第88話 陽湖と鐘留
翌4月2日の土曜朝、月谷陽湖は夫の月谷愛也とともに琵琶湖の西部にある井伊港から観光定期船に乗っていた。日本最大の湖は海のように広大な水平線を有しているのに水面は凪ぎで波一つない。その水面を滑るように進む観光定期船はコロナウイルスのために乗客が少なく、ほぼ貸し切り状態だった。二人は2階の展望デッキから湖を見つめている。
「琵琶湖……マザー・レイク……なつかしい匂いです」
「はい」
琵琶湖からは潮風の匂いは当然にしない。池や沼とも違う巨大な淡水湖がもたらす香りは水草の匂いのようで、子供の頃から何度も嗅いで育ったので、ずっと日本全国を流浪する身で久しぶりに生まれ故郷へ帰ってきたのでなつかしい。定期観光船は井伊市の井伊港から、琵琶湖の中央付近に浮かぶ多華島(たけしま)へ向かっている。およそ7キロ、15分あまりのクルーズは陽湖が高校時代をなつかしむうちに終わり、ゆっくりと多華島の岸壁に接岸した。船から降りると先に漁船で到着していた緑野鐘留が女性SPと待っていた。
「ハーイ、月ちゃん、お久しぶり」
「お久しぶりです、お変わりないようで、よかった」
「月ちゃんは老けたね」
「本当に、お変わりないですね」
「きゃははは♪」
笑う鐘留は変装のために青いカラーコンタクトをしているし、目立たない庶民的な服装だった。警護している女性SPもスーツ姿ではなく鐘留の友人のように見える服装を選んでいた。それは総理大臣の義母にして、かつての同級生という目立つ立場を隠すためだったし、陽湖たちの方も幸福のエホパ教団における日本代表と教団幹部という立場で着る紫ローブと黒スーツではなくTシャツにジーンズという平服でコロナ対策のマスクもしている。
「立ち話もなんですから、島を観光しましょうか」
「うん。でも、この島は超狭いよ。鬼々島と違って無人島だし」
多華島は最長部でも600メートルの細長い岩壁の塊のような島で、そこに寺と仏塔、鐘楼が設けられている。平地はほぼ無く移動は階段や階段以前の岩登りのような移動になる。その階段も息を切らすほどはなく10メートルも登ると寺前だった。他の観光客の目がないので鐘留は少女時代のように悪戯な笑みを浮かべて賽銭箱を指しながら問う。
「お賽銭、入れとく?」
「いえ、それは」
「きゃははは♪ やっぱりね」
鐘留は笑いながら5円玉を投げた。手は合わせないし、頭もさげない。
「やることないね、あっち行こうか」
「はい」
寺の隣にある仏塔と鐘楼を眺め、それから島の北部に移動する。この島に来たのは二人が再会しても目立たない場所として選んだだけなので、すでに目的は達している。
「けっこう怖いところだね。手すりが無かったらヤバいよ」
「そうですね」
島の北部に移動する途中には岩壁の尾根を歩くような箇所もあり、幅は1メートルほど、左右は崖で転落すれば死にそうなほどの高さがあって水面という道だった。手すりが設けられているものの、その手すりも一部が破損して斜め向いている。
「あ~怖かった♪」
「よくこんな場所にお寺を建てて……しかも江戸時代初期に」
「日蓮宗らしいね。だから南無阿弥陀仏じゃなくて南無妙法蓮華経」
鐘留は日蓮宗の僧侶像を見上げてから、そばに立つ看板を読む。
「ふ~ん………きゃは♪ きゃはははっはは!」
読む途中で大笑いを始めた。
「どうしたんですか? 何が可笑しいのです?」
「だって、きゃははは! ほら、この目の前の岩壁に、この僧侶は6年もかけて岩を彫って高さ10メートルで南無妙法蓮華経って完成させたらしいよ。きゃはっは! なのに4年前! 復和8年の台風で岩壁ごと剥がれて湖にボチャンだって! きゃははは!」
「そこは笑うところなのですか?」
「可笑しいじゃん! 最高に可笑しい! アホみたい! 6年もかけてさ! しかも、こんな琵琶湖の真ん中の島だから、ご飯だって無いし、どこで寝るのって環境でモーターボードもない時代に岩壁に10メートルもの落書きして、永遠に残るつもりだったのに、あえなくボチャン♪ きゃははははは!」
「………諸行無常ではありますね。この銅像もいつかは…」
陽湖は僧侶の銅像を見上げる。袈裟を着た青年僧侶の像だった。
ビュゥゥ!
