創作民話・『魚屋道(ととや道)』

北風 嵐

第1話

深江(現在東灘区)の浜で取れた魚を、六甲の山を越して有馬温泉に運ぶ道を魚屋道という。深江の浜の漁師伊作は、この道を使って有馬の宿に魚を卸していた。山越えの道は大変だったが、鮮度がいいので、その分いい値段で売れるのであった。


 伊作は年老いた母、お松と住んでいた。魚がいい値段で売れたときは、母親の好物の温泉まんじゅうを買って帰ってきたりして、近在では母親思いで通っていた。伊作が風邪で寝込んでいたとき、父親の伊平が一人で海に出て帰らず、海の人になってしまった。伊作は「おらが、無用心したばっかりに」と悔しがり、それから漁師仕事に人一倍気張るようになった。


 伊作は有馬の老舗旅館のいい得意先を持っていた。伊作の魚は鮮度がいいということで、言い値で買ってくれていた。さる西国大名が浜の路を取らず、有馬から京に行く山の西国街道を通り、その旅館に泊まるとかで、

「伊作さん、その日に立派な鯛を一匹都合をつけておくれ」と頼まれていた。

「しけでもない限り、なんとかします」と請け負った。

 運良くその日思うようなものが釣り上がった。これなら旅館の主人も喜んでくれると、伊作は魚屋道を急いだ。


六甲山のこんもりとした森に来た時に、一匹の狐が現れて、

「娘が病になって死にそうなのです。最後になんとかおいしい魚を食べさしてやりたいのです」と懇願した。伊作は少し迷ったが、子を思う親心に人も畜生もありはしない、子供はそれが最後かもしれないが、お殿様ならいつでも食べられると、その鯛を狐にくれてやった。

 旅館は約束の鯛が入らなかったことで機嫌をそこね、伊作は温泉での信用をすっかり落としてしまった。近在で売りさばくだけでは、伊作は以前のような実入りはなく、貧しい暮らしが続いた。


 あるとき、近在から魚を売っての帰り道、一人の旅の娘が腹痛で苦しんでいた。家に連れ帰って、二日三晩寝ずの看病を母親共々してやると、娘はすっかり元気になった。お礼にと家の掃除や、目が悪くなって針仕事が思うように出来なくなっていたお松に代わって繕いものをした。障子も張替え、家の中はすっかり見違えるようになった。娘はいっこうに出かける様子もなく、伊作の家の仕事に精を出した。


娘はお松が祭っていた裏の稲荷の祠の供え物も欠かさず、神信心怠りなかった。お松が事情を聞くと、

「母親と一緒に有馬に奉公していたが、母親が亡くなり伏見にいる妹を頼って行く途中であったが、出来ればここで働かして欲しい」と娘は話した。お松は「良ければだけれど、伊作の嫁になって貰えないだろうか」と頼んだ。娘は恥じらってうつむいたが、小さな声で承諾をした。

 三日だけ伏見の妹のとこに行って来ると行ったきり、音沙汰がなかった。「ああー、やっぱりウチのような貧乏所帯の暮らしでは嫌なんだ」と諦めかけた頃、夕方どき、立派な花嫁行列が東の方からやって来た。どこに嫁に行かれるのやら、「やれ、羨ましい」とお松が見ておれば、伊作の家の前で止まり、籠から出てきた花嫁はあの娘であった。


「身体一つで嫁ぐわけにもいかず、支度に手間取りました」と挨拶をした。その支度を見て、京でもたいそうな身分のところだろうと在所の連中は噂をした。新しい嫁、お夏は以前のように家の仕事をこまめにし、伊作は漁に精を出したが、貧しい暮らし向きに変わりはなかった。


あるとき、お夏がここに井戸を掘って欲しいと伊作に頼んだ。その井戸からは水が潤沢に出た。その井戸の水を在所の造り酒屋に使ってくれとお夏が話を持って行ったところ、その酒屋は伊丹にも酒蔵を持っていたが、同じ作りでも深江の蔵で作る酒が数段美味く出来た。味の違いは水にありと酒蔵の主人は読んで、井戸の水を買う約束をしてくれた。近在の灘の造り酒屋も習って井戸を掘ったが、伊作の井戸のような水脈に当たるとは限らなかった。


 お夏が掘れと言った井戸からは、間違いなく美味い酒を作る水が出た。伊作のような商売を水屋と呼ぶようになり、この水を宮水と呼び、灘の酒は伊丹、池田の酒に代わり、江戸出しの酒『下り酒』として人気を得たのであった。灘は栄え、伊作の家が栄えたのは言うまでもない。


 その花嫁行列といい、その井戸の有り場所の当てる能力といい、ただのものではないと思った伊作がその身元を尋ねると、

「私の母親は、あなたに鯛を頂いた狐です。おかげで私は元気になり、母には『この恩は忘れでないよ』と言われて育ちました。母は亡くなりましたが、母の出所は伏見稲荷です。狐であったのですが、長くやっていたら元に戻る力も消え失せました。あなたが良ければこのまま置いていただけないでしょうか」といい、伊作とお夏はその後も仲良く暮らしたということです。


魚屋道の道筋に稲荷神社があり、その神社の名前は森稲荷神社という。


注釈:酒どころ

伏見の酒造りが最も栄えたのは、太閤秀吉が伏見城を構えた室町時代で、応永22年(1415)の酒屋の名簿によると、洛中洛外あわせて342軒の造り酒屋があったことが記されている。その頃江戸はなく、最大の消費地は京都と大阪であった。淀川の水運が利用された。


江戸時代になって最大の消費地は江戸になった。江戸中期以降、伊丹領主だった有力公家・近衛家が同家が庇護する伊丹の酒で独占されていまい、伏見酒の京の市中への進出が禁じられてしまったこともあり、伏見は次第に衰え、代わって伊丹、池田の酒が江戸に運ばれるようになった。西からのこのような酒のことを「下り酒」と云う。六甲からの宮水を使うことによって、灘の酒が江戸で人気を博し、江戸積廻船を利用出来る地の利を生かし、灘の酒が伊丹、池田に代わって急激に台頭をした。現在、この三地名とも美味しい「酒どころ」としてその名を馳せている。


実際に残っている魚屋道の民話はこのようなものである。

〈ある日、この魚屋道を若い魚屋さんが通っていました。動物好きの魚屋さんは山の中にお腹の空いた山犬がいると思い、ときどき余った魚を投げていました。「そうれ、魚だぞー!おいしい魚だぞー!」

有馬温泉からの帰りが遅くなったある日のこと、六甲の山道をとぼとぼと歩いて帰る魚屋さんの前に狼の群れが現れました。「あっ!狼だ!」あわてて逃げる魚屋さん、そこに大きな山犬が現れ、魚屋さんの着物の袖を山犬は力いっぱい引っ張ります。「ひぇ~!助けてくれ~!」。魚屋さんは大きな岩陰に引っ張り込まれました。こうして山犬に助けられたという話です。


魚の鮮度は、笹の葉に水を含ませ藁でくるんで運んだということです。




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創作民話・『魚屋道(ととや道)』 北風 嵐 @masaru2355

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