れた水着を脱いだだけで礼拝堂に戻ると次は寄付金を集める時間になる。黒い袋を座っている信徒たちに順番に回し、そこへ全員が現金を入れる。誰がいくら入れたかはわからない。目安としては収入の10%程度としているので月給15万円なら毎週入れるので3000円ほどになるものの、やはり陽湖が来訪した教会では普段の何倍も集まる。

「…」

 陽湖は無表情に信徒たちを演壇から見つめている。この中に両親が居る可能性が高いことは覚えているけれど、あえて目で探したりはしない。3年前に来たときも、7年前に来たときも、両親を他の信徒と同様に扱ったし、両親も他の信徒と同じように陽湖をマザーとして崇めている。

「…」

 陽湖は寄付金袋を回された母子に注目した。母親が財布からお金を入れる様を9歳ぐらいの女児が心配そうに見ている。母子ともに貧しい身なりで教団内だけで流行っている手作りのアメリカ西部開拓時代風のワンピースを着ている。布地が古いので中古のシーツかカーテンから作ったのかもしれない。二人とも痩せていて身が薄い。母親は財布にある現金の大半を寄付し、女児には千円札を渡している。女児は受け取った千円札を見つめてから袋に入れた。そうして袋は回っていき、三つの袋が紙幣と貨幣で満杯になって陽湖のもとに戻ってきた。

「アーメン」

「「「「「「アーメン」」」」」」

 礼拝が終わった。礼拝の後には昼食会がある。陽湖は紫ローブからジャージ姿になって信徒たちと親子丼を作った。いっしょに食べて語り合う時間を持つ。陽湖には5年前まで野望があった。マザーと崇められ、大地震によるハルマゲドン的な雰囲気もあり、何より教団の悲願でもある全世界のキリスト教徒の統一という野望だった。原始キリスト教からカトリックと東方正教会、さらにプロテスタント、さらに福音派やメインラインプロテスタントと分派に分派を重ね、もはや誰も覚えきれないほどの宗派があるキリスト教を大統一して一つの教えに戻す、という野望だった。そのために全国を巡りながら、他宗派の教会も訪ね、牧師や神父と面談した。陽湖が身分を隠さずに語ると、ごく一部の宗教指導者は陽湖を異端者、カルトとして嫌ったけれど、多くの宗教指導者はこころよく面談をもってくれた。そうして神と信仰、聖霊、イエス、教会運営、信徒の人生について色々と語り合ううちに野望は消えた。無理で無意味だと悟った。

「マザー陽湖」

「はい、なんでしょう?」

「私は半年前、交通事故に遭い意識のないうちに輸血されてしまいました。こんな私が天国にいけるでしょうか?」

「神は罪を悔いて贖うものを許します。まして意志のないうちになされたことで、どれほどの罪があるでしょうか。これからも神に仕える限り、世々限りなく幸福は待っています」

「あぁ、マザー! ありがとうございます、ありがとうございます!」

 大統一の野望が消えた陽湖が次にもった野望が教団の改革だった。教祖ラッセル・大川・ヴォーリズは一人の聖書研究家として出発し、自らを神の化身とは言わなかったけれど、よく霊言は行ったらしい。その霊言とは聖書に登場する人物の霊を呼び出し、自らの口で聖書の解釈を語るというものだった。輸血禁止もその一つで、陽湖は5種類の聖書翻訳とヘブライ語聖書をも読んだけれど、どう読んでも血を食品として口にするのを避けるように述べているだけで、輸血という概念そのものがなかった時代に作成された聖書が医療上の輸血を禁止しているとは読めなかった。だから教団の教えを変えたい。幸いにしてマザーの地位には総理大臣のような任期はない。再選挙もない。一度その称号を得れば終身どころか永世なので罷免する手段さえない。そして陽湖は日本の教団代表と台湾の教団代表も兼ねていて気づいたことに教団の世界本部の統制は緩い。本部にはカトリック的な階層構造があるのにアジア人への布教が本気ではないからなのか、ほぼ陽湖に任されている。だから信徒に違和感を与えない範囲で長年かけて変えようと思っている。