風が吹いた。陽湖の長い髪が舞う。
ぽつ…ぽつ…
雨も降ってくる。
「降ってきましたね」
「そういう予報だったし」
「船に戻りましょうか」
「うん、もう温泉いこう」
来た道を4人で戻る。再び岩壁の尾根にさしかかった。
ビュゥゥゥ!!
風が強い。周囲は水面だけなので遮るものがなく、吹きつける風は天気予報で想定したよりも、ずっと強くて鐘留は怖くなった。
「ヤダ、怖いよ。なんか、あのアホ僧侶の呪いみたい」
「「「……」」」
「アホめ、拗ねてやがる。ねぇ、ここ以外の道はないのかな?」
「おそらく……無いと思いますよ。どう見ても」
島の南北を移動するには目前の道を通るしかない。他に道がないのは左右の崖下にある水面を見れば一目瞭然だった。
ビュゥゥゥ!
立っているとフラつくほどの風になってきた。
「うぅ……山田、お願い」
「田中です」
女性SPである田中かずさは訂正しながら鐘留の腰に手を回した。
「山田も田中も似たようなもんじゃん」
「しっかり、つかまってください」
「うん」
鐘留は田中へ抱きつくようにして歩く。その膝が恐怖で震えていた。
「う~……こんなとこ観光地にするなんてアホすぎ……」
ゆっくりと岩壁の尾根を進む。
「だいたい、あのアホ僧侶が一人で可能だったと思えないよ。きっと何人か人を使ってるね、で、その人たち、何人か労災で死んでるよ、きっと」
「「「………」」」
「こんな崖に文字を彫ったり、寺を建てたり、絶対、何人も死ぬよ。アホすぎ」
「ちゃんと足元を見てください」
「ヤダよ、下を見たら、怖いもん」
鐘留と田中が進むので、陽湖も進む。その肩を黙って愛也が抱いてくれたので、とても幸せを感じる。陽湖は恐怖を覚えることなく渡りきった。風があたらない場所まで移動して、やっと鐘留が安心する。
「ハァ…ハァ…怖くて、おしっこ漏らすかと思ったよ」
「クスっ、漏らしてますよ」
「ぇっ?!」
鐘留が慌ててジーンズの股間に両手をやる。そこは濡れていなかった。けれど、猛烈に恥ずかしくなり鐘留は顔を真っ赤にした。
「漏らしてないじゃん! 嘘つき! 教祖のくせに、嘘ついた! えせ教祖!」
「冗談ですよ、嘘と冗談は違います」
「う~……月ちゃんこそ、おしっこ漏らして興奮する性癖は治ってるの?」
「さあ、どうでしょう」
はぐらかす陽湖の声に混じって定期観光船から出港5分前を告げる放送が流れてきた。狭い島なので、だいたいの観光客が30分の滞在時間で十分に見て回っている。船へ戻ると風のせいで波が生じていて、停船していても揺れが激しかった。鐘留も乗るので桟橋から渡し板で船に向かうけれど、揺れていて怖い。
「山田」
「田中です」
訂正ながら田中は手を握って鐘留を支えた。陽湖と愛也も乗り込み、すぐに出発となる。多華島から井伊港に戻る船は行きが凪ぎだったのに比べて、風によって波が出ていたので、かなり揺れ、波を切って進むと水しぶきが窓ガラスにかかった。
「アホ僧侶め、呪いやがって」
「琵琶湖で、ここまで波が出るのは珍しいですね」
荒れてはいたけれど短い航路なので、すぐに港に到着した。船から降りると鐘留は多華島の方に向かって言う。
「アタシの勝ち♪ アホ僧侶め」
「……、変わってませんね。お子さんが三人できても」
「あの子たちの前では、ちゃんとお母さんしてるよ。アユミンと違って家政婦に丸投げまではしてない」
「今日は連れて来なかったんですか?」
「あいつらを連れてきたら、うるさいし。SPの数も増えて目立つよ」
「そういう窮屈さもあるのですね。私たちの車に同乗してください」
港の無料駐車場に駐めてあった白い乗用車に鐘留と田中を案内する。
「安っぽい車に乗ってるね」
「これで十分です」
製造から20年は経過した日本車で3列シート8人乗り排気量2000ccの車を愛也が運転して市内のスーパー銭湯に向かう。
「月ちゃんとこの教団なら、もっと立派な車も買えるんじゃないの?」
「その必要性を感じませんし」
「ぶっちゃけ月ちゃんの報酬とか、給料って、いくらなの?」
「月給で25万円にしています。私は庶民的な金銭感覚を失いたくないんですよ」
「ふーん……だから、温泉もスーパー銭湯かぁ。まあ、この時間なら、そんなに混んでないかな。でも変装はしとこ」
