第87話 笑美VS鮎美
翌日の復和12年4月1日、笑美と麻衣子、マルーシャ、そして通訳をしている上呂村は早朝に京都御所の門をくぐり、迎賓館で身体検査の後に朝食を提供されて4人で食べていた。笑美が忌々しげに言う。
「胃の中も検査するために、ご飯を食べないで来いとか、人を疑い過ぎ。自分が悪いことをしているから、人を疑いたくなるんだよ」
麻衣子は美味しそうに宮内庁の料理人がつくった和食を口にしつつ話す。
「まあ、実際に総理は何度も暗殺されかけてるよ。私もお世話係りしながら護衛も兼ねてたけど、実の父親が訪ねてきても身体検査あったからね」
マルーシャは珍しそうに味噌汁を飲んでみた。
「…………」
「どう、美味しい? 日本食は口に合う?」
麻衣子に問われ、問い返す。
「これは海草ですか?」
それなりに器用にマルーシャは箸を使っている。
「そうだよ、ワカメ。苦手かな?」
「いいえ、まあまあ、美味しいです。食べられなくはない」
マルーシャと違い、笑美は文句を言う。
「この味噌汁、ざらっとして美味しくないのです」
「ざらっとしてるのは大豆の形が残ってるタイプだからかな。好き嫌いあるかもね」
食べ終わるのが一番遅かったのは女三人の会話をすべて通訳した上呂村だった。
「ごちそうさま」
上呂村が手を合わせ、腕時計を見る。
「まだ35分ほどありますね」
「庭園を散歩しててもいいって。ようするに食休み。あ、桜が咲いてる!」
麻衣子が嬉しそうにスマートフォンで写真を撮っている。マルーシャも庭園に出て桜を見上げた。
「キレイな木……」
笑美と上呂村も庭園に出た。完璧なまでに手入れが行き届いた庭園は一つの芸術作品のように美しい。枯山水も整い、小石の一つさえ定位置が決まっているように見える。けれど、その枯山水を踏み荒らして少年が走ってきた。
「ハァっ、ハァっ、君か? 報道委員になった石原笑美さんは!」
十歳くらいの少年は、いきなり笑美に問うてきた。
「そうだよ、私は報道委員」
身分を隠すつもりはないので笑美は堂々と答えた。その答え方が気に入ったというように少年は頷き、さらに問う。
「芹沢鮎美を倒す報道委員になるんだな?」
「ええ、そうなのです」
「よしっ、じゃあ、オレと友達になってくれ」
さっと少年が右手を出して来たので、笑美は握手に応じながら問う。
「同志は大歓迎なのです。あなたは芹沢のどこが嫌いなの? 何かされた? あなたのお名前は?」
「全部だ。何もされてない。オレの名は、鷹仁(たかひと)だ。姓はない、皇族だから」
「ふーん……」
笑美は反応しなかったけれど、麻衣子は驚いた。
「鷹仁って、鷹仁親王?! 皇太子の?!」
「ああ、そうだ」
頷く少年の面影は鮎美に似たところがある。さらりとした黒髪と利発そうな目が似ていて、他は男性としての成長をしている10歳の少年らしい幼さと男らしさの混交があって、この先どんな大人に成長するのか、女子から見て期待したくなる顔立ちだった。
「赤ちゃんの頃の写真しか公表されてないけど……もう、こんな大きく……」
麻衣子が言い、マルーシャも状況を上呂村による通訳のおかげで理解する。
「日本の王子様………皇帝の子供………」
「オレの電話番号だ。よろしく頼む」
鷹仁は背後から追ってくる世話役の気配を感じて、急いで笑美にメモを渡してくる。笑美は状況の理解が追いついていない。
「君は……芹沢の子供なのですか?」
「ああ、そうだ。あいつの子供ではある。遺伝子だけはな。でも、オレをちゃんと育ててくれたのは、鷹姫お母さんだ。あいつは何もしてない。産んだだけだ」
「「「………」」」
笑美と麻衣子、マルーシャは少年がどういう不満をもっているのか、明らかに母親の愛情不足が原因の反抗期に入っていると、理解した。
「石原さんの電話番号を教えてほしいんだ。頼む」
「ぅ、うん! ほら!」
