第3話 テールランプ
富士見が丘は、吉祥寺から井の頭線で幾つか目の小さな駅だった。浩志の部屋は、駅からさほど離れていない閑静な住宅街の中に有った。右足のかかとが痛かった。それは慣れない革靴せいだった。僕は痛む右足を引きずりながら、夕方の人込みをかきわけ、ひたすら浩志の部屋へと進んだ。
大家のおばさんとは顔見知りだった。僕は不様なリクルートスーツ姿を人目に曝したくないので、おばさんの背後を擦り抜けようとしたが駄目だった。
「あら、由宇くん。今日はどうしたの?そうか、会社訪問ね。中々似合うわよ」
僕は、死んだ魚のような目でおばさんを見た。
「有難うございます。そう言ってくれるのはおばさんだけです」
捻りだした愛想笑いを口元にうかべながら、僕は下駄箱を開け、浩志のズックの中をまさぐった。その中に隠された鍵を急いで取り出して、僕は誰もいない部屋に入った。
いつもながらの殺伐とした風景が、そこに有った。ワンカップ大関の瓶が三本転がっていた。その内の一本には、タバコの吸い殻がうずたかく詰め込まれ、残りの酒と反応しあったその異様な匂いは、その部屋の全てを象徴していた。僕は靴下を脱ぎ、リクルートスーツをネクタイで縛って部屋の隅に投げ捨てた。そして冷たい畳の感触を足の裏で楽しんだ。思わず微笑みがここぼれる程、その部屋は僕を落ち着かせた。
テレビを捻るとお笑い番組にキャンディーズが出ていた。一番背の高い女の髪型と後ろ姿が、あの日気まずいまま別れたケイに似ていた。
僕はこの一週間一体何をしていたんだ。家にも帰らず、学校にも部室にも顔を出さず、浩志の部屋にこもってケイのことばかり考えていた。ベッドに身を投げ出しても、寝付けそうにもない。
あの日、久我山のケイのアパートに着いた頃には日付が変わっていた。車を下りようとしたケイの顔が凍り付いた。ライトに浮かんだのは、四〇過ぎの身なりの良い男だった。
「何しに来たの?」
圧し殺した声で、ケイが男に詰め寄った。僕はいったん消したライトをハイビームに切り替えて点灯した。男は眩しそうに顔をしかめて、ケイに一言二言何か早口で喋って消えていった。男が去った後、ケイはしばらくアパートの階段に座り込んでいた。
「話があるんだ。入っていいか?」
ケイはしばらく沈黙した後、「いいわ」と小声で言った。
六畳ほどの部屋の隅には画台が二台、その内の一台は白紙に落書のような曲線の書きなぐり、もう一枚には痩せこけた半裸の女の全身像が淡いパステルで描かれていた。六尺はある塗装が禿げた長い合板のテーブルには、ファッション雑誌が数冊とパステルと水彩絵の具が散乱していた。若い女の部屋にありがちな、スヌーピーやキティーちゃんはどこにも見当らない。
「きょろきょろしないでよね」
初めて入る女の部屋は、どうも居心地が悪い。
「この人は?」
僕はキャンバスの中の女を指差して聞いた。
「もう一人の、憎い女」
「これも、破り捨てるの?」
ケイは、それには答えずに「座ったら?」と言った。
僕は画台の前のスチール椅子に腰掛けて、タバコに火を点けた。去っていった四十男の事を問い詰めたかったが、切り出せない。ケイも押し黙ったまま身構えていた。コンロの上のヤカンがピーピーと場違いな音をたて始めた。
「抱きたいんでしょ?わたしを」
沈黙を破ったのはケイだった。
「ああ、結局そうかも知れない」
「で、どうするの?」
「どうするって?」
ケイは台所に立ってガスを止めた。
「私…かまわないわよ」
急須に湯を注ぎ、背中を丸めたままケイはそう言った。
「かまわないって何だよ?その言い方」
「好きにしたら?抱きたかったら抱けば?」
「水を掛けるような言い方するなよ」
「ロマンチストなのね。でも体なんて:たかが体でしょ」
「たかが体?じゃあ、お前の心はどこにある?」
「何も考えたくないわ」
「わかった。じゃぁ何も考えるな」
僕はかなりいらいらしていた。しかし、点火した性欲は消しようがない。勢いでケイの手首を掴みソファーベッドに押し倒した。シャツのボタンを外して胸を開いたが、フロントホックのブラの止め金がなかなか外れない。そんな僕の忙しない指先をケイは静かに見つめていた。
「なにも聞かないの?体だけでいいのね」
「なにを聞けばいいんだよ。あの男が帰って僕がこの部屋に入った。この状況で、それ以上お前に何を聞く?」
脳みその上半分を使ってケイと喧嘩をしながら、下半分は僕の右手の神経に直結していて、大き過ぎないケイの胸の張りや突起の感触を堪能している。ケイはそんな僕を哀れむように、又は無表情で僕を見上げていたのだが、ふと目を閉じた。キスをせがんでいる。僕はそう解釈して唇を寄せようとしたが、止めた。閉じたケイの目尻に涙がたまっていてそれがスーッと頬を落ちた。
「何が悲しいの?」
「かまわないで!」
「話せば少し気が楽になるよ」
「あなたには関係ないの。だから、かまわないで」
「俺は、おまえの何なの?」
「じゃぁ、あなたはわたしの何なの?」
「先に答えろよ」
「そうね…恋人未満?」
「言葉で遊んでいるのか?」
「あなたが、そう仕向けているんでしょ」
僕は頭を抱えてベッドに座り込んだ。そして深くため息を吐いて立ち上がった。
「かまわないで。好きにしたら。何も考えたくない。いい加減にしろ。そんな腑抜けのままで男に抱かれて平気なのか?ケイ:答えろよ」
「じゃあ、あなたはセックスしながら、いつも哲学してるの?
「だれが?それだけに没頭してるに決まってるだろ」
「じゃあ、わたしにも没頭したら?」
「うわの空の女なんかと、ヤれるか!もう、沢山だ」
僕は投げ出してあったトレーナーの袖を首の前で縛って、靴をはいた。
「情けない。俺はな…他の女と違ってお前にはなかなか手が出せなかった。別格だったんだよ。お前は」
「じゃあ、格下げすれば:そんなマシな女じゃないわ」
「帰る!」
締めかけた玄関ドアのノブをケイが内側から引っぱった。上半身は裸のままだ。
「やめないで、抱いてよ!」
「大声出すな。真夜中に」
「ほっといてよ」
「気が失せた」
「抱いてよ!」
ドア越しケイの泣き声が聞こえた。外にでるといつのまにか小雨が降っていた。
芦花公園を過ぎ小田急線のガードが遠くに見えるあたりで、車は突然渋滞にはまった。
「何の工事だよ、こんな真夜中に…」
世の中のすべての事象が、僕が家に帰る事を拒んでいるようだ。パイレンの赤灯が重なり、焦点を失った僕の眼の中をグルグル回った。絶望と疲れで腹もたたない。何度か後車のクラクションに起こされるまで、目を開けたまま眠っていた。
ようやく渋滞を抜け家に着くと、居間には灯りが灯っていた。時計を見ると二時半だ。急に帰るのがイヤになって、僕は家のそばの深夜レストランに車を入れた。
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