鐘留は伊達眼鏡をかけた。陽湖も信徒に出会う可能性もあるので今は伊達眼鏡をかける。愛也が運転すること10分でスーパー銭湯の駐車場に着いた。一人あたり950円という庶民的には安くも高くもない入館料で4人は受付を済ませると、愛也は一人で男湯へ、陽湖と鐘留、田中は女湯へ向かった。更衣室で田中は全裸になったけれど、タオルに拳銃を巻いて隠し持つ、なるべく鐘留の友人に見えるよう警護していて周囲に違和感を与えないようにしている。陽湖と鐘留も全裸になる。
「月ちゃん、太った?」
「太ってません」
お互いの29歳になった身体は女子高生だった頃より女らしさを増していた。もともとモデル体型だった鐘留は3回の出産を経ても努力と見栄で身体を維持しているし、まだ妊娠したことのない陽湖も若々しい身体をしている。
「月ちゃんさ、そろそろ不妊症の診断でも受けてみたら?」
「お気遣い、ありがとう」
「男の方に原因があることもあるよ。ちゃんと、やることやってる?」
「ときどきは」
「どうせ、子供ができないのは、神の思し召し、その分だけ仕事をしよう、みたいに考えてるでしょ?」
「ご名答です」
二人は身体を洗ってから、他の女性客たちも入っている岩風呂に浸かる。田中も友人という風に湯へ入っているけれど、二人の会話内容よりも周囲の動向に目をやり、拳銃を隠したタオルからは手を離さない。鐘留は伊達眼鏡が曇ったので湯につけている。
「温泉旅館とか貸し切りにすれば、変装も無しに気兼ねなく会えたのに。おごってあげてもいいし」
「すみません、私の庶民的なレベルに合わせてもらって」
「いいけど、月ちゃんも教祖じゃん、総代司教じゃん、神の化身なのに」
「ただの代弁者ですよ」
「神罰の代理人だね」
「それもちょっと違います。んフフ、こういう会話、懐かしいですね」
「きゃはは、そーだね。なつかしい! 超なつかしい! なつかしくて涙でてくるよ」
鐘留は本当に涙ぐんで指先で目尻を拭いた。
「あ~あ、すっかり涙もろくなったよ、もう、アタシはおばあちゃんの心境だよ」
「まだ29歳なのに?」
「アユミンの子供は一応、アタシの孫的な位置だし。鬼々島で隠居暮らししてると、ホントもうおばあちゃんの気分。夢も野望もないよ。お金はあるし、旦那はいるし、子供も元気、あとは維持して次の代につなぐだけですじゃよ、あたしゃ」
「満たされている幸せを感じるのは幸福なことですね」
「アユミンの野望は、すごいよね。きっと世界の征服王になるよ」
「……未来の日本のためと言われますが、心のどこかで、そういう野望をお持ちなのでしょうか……」
「どーだろうね。月ちゃんも世界の宗教王になればいいよ。全人類をひざまづかせるマザーオブマザーに」
「まさか。……でも、そうなれば世界は平和になりますね。すべての人々が一つの神を信じて争わない。富める者は貧しい者に与え、世界中が平和に………って、危ない、危ない、変なことを考えさせないでください」
「きゃははは♪ 平和が一番だねぇ」
他の女性客が岩風呂から出ていったので鐘留は湯の中で手足を伸ばして岩を枕に寝そべる。そうすると身体が浮き上がり、乳首が少し水面から出た。鐘留の行儀より陽湖は気に掛かることを口にする。
「でも、日本は現在、他国と戦争中でもあります」
「厳密には特別軍事作戦らしいよ。まあ、アユミンも戦争って言っちゃうことあるけど、フーチンはまだ特別軍事作戦って言葉にこだわってる。アホだね」
「一種の欺瞞です」
「そろそろ、揚がろうか」
「はい」
三人が入浴を終えて休憩所に行くと、愛也と合流できたのでレストランで食事にする。メニューをめくると、鐘留が嗤った。
「きゃはは♪ しっかり支援メニューがあるよ。ドネツク応援カレーと、ルガンスク救援カクテルだって」
メニューの中には期間限定のカレーとノンアルコールカクテルがあり、それぞれにドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国の国旗カラーを模した料理内容になっている。
「不味そうだね、アタシ、このカレーとカクテルにする」
「不味そうなのにですか」
「二度と無いよ、こんな珍メニュー。それに一つにつき100円、寄付するってさ。一応、アユミンへの応援になるんじゃない」