もう世話役が近くまで迫っているので笑美も急いでスマートフォンを出して、もらったばかりのメモにある番号にかけた。それで番号の交換が終わり、鷹仁は世話役に捕まらないうちに走って逃げた。笑美は小さくなっていく鷹仁の小さな背中を見つめながら、つぶやく。
「あの女の……子供。………あいつは、子供にまで嫌われてるんだ」
「「………」」
マルーシャと麻衣子も黙って見送る。そのうちに宮内庁の職員が笑美たちを呼んだので応接室に移動した。入った応接室は20畳ほどで丸いテーブルを囲んで椅子が人数分配置されている。笑美たちが着席して10分ほど待つと予定時刻の3分前に鮎美が一人で訪れた。
「こんにちは、石原さん」
鮎美は柔和な微笑みと優雅な会釈で挨拶する。上呂村は椅子から立ち上がり一礼し、麻衣子も立って頭をさげた。
「「………」」
笑美とマルーシャは座ったまま、挨拶を返すことよりも鮎美を見ることに意識がいっていた。鮎美は白いスーツに赤いスカーフを巻いた年齢にふさわしい衣装で貴金属は身につけていない。笑美が挨拶を返さなくても、握手を求めて右手を出してきた。
「………」
笑美は鮎美を睨んだ。それで握手を諦めた鮎美はマルーシャに握手を求める。
「…………、あなたのせいで私の祖国は苦しんでいる!!」
「……」
鮎美は笑顔をやめて小さく頷いた。それから麻衣子を見る。
「大浦さん、お久しぶり。おかわりないようで、よかった」
「ぅ、うん。お久しぶり。……総理は変わりましたね」
「老けてる?」
「あはは、貫禄っていうのかな……なんか威圧されそう」
麻衣子は握手しつつも少し手が震えるのを自覚した。鮎美は何一つ威圧的な雰囲気を出していないのに、その姿に圧倒されそうな気配がある。会うつもりで来たのに、いざ会うと麻衣子は強く緊張していた。もしも初対面だったら緊張のあまりカチコチになったかもしれないとさえ感じた。
「そう緊張しないでください」
そう言って微笑み、今度は上呂村と握手する。
「おつとめ、ご苦労様です。上呂村さん」
「お会いできて光栄です」
上呂村も少しは緊張したけれど、年長者らしい余裕をもって握手に応じた。鮎美が着席したので麻衣子と上呂村も座る。
「…………」
鮎美が黙って待つと、少しの間、場に沈黙が生じた。笑美が何から言うべきか、迷っているうちに再び鮎美が言う。
「録画や録音をされなくていいのですか?」
「あ! カメラ!」
言われて笑美が報道委員として大切なことを思い出した。急いでビデオカメラを立てる。カメラマン専門のスタッフを雇う時間もなかったので素人丸出しの手際だった。
ピ♪
ビデオカメラが録画を始めた。鮎美はカメラ目線になって軽い会釈をした。どう撮られても大丈夫という自信と慣れがあった。笑美には慣れも自信もない。けれど、勢いだけはあった。
「お前に訊きたいことがある!」
「どうぞ」
「牧田詩織は殺人鬼だった! みんなを殺した!! 私はこの目で見た!!!」
「………」
「お前も殺人者だ!! 何人も死刑にして楽しんでいる!! 日本人だけで足りずウクライナの人たちまで殺している!! いつまで、こんなことを続ける気なの?! 何人殺せば気が済むの?!」
「昨日までに私の判断の結果として死刑になった人は164名です。ですが、みな強盗殺人や強姦殺人など重い罪を犯した者ばかりです。合理的な証拠に基づき、多くは苦しまない絞首刑か銃殺、一部は被害者遺族による残酷な死刑で亡くなりましたが、そこに私は後悔していませんし、国民の総意も頷いてくれています。何より死刑を楽しんだことは一度として、一瞬として、ありません」
「嘘だ!!」
「私は死刑を楽しみません。いつも極めて無念に思います。犯罪の被害者が生じたこと、犯行におよばせた社会状況と個人の資質、どうにかできなかったのか、いつも残念です」
「お前も殺人鬼なんだ!! だから平気で人を殺せる!! 普通、人は人を殺せない!!」
「……もう少し冷静にお話し合いをできませんか?」
「戦争までしておいて何が冷静になの?!」
