第2話 白い一日
「アクセル踏め!」
間違えてブレーキと言わなかったのが、命拾いだったのかも知れない。
「あ、そう?」
ぶわっとエンジンが泣き声を上げ、コロナの後輪はその一瞬、路面を掴みそこなって空しく空転した。コロナは艶めかしく腰を振った後、再び路面を掴んだ。その瞬間、僕の内臓と後頭部は、人造レザーのベンチシートに押しつけられ、コロナは、呆気にとられた様に減速した二台の車の間を擦り抜けて、見事に走行車線に戻った。が、しかし深く踏み込まれたアクセルは、そのままだった。
「ア、アクセルから足離せ!この馬鹿!」
ヒコ、ヒコ…僕の吐く息と同じ程の早いテンポで、ワイパーは空しく動き続た。
「ねえ、巻き戻してくれない?」
「な、何を?」
「何って、カセットに決まってるでしょ」
気が付けば、ちょうど「なごり雪」が終わったところだった。
「ちゃんと、イントロまで戻すのよ。」
「うーっ、うっ…」嗚咽とも、怒号ともつかない奇妙な声が僕の喉からこぼれた。
僕は、精一杯の冷静さを装って静かに言い放った。
「おい、あそこに突っ込め。ゆっくりと!」
前方の水銀灯に照らされて、薄ぼんやりと赤い看板が見えた。レストランなのだろうか?果たして営業しているのか?それともつぶれた店の看板の残骸なのだろうか?
でも、僕にはそんな事はどうでも良かった。
「いやよ。もっと素敵なとこ探しましょ」
ケイは、あくまでもハンドルにこだわっていた。僕は、かなり短いバックスキンのミニスカートからはみ出しているケイの裸の脚を、思い切り平手ではたいた。
「痛いわね。何するの?」
「いい加減にしろ。本気で怒ったぞ!」
ケイは、思い切り歪んだしかめっ面を僕に浴びせた。
赤い看板は、気が重くなるほど寂れ切ったレストラン喫茶のものだった。国道から、舗装されていないその駐車場に引き込まれる様に、雪を掻き分けた泥色のわだちが幾筋か見えた。僕は、助手席からハンドルとサイドブレーキを操作して、コロナをその中に導いた。
「タバコ、頂戴よ」
エンジン音が止み突然訪れた静寂と安堵の中で、ケイはそれだけ言って後は押し黙った。僕が勝手に注文したアメリカンコーヒーに口も付けずに、ケイは黙り通した。
「お客さん、東京の人?悪いけれど、今日はあと二〇分程で閉店なんだよね」
薄汚れたエプロンをかけた、マスターらしい男が、灰皿をかえながらそう言った。
「わかりました。あれ鳴らしていいかな?」
僕は、薄暗い店の片隅に置かれたジュークボックスを指差しながら、彼に聞いた。
「いいですよ。時間内なら…」
僕は、その古いジュークボックスの曲名の中から、陽水の「白い一日」を捜し出した。それは、僕の知っている中でもケイが一番好きな曲だった。
「おい、いつまで黙っているつもりだよ?」
ケイの目は、ワンテンポ遅れながらも、陽水の詩に合わせて宙を泳いでいた。
ある日、踏み切りの向こうに君がいて、通り過ぎる汽車を待つ
遮断機があがり、振り向いた君は、もう大人の顔をしてるだろう…
ケイは、大きく首を振っていた。「白い一日」がこの歌詞のところに来ると、彼女は、薄い唇から尖った舌を出して、ピンクの口紅を舐めた。
僕は、つい今しがたの恐怖の世界から、徐々に立直っていた。代わりに僕の頭の中は、別のことで一杯になっていた。それは、僕が勝手に描いた極めて独善的な明日の朝までのスケジュールだった。その成功の為には、この気まずい沈黙を何とかして破らなければならなかったのだ。
「さっきは悪かった。でも、まだ死にたくないからな」
「死ぬほど痛かったわよ。加減を知らない人ね!きっと内出血している」
「内出血?まさか…」
「ヒリヒリ痛いのよ。バカ!」
ケイが少し大きな声を出したので、カウンターから店のマスターが僕達に視線を投げた。
「ほら、よく見なさいよ!」
ケイは、組んだ脚をほどいてミニスカートの裾を腰骨辺りまで捲り上げた。もともと色白のケイの脚は更に青白い。その左脚の付け根近くまで僕の手形が赤く残っていた。
「よせよ。マスターが見てるよ」
「別に…気にしないわ」
ケイは露わになった水色のパンツを隠しもせずに、手形がついた左脚を大きく泳がせて、脚を組み直した。
「由宇…」
「なんだよ?」
「絶対にヤらせないからね!」
「意地になってるのかよ?」
僕は軽くため息を吐き、外の暗い景色に目をやった。
「執念深いのよね、わたしって」
砂丘を挟んで、日本海の唸りが間近に聞こえる宿だった。部屋のガラス戸から、僕の心の中のように淋しい海の景色が見渡せた。
飯を食い、ケイは温泉で長湯した後、息を飲むほど美しく気怠い浴衣姿で帰ってきた。その後の僕のかいがいしい努力は、ケイの機嫌を少しは回復させたようだが、しかし、やはり…その夜もやっぱり僕は、ケイの背中を見ながら眠れない夜を過ごした。
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