「そうですね、どちらの地域もウクライナ人から、ひどい仕打ちを受けていたようですし」
「きっと今は、やり返してるよ。ひゃはーっ! 死ねぇ♪ オレたちの後ろにはロシア様とジャパン殿がおいでなのさ、パパの仇、三倍返しだぁ、って」
「やられてやり返し、また、やり返す……どうして世界から戦争は無くならないのでしょう…」
「無くなるわけないじゃん。人は争い続けるよ、熊だってライオンだって、お猿だって、みんなみんな、生きているんだ、なわばりが要るんだ、テリトリーが欲しいんだ、エサだ、ご飯だ、あとはメス♪ ついでに人間は、お金も欲しい、資源も欲しい、やってやられてやりまくり、勝てば官軍、負ければお肉。そんだけのことだよ」
「……たしかに生物学的には、そうなのかもしれませんが、いくらウクライナが悪いとはいえ、首都キエフまで攻め込まなくても。黒海周辺を解放するだけで十分ではないでしょうか。まさか、このままウクライナ全土を占領するつもりだと思いますか?」
「どうだろうね、でも、イギリスとフランスは、そのまさかを感じて出陣するみたいだし」
鐘留は店員を呼ぶためのボタンを押した。すぐに店員が来たので、それぞれに注文してからレストランの壁にある大型液晶テレビがニュースを始めたので見上げる。
「報道委員の池田伊智子さんとつながっています。池田さん、ドネツク人民共和国の様子はどうですか? 人々はどうとらえていますか?」
「はい、はっきり言ってしまえば、喜び組7割、嘆き組2割、どちらでもない組1割ですね。もともと親ロシア系住民、ロシア語を話して血筋もロシア系という人が多い地域でしたから、喜んでいる市民が7割です。逆に、やはりウクライナ系でウクライナ語を話す人は、嘆いているというか、遺憾というか、そんな感情でおられますね。たまにテロもあります。あと、1割はよくわからない、どうでもいい、とにかく助けてくれ、そんな風です」
池田はテレビに出演するのにノーメイクで髪も一纏めに括っただけ、そして着ているTシャツには、ヴィーガンは世界を救う、という日本語とロシア語のプリントがされている。鐘留が嗤った。
「きゃは! このオバチャン、ノーブラだ! カッコ悪っ、乳首ういてキモ!」
「「「………」」」
「いるよね、こういう自然派バカ。まさに天然って人」
「「「………」」」
陽湖たちは見なかったことにしているしニュースキャスターも池田がノーブラであることには触れない。
「池田さん、鷹沢美姫副総督への取材は?」
「はい、今から」
池田は美姫の執務室前に居たので、そのままドアをノックせずに開ける。美姫の方も生放送のニュース出演があることは事前に聴いていたので執務机の前に座って、書類を決裁しているフリをしていたのを止めて、柔和に微笑み、椅子から立ち上がった。
「こんにちは」
「鷹沢副総督、日本のみなさんにドネツク共和国の状況を伝えてください」
池田がマイクを向けると、美姫は会釈してから答える。
「日本のみなさん、こんにちは。まだ、こちらは、おはようございますの時間ですが、いかがお過ごしですか。こちらドネツク人民共和国では全土を掌握した日本軍とロシア軍による平和維持のもと、ようやく平穏な日々が訪れたと、市民のみなさまには喜んでいただいております」
「とはいえ、テロはありますよね?」
「はい、残念なことに一部でウクライナ人テロリストによるテロが生じていますが、それも日に日に減っております」
「昨夜も孤児院が襲撃されたとウワサがありますが、事実ですか?」
「事実です。戦災孤児の扱いは私の責任なのですが、あの子たちを集めていた孤児院にロケット砲が打ち込まれ、7人もの子供たちが亡くなり、怪我をしたのは30人以上です」
美姫は目元を潤ませたけれど、涙は零さなかった。
「襲撃者は?」
「追跡していた隊が、さきほど射殺したと、マラート総督よりご連絡いただいております」
「襲撃者は、どんな系ですか、えっと、どういう人種とか、思想とか」
報道委員になって日が浅い池田の拙い質問に美姫はマジメに答える。
「アゾフ大隊の生き残りだと思われるとのことです」
「あぁ、あの、彼らは人種差別主義者ですよね。私たちアジア人のことも見下していた」
「残念ながら」