「私はフーチン大統領の判断を尊重しております。ロシアは11年前の大震災で半ば滅びかけた日本に援助の手をさしのべてくれました。この11年間ずっと。ロシアからの援助がなければ、今日の復興はなかったでしょう。振り返って、ソビエト連邦が解体した1990年代、私たちは彼らへ何か援助らしい援助をしたでしょうか。バブル経済に浮かれ、バブル経済の余韻に浸り、あれほどの栄華を誇りながらも困窮している他国を本気で助けることなどしなかった」
「だからって戦争を手助けしていい理由になんかならない!!」
「呼んでいた陪席者が到着したようです」
鮎美が秘書官の男性同性愛者から耳打ちされて笑美たちに陪席者を入れることを伝えた。もともと笑美が報道委員としての総理との面談取材へ、急にマルーシャを陪席させたいと申し出ていて、それは承知されたものの交換条件のように鮎美側も陪席者を入れることになっていた。その人物が到着したようで応接室に入ってくる。入ってきたのは20代後半の女性で白人だった。マルーシャには一目でロシア系の人間だとわかる。女性が名乗る。
「ウリヤーナ・トルスタヤです。私はマリウーパリ出身の医師ですが、アゾフ大隊の隊員から迫害を受け、3年前に日本へ移住しております」
ウリヤーナは日本語で話している。右脚が悪いようで杖をついていた。鮎美が仕草で椅子を勧めたので着席して話を続ける。
「私が襲われたのはマリウーパリのアゾフ海沿岸のボートクラブそばです。最初は職務質問の形をとっていましたが、私のウクライナ語が下手でロシア系だとわかると、いきなり顔面を殴られました」
そう言いながら前髪をあげて右目を見せてくる。視線の動きや瞼の形に左と比べて違和感があった。
「眼底骨折でした。かろうじで失明はしませんでしたが、4人の男性隊員は私を強姦し、それが終わると股間を蹴られました。おかげで右股関節の骨が折れ、歩くのに今でも不自由しますし、おそらく出産するのは難しいでしょう。さらに斧のような刃物で頭を打たれました」
ウリヤーナは後頭部の髪を持ち上げると、斜めに傷跡がある頭皮を見せた。傷跡のせいで毛髪が生えなくなり、くっきりと傷跡が残っている。
「打たれて気絶した私は近くの線路にうち捨てられました。おそらくは鉄道自殺に見せかけるつもりだったのでしょう。けれど、別の交通事故のおかげで運休になっており私は目を覚まして線路から逃げ、どうにか助かることができたのです」
「「「………」」」
笑美と麻衣子、マルーシャが強姦被害にあった女性に何を言っていいか、言葉に詰まるのでウリヤーナは続ける。
「私が被害を警察に訴え出たところで無駄でした。アゾフ大隊は、もともとは過激なサッカー応援団、ウルトラス、日本ではフーリガンと言った方がわかりやすいですが、そういった集団が発祥の非公認の組織が自警団化し、白人至上主義を掲げ、ナチスのドクロマークや黒い太陽をシンボルにしていた連中です。それが親ロシア派住民との争乱の中でウクライナ政府の内務大臣により公認を受け、国家親衛隊になったものです。そんな組織がロシア系住民に何をしたところで、警察は取り上げてくれません。いわば、警察官が強姦したのを警察署が揉み消すようなものですから」
「でも、……あなたを暴行したのが本当にアゾフ大隊だった証拠はあるの? ロシア政府の工作員の可能性は否定できる?」
マルーシャが反論した。ウリヤーナが言い返す。
「彼らのウクライナ語は完璧でした。何より、反ウクライナ感情を生み出すのが狙いのロシア側工作員なら、私への暴行をもう少し手加減してくれたでしょう。あれは完全に殺す気でした。マルーシャさん、あなたはウクライナ北部の出身でしたよね」
「ぇ、ええ…私のこと、知ってるの? まだ自己紹介してないはず…」
