第5話 キジトラ小猫「グレ」
背中のリュックサックからトラ猫が顔だけ出している。こんな阿呆な格好で校門へ続く欅並木を歩いていた。並木道が華やいでいるのは、五月の木漏日のせいばかりではない。半分近くが新入生の女なのだろう。毎年の光景とは言え、現役だったら僕の五つも下の女たちは可愛いが、うるさく小便臭くてかなわない。
彼女たちは僕の背中のグレを見付けると、臆面もなくキャーと騒いだ。しかし、僕のしかめ面を警戒して近寄っては来ない。
こんな無様な格好で大学に来なければならないのは、身から出た錆と、もう一つ理由があった。就職事務室から呼び出しを受けていたのだ。
校門の前では、ヘルメットにボロ布で覆面をした小男が二人、アジビラを配っていた。大方の学生は避けて通っていたが、僕はそれを受け取ると、奴らの目前で破って捨てた。不安や焦燥は僕にも腐るほど有った。しかし、それを何かにすり代え、深刻ぶってひけらかす奴には虫酸が走った。気色ばんだ二人が歩み寄り僕を睨みつけたが、睨み返すと彼らは僕の異様な出で立ちに恐れをなしたか無言で後退りした。それとも背中のグレが奴らにガンを飛ばしたのか。
「由宇じゃない。どうしたのよ?」
ハッとして振り返ると遥子だった。膝小僧が破れてほつれたジーンズは、当時流行で長身の遥子には似合っていた。さらに遥子はヒールのついたサンダルを履いているので、僕と殆ど背丈が変わらない。
しかし、僕が目を奪われたのは、彼女のそんな粋なスタイルではない。彼女のジージャンに見覚えがあったのだ。それは、僕がケイと初めて会った時、ケイが着ていたものとそっくりだった。独特の刺繍が同じだ。たまたま同じ既製品を買ったのだろうか?しかし、よく見るとそのジージャンは遥子には少し小さい。ケイは一六三センチで痩せているが、遥子は一七〇センチで、おまけに水泳で鍛えた骨格なので、服のサイズは一回り以上も違うはずだ。
「どうかしたの?」
「いや、別に」
実はその日、遥子に会いたくない理由がいくつか有った。第一には、ケイをモデルに送り込んでおいて、彼女との気まずい関係が解消されないまま、撮影会をシカトしたことだ。もう一つは就職事務室に呼び出されていたからだ。
グレが背中でニャーと細く長く泣き、僕の髪を両手で掻きむしった。
「痛ッてえな、この恩知らず!」
僕のいろいろな憶測は、その時点で立ち消えた。遥子は突っ立ったままの僕と、暑さで暴れるグレを交互に見て、膝を抱えて芝生に座り込むと笑い転げた。
「しばらく見ないと思ったら、あのケイって子に懲りてネコにしたんだ?」
「茶化すなよ。本当に困ってるんだ」
「ケイも、そう言えばネコ系の女よね」
「ケイと何か話したのか?」
やはり、遥子のジージャンはケイのものに間違いない。
「あなたが撮影会に来ないから、私がフォローするしかないじゃない。私たち、あの後も何度か会っているのよ」
「ふーん」
「気になる?」
遥子は、バッグから取り出したキャノンのボディーにストロボと八五ミリを噛ませて、僕の背中のグレに焦点を合わせた。わざわざ逆光のポイントからストロボを発光させるらしい。
「可愛い。この子!」
「俺を撮るなよ」
「二人とも、可愛い!」
「よせよ!」
顔をそむける直前にストロボが発光した。グレはシャッター音に反応し、僕の背中を蹴って伸び上がり白い手を遥子に伸ばした。
「キミ、なんて名前?もしかして…ケイ?」
「まさか、グレだよ」
「グレだって…」
再び笑い転げながら、遥子は僕のリュックからグレを引き抜いた。
「まだ赤ちゃんじゃない。オスなの?メスなの?」
「分からない」
「バカみたい」