「私、去年、道を歩いていただけなのに唾を吐かれたことがあります」
「そういうことは悲しいですね」
美姫もかつてはワンコという芸名でローカルアイドルをしていたけれど、在日朝鮮人というルーツを隠していなかったので、たまに同じようなことを経験しているし、ファンになってくれたのに美姫のルーツを知ると離れていった人もいた。
「ああいう人種差別のエネルギーも、すべては肉食が原因なんですよ」
「え? あ、どうでしょう………」
脱線したことを言われて美姫が返答に困るとニュースキャスターが池田を止める。
「池田さん、池田さん、ご主張はまた次ということで、副総督の業務について質問してみてください」
「はい、副総督、どうですか?」
「主に私は戦災孤児の落ち着く先を探しております。本人の希望や、希望も言えない幼い子たちの未来を、よりよいものにすべく。まだ、決定してはおりませんが、日本のご家庭に養子ということも視野に入れていますが、人種の違いもありますし、私たちが深く考えていかなければならないことが、多く残っていると思います」
予定時間が来たのでニュースキャスターが締める。
「ありがとうございました、鷹沢副総督、池田さん、ご苦労様です。また、よろしくお願いします。次にウクライナ北部のボルズナー市の様子を日本陸軍の森ノ宮中尉から、お伝えします。森ノ宮中尉、聞こえますか?」
「はい、聞こえております」
画面に美紗子が映った。疲れていても、しっかりとメイクした顔が美しかったので思わずニュースキャスターが言う。
「美人過ぎる隊長さんですね」
「……。……すいません、よく聞こえませんでした」
ほんの一瞬だけ美紗子は、うっとおしく感じた言葉で眉を動かしたけれど、真顔のまま聞こえなかったことにした。ニュースキャスターも察して自重してくる。
「そちらの様子は、どうですか?」
「ボルズナー市とは協定を結び、それはおおむね守られているので、平穏です。武装解除も進んでいます」
「北部はウクライナ人が多いそうですが、どうですか?」
「はい、多いです」
「どのぐらい多いですか?」
「そこは調査してみないとわかりません」
「そういった調査もされるのですか?」
「いえ、今は治安維持が任務です」
「治安は維持されていますか?」
「はい」
「NATO側の情報では、日本兵による強姦がボルズナー市であったとのことですが、どうですか?」
「虚偽情報です。ボルズナー市に展開している隊員はすべて私の指揮下にありますが、そのような者はおりません」
「展開している兵隊さんは何人ですか?」
「軍事機密につき答えられません」
「では、ボルズナー市から前進する予定は?」
「私たちは治安維持で駐屯中です」
「軍全体としてはキエフを目指している感じですか?」
「軍事機密につき答えられません」
「教えていただけることは、なにかありますか?」
「………。とくにありません」
「ボルズナー市の市民の様子は? 食料や衛生材料は足りていますか?」
「市民に混乱はなく、物資にことかくこともありません」
「戦闘はありますか?」
「この市に入ってからはありません」
「その前にはあった?」
「はい」
「どのような戦闘でしたか?」
「………軍事機密につき答えられません」
「ボルズナー市へ入るさい、市民の抵抗があったようですが。具体的には、若い女性が戦車の前に立ちはだかるという形で。その件で対応されたのは森ノ宮中尉のようでしたが、あの件、いかがでしょうか?」
「……」
美紗子は数ある陸軍の展開部隊の中で、なぜにテレビ局が自分の隊への取材を望んだのか察した。そして冷静に答える。
「あのときは市民を傷つけないことを優先して対処しております。ですが、軍事行動には時間的制約がある場合も多く、いつも丁寧な対応がとれるとは限らず、逼迫していれば戦車の前に立つといった行動は明白かつ重大な妨害行動となりえます」
「そのさいは力づく、暴力や武器で制圧するということですか?」
「そうです」
「わかりました。ところで、戦車の前に立ちはだかった女性、マルーシャ・コバレンコさんというそうですが、コバレンコさんが昨日、日本の芹沢総理と面談したことを、どう思いますか?」