「もう有名人ですよ。でも、ウクライナ北部の人に私たち南東部の事情はわからない。ロシア系住民が多いのに政府はウクライナという苦渋が想像できますか? 暴行されて警察が味方してくれない場所なのです。何度も請願して、やっとロシア軍が来てくれた。日本軍とともに。そして、私は助けを待てず3年前に日本へ逃げ込んだ人間です。医師という資格のおかげで、受け入れてもらえた。でも、家族や友達は残してきた。その家族や友達がいるマリウーパリが日露共同軍によって解放されたと聴いたときの嬉しさ、わからないでしょうね」
「解放じゃない!! 侵略してきたのは、そっちでしょ!!」
「解放です」
「違う!!」
マルーシャがテーブルを叩いたので、置かれていた茶器が鳴った。ウリヤーナが再反論を控えたのでマルーシャも次の言葉が出ずに黙る。鮎美も意図して何も言わない。自然と視線が笑美に集まった。
「………ぅ、…ウクライナのことは、よくわからないけど、あなたは殺人鬼なのです! 牧田と同じに!!」
笑美が話を戻したので鮎美が答える。
「あの人が殺人鬼だったのか、そうではなく震災直前に私を落とし入れるために用意された捏造事件だったのか、今となっては調べる術がありません」
「私は見た!! はっきり見た!! あいつは絶対に殺人鬼だ!!! 捏造なんかじゃない!! まともな人間は、あんな風に楽しそうに人を殺したりしない!!」
「………」
鮎美が指先で長い髪を耳にかけた。マルーシャとウリヤーナは少し心配になる。笑美と鮎美は女同士とはいえ、国家の代表を相手にここまで言って笑美の身に危険がないのか、心配になる。明日もしくは来週、来月、笑美が殺されるのではないか、交通事故や暴漢の仕業に見せかけてスパイ庁が動くかもしれない、そんな心配だった。鮎美は一口だけ紅茶を飲むと、笑美に語りかける。
「当時、あなたが保育園児だったように、私は高校生でした。そんな私から見て彼女は同性愛の分野においても人生においても大きな先輩でした」
「だからなんなのですか?」
「そういう憧れもあったのですが、高校生にすぎない私が国会議員になり、とても忙しい中で彼女を深く知る機会も少ないまま、結婚を決めたのは今となっては軽率であったと思います。たしかに、あなたの言うように、そして断片的に残された証拠とドイツ警察からの情報提供を見る限り、牧田詩織には大きな問題があったのではないかと、今さらながら感じます」
「……認めるのですか?」
「はい。それと同時に、石原さんが遭遇した事件のいたましい記憶から、どうか立ち直ってほしいと切に願います」
「っ、私は勇気くんたちのことを忘れたりしない!!」
「牧田詩織もすでに亡くなりました」
「お前も同罪だ!!」
「………」
うちを憎むことが、この子の生きる根源なんやね、石原はんの妹に憎まれ続けるんは、ちょっと残念やわ、そして、この子には反芹沢鮎美の民意が期待として集まってる、もっと頭のいい子やったら困ったかもな、と鮎美は思考し紅茶を飲んだ。そして、それからの質疑応答は笑美の報道委員としての知的水準が低いことを国民に暗示するように仕向けて取材時間を乗り切った。鮎美はウリヤーナと応接室を出る。
「ウリヤーナはん、お疲れ様。おおきにね、嫌な記憶を語ってくれて」
「いえ、総理こそ、お疲れ様です。それに私にとって嫌な記憶ではありますが、それを語ることがロシアと日本の正義を世界に知らしめることになるなら、今後も励みます」
「うん。ほな、続けて医師会との会合も、よろしゅうね」
「はい」
鮎美とウリヤーナは迎賓館内に設置された遠隔会議室へ移動して石川県金沢市にある国会の小委員会と通信会議をする。会議は公開されており、参加者は投票による選挙で選ばれた衆議院議員と、クジ引きによる選挙で選ばれた参議院議員、そして医師会から選出された医師たちだった。会議の冒頭で医師会の族議員として桧田川紀子衆議院議員が言ってくる。
「お手柔らかに頼みますよ、芹沢総理」
