第4話 人妻「令子」

「誰なの?」

八回目の呼び出し音が途切れ、電話に出たのは令子だった。

「起きていたのか?」

「由宇なの?」

安堵と怒りの入り交じったため息が聞こえた。

「寝てたわよ。決まってるでしょ。」

「今、一人?」

「一人じゃなかったらどうするつもりだったの?」

「亭主が出たら切ろうと思っていた」

「あなた、相当飲んでるわね」

「イヤ、全然…」

「シラフなの?怖い人ね」

「今から、行っていいか?」

「ダメよ、こんな真夜中に!わたし、これでも一応主婦なのよ」

「じゃぁ、出てこいよ」

「相変わらず、メチャクチャね」

「亭主は?」

「学会でカナダに行ってるわ」

「アイちゃんは?」

「幼稚園の運動会で疲れて、爺じと婆ばのお家にお泊りよ。怖いわ。まるでうちの様子を知ってたみたいね」

「カンさ」

「それで、わたしに何の用?」

「言いにくいんだけど…」

「お金?」

「違う」

「じゃあ、残りは一つじゃない」

「令子」

「なによ?」

「会いたい。気が狂いそうだ!」

「もう、狂ってるわよ!」

「いや、まだ狂ってない」

「あなた、今どこからかけてるの?」

「用賀のFから。ため息つくなよ」

「用賀のF?」

「令子、来るまで待っている」

「仕方ないわね。車で行くわ」


 令子…主婦三十三歳。彼女は僕のバイトの三番目の客だった。僕がついた最初のお客の紹介だったのだけれど、彼女はとんでもない食わせ者で、仮免どころか二度も免許を書き替えていた。車だって自分専用のスーパーサルーンだ。実は、そんな不良マダムは彼女だけではなかったのだが、その中でも令子は飛びっきりの上玉だった。


 ホテルのバスルームの小窓から、第三京浜の下り車線が見えた。真夜中なので交通量はまばらだ。ヤンキー車が三台、乾いた轟音をまき散らしながら、レースまがいに突っ張り合っていた。令子はそんな場違いな喧噪に眉をひそめながらも、バスタブの縁に腰掛けた僕の足元に跪き、僕を咥えたまま離さない。淀んでいた外気が急に冷え込み、不気味に走り始めた風がルーバー窓を潜り抜け、狭いバスルームを駆け巡った。北の空に数本の稲妻が走っていた。


 湯に浸かり、背後から令子を抱きしめると、彼女は後ろ手で僕を探り握りしめながら、可笑しなことをつぶやいた。

「由宇、お願いがあるんだ。子猫預かってくれない?」

「子猫?子猫がどうしたんだ?」

「うちのお庭に迷い込んできたの。アイが見つけて、うちの子にしようって聞かないの」

 玲子は、そう言いながら湯船の中で体を入れ替え、僕に向き合った。そのまま擦り付けてくるので、それなら潜り込もうと合わせると、令子の腰は微妙に逃げる。

「飼ってやればいいじゃないか?」

「それがダメなのよ。アイって猫アレルギーだったの。目が腫れちゃって大変だったわ」


 一方的に刺激を受け続け、しびれを切らした僕は、濡れたままの令子をバスタオルで包んで抱え上げると、そのままベッド運び投げ出した。

「今日はまだダメ!」

膝を開こうと両手に力を入れると、令子は逆らって逆に膝を閉じてしまった。

「なんだよ。いつもは自分から跨って来るくせに!」

「だって、まだ返事聞いてないもん」

「返事って何?ああ、その猫のことか?」

「そうよ」

「わかった。俺が飼ってやる。それでいいんだな」

令子はニヤリと笑って、僕の首根っこにぶら下がり、いきなり大きく膝を開いた。

「うーん、小猫か?」

「由宇…今日は、中でいいわ」

「小猫ねえ?ま、何とかなるか…」

「ねえ、もっと…もっと奥…」

まるで話しが噛み合わないまま、由宇は令子の魔境、底なし沼に足を取られてしまった。


 暗闇のカプセルから抜け出ると、激しい雨が降っていた。それを振り払いながら、ワイパーが音もなく左右に振れる。その一定のリズムとスーパーサルーンの揺り篭の様なバネが、僕を束の間の眠りに誘い込んだ。僕はハンドルを支える両手を一杯に伸ばして、鉛を背負ったような背中をシートに押しつけた。


 令子は助手席に深く腰をかけて、まばたききもせずにじっと前を見ている。闇の中で声を震わせ、三度も僕に強いた令子は、すっかり静まりかえって、その気怠い無表情の中に優しさまで漂わせている。

「やだ!」

令子がつぶやいた。

「どうした?」と聞くと、令子は「まだ奥に残ってる」そうつぶやいて腰をひねった。

「冷たいのよね、出てくると…」 僕は背筋に妙な寒気を覚えた。子連れの令子に会った時のことを思い出したからだ。僕はコンソールのシガーケースの中から、令子のマルボロを一本引き抜いた。


「今度は、誰に振られたの?」

令子が横目で僕を睨んだ。

「何のこと?」

「とぼけてる」

「令子に会いたかっただけさ」

「うそが下手ね」

令子は立てた膝の上に顎を乗せ、猫のように瞳を光らせて僕を見上げた。


 用賀のFに戻る頃には闇が溶け始め、二四六号線の水銀灯が消えかかっていた。満艦飾の長距離トラックの一団が僕たちのクラウンを追い越して行った。ケイの祖母はフランス人だと言う。泥をはねながら通り過ぎるトラックのテールランプが、陶器のように白いケイの顔に深紅と藍の光を走らせた。


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