「私たちは治安維持活動に時間をさいていて、報道を見ている時間はほぼないのです。その情報はわずかに聴きましたが、どう思うかを述べるほどの情報もなく、その立場にもありません」
「そうですか、わかりました。どうも、ありがとうございます。どうか、ご無事で」
「はい、ありがとうございます」
美紗子が画面から消え、関西地方の天気予報にニュースが変わったので鐘留がドネツク応援カレーを食べながら言う。
「黒カレーと赤カレーはともかく、青いカレーって」
ドネツク人民共和国の国旗が上から黒、青、赤の三色旗なので四角い皿に黒いカレーと青、赤のカレーが盛られていて、一番不味そうな青カレーをスプーンで掬っている。
「あ、意外と美味しい。青いカレーのくせに」
「静岡県で、そういう青カレーが売られていましたよ。富士山カレーとして」
「月ちゃんは全国旅ざんまいで、いろいろ知ってるね。今夜はどこに泊まるの?」
「地区教会です」
「ってことは学園の?」
「はい。でも、まだ、ナイショですよ」
「なんで?」
「私が訪れることを知ると信徒さんたちが過剰に準備してしまうので、いつも直前まで連絡していないんです。明日が日曜日だから礼拝もしますし。そうやって全国の信徒さんに会いながら移動しています」
「あ~、なるほど、月ちゃんが来るとなると、すごいことになりそうだもんね」
「ですから、夕食も済ませてから教会長さんに連絡します。信徒さんたちには朝の礼拝に来るまで秘密にしてもらっています」
「そうやって全国各地の信徒に毎週の礼拝に参加しておかないと、教祖さまに会うチャンスを逃すよ、って、するんだ。いい作戦だね」
「あくまで普段の礼拝として来ていただきたいからです」
「月ちゃんに会えて、感動の涙を流すだろうね。女神様って」
「私は代弁者の一人に過ぎませんよ」
陽湖はルガンスク救援カクテルをストローで飲む。ルガンスク人民共和国の国旗も三色旗で上から水色、青、赤なのでカクテルも美味しかった。そして、さりげなく愛也と半分ずつで飲んでいる。
「美味しい。……でも…」
「でも?」
「今も戦場で困っている人たちが多いのに、私たちだけ、こんな……という気がしてしまって。家族を亡くした人も多いでしょうに」
「そんなの気にしても意味無いよ。私たちが11年前、津波で泣いてた日もモスクワやキエフではウォッカ呑んで謳ってたよ、きっと。むしろ、フーチンなんかアメリカも大津波に遭ったから、祝杯あげてたはず」
「……」
「人間なんて他人の痛みなんか、ゴミ同然だよ。私たちだって黒海周辺のクソややこしい歴史と虐殺の繰り返し、プロパガンダで流れ始めるまで、ぜんぜん知らなかったじゃん。あんなもん、どっちが悪いもクソもない。あの辺の土地が穀倉地帯として肥沃なのは、人の死体がたっぷり埋まってるからじゃね? 生態系サイクル回ってて上等だね、って感じ」
「………少し祈ってもよいですか?」
「どーぞ、好きなだけ」
「主よ、どうか、お導きとお救いを我らにお与えください」
陽湖は両手を祈りの形に組むと、目を閉じた。愛也もならう。鐘留はカレーを食べながら言う。
「山田」
「田中です」
「カレー、どう? 美味しい?」
「そこそこには」
警護中ではあるけれど、友人を装っているので田中も食べていた。
「山田って、なにか宗教やってる?」
「いえ、なにも」
「家は?」
「日蓮宗です」
「あのアホ僧侶の。山田も念仏となえる?」
「田中です。いえ、とくに、となえることはないです」
「日蓮って、けっこう特殊だよね」
「……そうなのですか?」
「鎌倉仏教の中でもガチガチに幕府に逆らったし、他宗への排撃もすごかったらしいよ。珍しいよね、日本の仏教って、だいたいテキトーなのにさ」
「よくご存じなのですね」
「友達に、こんな奴いるし」
鐘留はスプーンで陽湖を指した。祈りを終えた陽湖が目を開ける。
「アーメン」
「アーメン」
愛也も続き、鐘留は茶化す。
「ラーメンじゃないよ、カレーだよ」
「クスっ、本当に、変わらないですね」
「月ちゃんは変わったね。大人になった」
「ありがとう」
「もう一回、お風呂に入って解散しよっか」
「はい」
スーパー銭湯が混む前に陽湖と鐘留は再会を約束して別れた。
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