桧田川は医師会と鮎美の仲介役として、双方にとって重要な立ち位置になっていた。増え続ける医療費の抑制のために鮎美は11年かけて医師の収入を制限してきている。その上で国民に提供する医療サービスを維持するために、もともと薬学部が6年制となって医師に劣らない学業期間がある薬剤師に大きな裁量を与えて、開業薬局だけで初期的な診断や継続処方箋について健康保険取り扱いでの単独業務を認めていたし、歯科医師の裁量も拡げ、コロナワクチンの接種も緊急時を口実に認め業務範囲を拡げていた。その他、従来から単独で打撲や捻挫の治療ができた接骨院を営む柔道整復師の業務範囲も拡げ、看護師においても10年以上の臨床経験がある者に単独開業を認めて健康保険と介護保険の取り扱いを認めたし、理学療法士と作業療法士にも経験分野における開業を認めていた。おかげで初期的な医療や慢性期の対応は医師以外でも提供されるようになり、なおかつ医学部の男子優先の不正入試発覚後は鮎美の独裁者としての権限で医学部の定員を男女半々に指定した。それらの改革には大きな抵抗があったけれど、民意の風と医師会側の不正や不平等な税制を世間に露呈することで、おおむね達成している。ウリヤーナをはじめとする外国人医師を受け入れているのもその一貫で、桧田川が鮎美と親交がありつつも医師会との間に立つ一方で、外国人医師たちは完全に鮎美の味方として仕事をしてくれている。とくに、どうしても専門家でない鮎美や国会議員に不足する知識や反論の材料を与えてくれる存在として大いに役立っていた。その結果、医師会の力は弱まり、医師の平均収入は落ちている。それは医学部を志望する受験生の減少を導き、医学部偏差値の低下と同時に、金儲けではなく真に医師を志望する者の受験を増やし、同時に他の理工系学部の偏差値の上昇を招き、とくに工業と建築、軍事分野への人材流入が進んでいた。
「では、今回の改定では0.025%の診療報酬減額ということで」
ウリヤーナが会議をまとめ、大きな反対は出なかった。次の公開会議は道路行政で座長は久野統一朗だった。この11年ずっと国土交通大臣を務めてくれている。年齢的にそろそろ交代の時期だったけれど、鮎美の任期切れが間近なので、それまではと頑張ってくれていた。
「やはり国道の拡張で、強引な土地収用に対し一部でテロ行為まで生じることが去年だけで7件。民意の多数は利便性の向上を喜んでくれていますが、一部の不満を無視し続けることは、やがて大きな禍根になると考えますよ、総理」
「はい。……とはいえ、スピード感ある復興と、渋滞の解消には土地収用にご同意願うしか……」
座って答えていた鮎美はカメラ目線になると、立ち上がって深く頭をさげた。
「道路のため、多くの国民のために、土地を収用される皆様に対し、深くお詫び申し上げます。さまざまな事情があり、手放しがたい土地を譲っていただく…、いえ、強引に取り上げることを、どうか耐えてください。そのおかげで渋滞は減り、復興の速度はあがり、交通事故は減り、多くの命が救われるのです。土地処分委員の皆様には、適正な評価による補償を引き続き、お願い申し上げます」
不特定多数の地主に謝って会議を終えた。すでに17時を過ぎ、働き過ぎを避けるために鮎美も普段なら業務を離れる時刻だったけれど、防衛大臣との秘密会議を持つ。
「昨日の日本軍戦死者は3名、ロシア軍は100名程度。ウクライナ軍の戦死者は500名前後との報告ですが、詳細は不明です」
高齢で引退した畑母神に替わり鶴田都司が防衛大臣となっていた。鮎美が問う。
「戦死者のお名前は?」
「坂口拓也兵長、吉本直樹軍曹、春沢翔太特務兵長です」
ウクライナとの時差は6時間なので昨日の戦況がまとまって伝わってくる。鮎美は戦死者の名前と写真を確かめると、しばらくの黙祷をした。そして問う。
「参戦を布告した英仏軍の状況は?」
「英国は着実に準備を進めております。フランス軍は進めていますが、やや動きが鈍いという情報もありますが、真偽不明です」
「そうですか。他には?」
「日本軍戦死者における特務兵の数が全体の比率に対して、やはり多いです。にわかに雇った者ですから練度が足りておらず、不用意な行動からの戦死が目立ちます」