遥子は笑いながら、グレを高く持ち上げた。
「オスよ」
「チンチンがないじゃないか」
「何も知らないのね。ちっちゃいけど、タマタマが二つあるわよ。これ…」
遥子は、小指でグレの尻尾の付け根の小さな突起をつついた。
「チンチンは?」
「あなたのみたいに下品にブラ下がっていないのよ。ねー、グレ」
遥子は菩薩さまのような優しい表情で、グレの鼻に自分の鼻のてっぺんを擦りつけた。
遥子は頭の良い女だった。彼女はカメラのカの字も知らずに、一年の九月に写真部に入部してきた。持っていたカメラと言えば、中学生が修学旅行に持って行くあのオリンパスペンのハーフEEだ。仕方なく僕が貸してやった古いキャノンの一眼レフを、遥子は卒業まで使っていた。機械の使い方を教えてやると、遥子の上達は早かった。シャッターチャンスに敏感で、人や動物を撮る時、彼女のシャッターは被写体の次の微細な動きまですでに察知しているかのように無駄なく反応した。そして、遥子の写真には常に限りない優しさが溢れていた。
少し後になって分かったことだが、遥子は僕より三つ年上だった。一浪の僕より三つ上の女なんて全学探したってこいつの他にはいない。彼女は札幌の開業医の末娘で、幼稚園から大学まで一通のミッション系女子校に突っ込まれていたらしいが、大学一年の半ばで逃げ出した。その後は横浜の水族館に勤めて、イルカの調教や海獣のショーの手伝い等をしていたのだが、ある日、彼女はイルカからプールサイドに振り落とされて肩を骨折してしまい、一旦は強引に親元に引き戻された。しかし遥子は再び親元を逃げ出し、巡り巡ってこの大学に入ってきた。
僕の単細胞的な行動は、遥子が狙う被写体のように、いつも彼女に読まれている。一頃はその思い込みが酷く欝陶しく、一時遥子を避けたことがあった。でも、それも長続きはしなかった。僕には姉も妹もいない。それを良いことに、僕は遥子を姉と思い込むことにした。僕にとっては非常に好都合な思い込みなのだが、遥子も意外にすんなりとそれを受け入れた。遥子の真綿のような優しさや器の大きさは、親に愛想をつかされた僕には実に心地よかった。逆に、その相性の良さが、二人の距離になっていたのかも知れない。
そんな僕と遥子の関係に魔がさしたのは、二年の秋、山岳写真合宿の最後の夜だった。僕と瑤子は、ワゴン車に乗って雨の中、中腹のキャンプから麓の宿に機材を下ろしていた。その車が、路肩の泥に後輪をとられて立往生してしまったのだ。
拾い集めた朽ち木や石ころをタイヤに噛ませて、ようやく沼を抜け出したとき、僕と遥子は髪から衣服まで、泥まみれになってしまった。
仕方なく近くの沢に下りて滝壺に入り、着衣のまま服を洗っているうちに、僕はたまらず遥子を抱き寄せてしまった。遥子はそんな僕を拒まず、滝のしぶきを全身に浴びながら、僕に成されるがまま体まで開いてしまったのだった。
おそらくそのことは誰も知らないはずだし、僕も遥子もあまりにも自然にデキてしまったので、その後は何もなかったように元の二人に戻った…と、僕は勝手に思っていた。
女も二五になると風格がある。「若い子って素敵ね!」などとつぶやきながら、遥子はグレを肩の上に乗せ、目を細めてキャンパスに溢れている新入生の小娘達を見ている。
「由宇」
突然、遥子が一オクターブ低い声で背中越しに僕を呼んだので、僕は思わず身構えた。
「この子、どうしたの?拾ったの?」
「いや…」
「またワケあり?」
「別に…」
「何か、匂うわね」
瑤子は、鼻をひくひくさせ流し目で僕を睨み付けた。
「勘ぐるな。そうだ、こいつお前にやるよ!」
「ダメ、うちにもネコいるもの」