「アーメン」

 他にも教団の伝道活動の活発さが異常だと気づいている。他のキリスト教宗派は少なくとも日本においては、さほど宗教勧誘を行っていない。せいぜいクリスマスに駅前で聖歌を披露するぐらいで、わざわざ駅前で人に声をかけたり、ポストにチラシを投函したりしない。その勧誘活動の活発さのおかげで信徒は増えるけれど、若年信徒の生活は安定しない。年金生活者になってから入信した高齢信徒は問題ないけれど、働き盛りなのに不安定雇用で働きながら勧誘活動を平日も行い、さらに少ない収入から寄付もしている信徒は、ろくに食べられない日もある。今も、さきほどの女児が成人男性と同じぐらいに盛ってもらった親子丼をペロリと食べたので頭を撫でながら、おかわりを勧めた。そして、母親に言う。

「より貧しいところへ寄付しようとするあなたは立派です。自分の子を愛するように他人の子を愛し、そして自分の子を愛することで神は喜ばれます。日々の糧にことかくほどに寄付をする者に祝福を」

「………」

 どう答えていいかわからない母親に陽湖は寄付金袋から3万円を出して握らせた。

「栄養のあるものを、しっかり食べさせてあげてください」

「……ああ、ぁぁ、でも、私は、今日、ほんの少ししか、入れていません。こんなにいただけません」

「よいのです。入れられるときに入れ、足りないときにはもらえばよいのです。余れば来月、天に積めばよいです。でも、どうか、この子に、しっかり食べさせてあげてください。栄養の要る時期です。そうして、この子も神の愛を知るでしょう」

「はいっ! ありがとうございます! マザー陽湖様!」

「ありがとうございます! マザー陽湖様!」

 女児も感謝して涙を浮かべている。頷いた陽湖はさらに痩せている子を3人も見つけ出し同じようにした。その施しが終わった頃、身なりのいい老婦人が陽湖を呼び止めた。

「マザー陽湖様」

「はい、なんでしょう?」

「私は夫と息子夫婦に津波で先立たれ、一人ものですが富だけは残っています。私の口だけで、どれほど食べられましょうか。どうか私の財産をすべて、私の食べる分だけを残して捧げたいと思います」

「アーメン」

「アーメン」

「シスター…」

「しげ子です」

「シスターしげ子、そのお気持ちにかわりがなければ、明日、また会いましょう。一晩ゆっくり考えてください」

 しげ子を抱きしめた陽湖は一人になってから教団の弁護士に電話をかける。

「もしもし、勅使河原冴絵子(てしがわらさえこ)です」

 信徒であり弁護士でもある冴絵子は50代の女性なのに小柄で新体操を続けているからなのか、若々しいまるで女子小学生のような声で応えてくる。

「大きな寄付をしたいという人が現れました。明日、公証人役場に来られますか?」

「はい、明日はあいてるけど、どこの役場? こっちは金沢だから、せいぜい300キロ圏でね」

「琵琶湖姉妹学園の礼拝堂に9時でどうでしょう?」

「せめて10時にしてください」

「では10時でお願いします」

 弁護士の手配も終わったので陽湖は愛也とともに近所のビジネスホテルに入った。予約していなかったけれど早い時間だったので空きはあり部屋で休む。洗礼で水に浸かった身体を湯船で温めた。

「……はぁぁ……気持ちいい……」

 蕩けた顔で湯を楽しみ、ふと思った。

「私が妊娠しないのって、毎週毎週、洗礼で水に入るからかな……」

 髪も洗い、愛也と浴室を交代するとテレビをつけた。

「日本軍、ロシア軍、ベラルーシ軍はウクライナ首都キエフの包囲を解き、キエフ州からも撤退すると発表しました」

「……よかった、…のかな? これで停戦に向かう……?」

 陽湖は国際情勢について考えてみたけれど、予測不能だったし神が教えてくれたりもしなかった。

 

 

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女子高生総理・芹沢鮎美の苦悩と勇戦 鷹月のり子 @hinatutakao

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