「……、対策はありますか?」
「現場への徹底は再三しておりますが、練度不足と本来は兵士ではないという意識は対策しづらいようです。ひどい者では街へ買春に出歩き、危うく強姦冤罪をかぶるところだったとの報告もあります」
「街って、ロシア側の?」
「いえ、ウクライナ側、北部のボルズナー市でのことです」
「………」
鮎美が左手で額をおさえた。鶴田が問う。
「処分されますか?」
「詳細をお願いします」
「はい。では…」
鶴田は小本の行動が原因で生じた事態と結果を美紗子が報告してきた内容通りに鮎美へ伝えた。
「女性隊長のところで……一番、頭が痛かったんは、この森ノ宮美紗子はんやろね」
「上官も処分されますか?」
「まさか。この人、うまく状況を利用して市民の武装解除を進めてるし、むしろ表彰もんやん。何より、不祥事や不始末も隠さず報告すること、っていう方針に忠実すぎるほど従ってくれてるし。この人を評価する方向で考えておいてください」
「了解です」
秘密会議を終えると、鶴田は天皇である義仁へ戦死者を英霊とする儀式のための報告へ、鮎美は鷹姫と会うために京都御所の奥にある皇后御常御殿へ歩いて移動する。政治の場に改造した迎賓館からは御所の敷地が広いので、それなりの移動距離になった。
「お帰りなさいませ、鮎美様」
宮本鷹姫が出迎えてくれる。二人とも厳密には皇后ではないので姓は残っている。そして、御殿は文化財としての側面が強いので、ほぼ改造していない。平安時代からそのままの造りで、鷹姫の服装も十二単だった。二人とも、それが気に入っている。
「ただいま、鷹姫」
「ご夕食になさいますか、それともお風呂。……それとも、わ、た、し、…でしょうか?」
毎晩同じことを言わされている鷹姫は今夜も恥ずかしそうに言った。夕食の準備のために他の女官たちもそろっているので、かなり恥ずかしい。そして、大勢いる子供たちは全員が若宮御殿で早めに寝かされている。鮎美が嬉しそうに微笑む。
「う~ん♪ やっぱり鷹姫のそれを聴くと癒されるわ」
「おたわむれを」
「たわむれたいけど、昨日も戦死者を出したから」
「では、ご夕食をどうぞ」
「うん」
必ず鷹姫の手料理が一品は入っている夕食を鮎美は美味しそうに食べた。豪華ではないけれど、かなり栄養バランスの整った食事をゆっくりと食べてもらい、食後の休憩時間もとってもらってから、鷹姫は深々と頭をさげて畳に額をつけた。
「鷹姫、どうしたん?」
「大変にお叱りをいただくことがございます」
「そうなんや、言うてみて」
「恐れながら今朝、鷹仁殿下を私たちが見失い、迎賓館の方に出向かれたようで、おそらくは総理の面談相手であった石原笑美なる報道委員と接触した様子があります」
「ふ~ん……」
「お昼に問いただしたのですが、お答えいただけませんでした」
「単なる好奇心やろ、うちを一番批判してる報道委員やから」
「もっとも会わせてはならない相手に会わせてしまい、面目次第もございません」
鷹姫は頭をさげたままでいる。十二単なので、よく似合っているけれど、顔を見て話したいので鮎美が言う。
「まあ、顔をあげてよ」
「はい」
「鷹仁って、いくつやった?」
「…十にございます。お忘れにならないであげてくださいませ」
「ごめん、ごめん、いろいろあるから、つい」
「まだ起きておられるかもしれません。お会いになってお言葉を交わされますか?」
「う~ん……なんとなく、子供って苦手やし、うちの俗っぽいところが伝染しても皇族として困るし、鷹姫の思うように育てて。それより、お風呂、いっしょに入ろう」
「……はい」
この方をして苦手と言わしめることを求めてもよくないことかもしれません、ですが、お二人はよく似ておられます、まさに、あなたのお子様です、と鷹姫は想いながら鮎美の入浴に付き合った。子供たちとも入浴しているので本日3度目だった。
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