「えっ、いつからだ?」
「いいでしょ。いつからだって」
「だったら、なおさらいいじゃないか!」
目を輝かせた僕を、瑤子は冷たく否定した。
「だめよ。女の子だもん。ボールの毬に亜細亜の亜って書いて、鞠亜って言うのよ」
「マリアか?処女でも妊娠するもんな」
「やぁね。そんなふうに連想する?名前つける時、考えもしなかったわ」
「でも平気さ。こいつはまだ赤ん坊だよ。ここ一ヵ月で随分大きくなったけれどね」
遥子は、グレを膝の上に仰向けに寝かせて、手際よく歯茎をめくって見た。
「歯が二本づつ生えているわ。生後五ヵ月くらいね」
「奇形か?」
「バカね。乳歯と永久歯が同居しているのよ」
「さすがだな。獣医みたいだ」
遥子の動物好きは筋金入りだ。実に良く知っている。
「オスはね、九ヵ月くらいで生殖機能が完成するのよ。毬亜が危ないわ」
「うらやましいね。俺は一五年もかかった」
「バカみたい!」
「マリアは幾つ?」
「一歳半かな」
「年上の姉さんじゃ、ちょうど俺と遥子じゃないか!」
「やめてよ!」
「夏休みまでだったら、預かってもいいかな?この子、おとなしそうだし可愛いから」
「本気か?」
「条件があるわ。この子と由宇のいきさつを正直に話してくれたらね」
僕は二年の秋頃から、浩志と連るんで例のバイトをしていた。時給二千円は当時としては破格だったし、更にそれ以上のチップが貰えた。客は例外なく女だった。危険という意味は二つあって、一つ目は補助ブレーキのない車で町中に出なければならないこと。二つ目は、アフター教習。もともとが闇の商売なので、客は口こみで繋がっていることが多い。
このバイトに嫌気がさしたのは、浩志も含めた多角関係に巻き込まれたからだった。夜中に女からの電話はしょっちゅうで、母親が出ると…
「あんた、あの子の何なのさ?」
郵便受けには中身の入ったコンドームや、五寸釘の刺さったワラ人形。母親は冷め冷めと泣き、親父には蹴倒され、ついには帰る家もなくなってしまった。しかし、情けないもので、食うに困ると麻薬のようにそのバイトに手を染めた。
でも子猫に罪はない。予防注射を打ちに獣医に連れてゆき、トイレを買い、隣へ寝かせ、缶詰の臭さに閉口しながらも一ヵ月が過ぎた。僕を父親だと勘違いしているのか、出掛けようとするたびに、グレはか細い声でニャーと泣いた。そして、僕はついにリュックサックを買うハメになった。
と、まさか本当のことも言えず、僕は令子との経緯を即興で、海外転勤に出る近所の夫婦に置き換えて、成り行きを繕った。
「そうなの?かわいそうなグレ…」
「かわいそうだろ?」
「一ミリも信じてないけどね」
無理矢理にでも、預けてしまえば情が湧くに決まっている。
「遥子、今から富士見が丘まで付き合えよ。車でおまえのマンションまで送ってやる。俺今日、就職事務室に呼ばれているんだ。グレがいたら動きがとれないんだよ」
「じゃあ、早く行ってきなさいよ。待っててあげるから」
「やめた。今日はもういい。就職事務室は断る。気が変わった」
「そんなにこの子が邪魔なの?あなたは、いつだってそう。半端に優しいの。でもあなたの優しさって見せ掛けだけね。ただの釣りのエサ。女ってね遊べないのよ。強がって翔んでる振りしていてもね」
「おまえと俺のこと?」
「だったら、可笑しい?」
「よせよ。もう、お互い忘れていることだろ?」
「そう、忘れちゃったの?都合のいい人」
遥子はグレを抱えあげて、少し乱暴に僕の胸に押しつけた。
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