毬亜のように

猫田つくね

第1話 名残り雪

 三国峠のトンネルを抜けて、車は少し緩やかになった長い坂を下り始めた。トンネルの向こう側と打って変わって、やけに近く見える鼠色の空から、季節はずれの牡丹雪が揺れながら落ちて来た。その白いカーテンの向こうには、すでにオフシーズンに入った苗場スキー場の灯りが、薄ぼんやりと燈っていた。

「ケイ、まずいな、雪だよ。運転かわろう」

「何よ、雨みたいなもんじゃない。平気よ」


 ケイが運転する僕の車は、艶めかしくケツを振り、大外に振り回されながらも何とかカーブを曲がり切った。ライトに照らされた路面を良く見ると、それは、まるでかき氷をぶちまけた様な状態だった。

「だめだ。危ない」

「もうっ、うるさいわね!」

 僕は、ふーっと大きなため息を吐いた。

「ヒコ、ヒコ、ヒコ」性能の悪いワイパーは、その派手な音にもかかわらず、いつ迄たっても、フロントガラスの油膜を拭い去れずにいた。

 

昂ぶった気持を鎮めるように、僕は助手席にそっくり返って薄目を開け、前方を睨み付けながら半ば観念していた。これは、邪悪な肉欲に目がくらみ、向こう見ずな約束を交わした僕へ神様が課した試練なのだ。いや、肉欲が邪悪ならケイだって僕だって誰だって、そもそも地球上に存在しないじゃないか。そんな当たり前な理屈でも思い浮かべていなければ、今この状況には到底耐えられなかったのだ。 

 そんな僕の憂鬱を尻目に、ケイはおかまいなしに車をぶっ飛ばした。今朝取ったばかりの免許で…


 

 僕がケイと出合ったのは、井の頭公園の入り口の喫茶店。要するにナンパしたと言ってしまえばそれまでだが、その後、僕の彼女への入れこみようは、少し常軌を逸していた。

物心ついてからの僕は、次の展開が読めるような恋愛には、少し飽き飽きしていた。悪ぶってはいても、僕の奥底はカビ臭い常識で凝り固まっている。そんな石頭を、ハンマーでカチ割るような女でも現れたら…なんて妄想していた時に出会ったのがケイだった。


 三月になって写真部で最高学年となった僕は、その日、後輩たちにひと月後に迫った撮影会の相談を持ちかけられていた。

「本庄先輩、人物っすよね?次回のテーマ…これ、変えちゃダメかな?」

「何をいまさら!春先は毎年決まってるんだよ。大体な、人物って言えば普通、男は女を撮るんだよ。それがイヤなら自撮りでもしてろ。バカ」

「バカは、ないっすよ。先輩みたいに女ばっか、撮る人の方がめずらしいっす」


 柏木という地方出身で、いかにも純朴そうな二年生は、目を丸くして僕に精一杯の抗議をした。

「決まってるんだから仕方ねえだろ。女がいやなら、農村行って婆さん、漁村へ行ったら爺さん。渋くていい絵が出来るぞ。腕のみせどころだ」

「先輩…人が悪いっすね。僕だって本当は、きれいな女の人を撮りたいっす」

「だったら、最初からそう言え」

 僕は、首の後をボリボリ引っ掻きながら、しかめ面で、真っ赤なチェリーのパッケージからタバコを一本取り出した。

「先輩、G大やM大の写真部に電話したっけ、あまりいい返事ないっす」

「何の用で電話した?」

「何の用って…部員の女の子、モデルに貸してくれって」

 僕は頭を抱えた。

「お前ら、本物の馬鹿か?GやMの女知ってるのか?残念な女しかいねえだろ。どこに絵になる女がいる?いいか、カメラなんかブン投げて、襲いたくなるような女を探すんだよ。そうじゃなきゃ、気が入るわけねえだろ」

「どうしたら、いいんですか?あとひと月ですよ」


 口数の少ない竹山は、それだけ言うと下を向いたままため息を吐いた。

「女子大行ったのか?」

「竹山と僕とで、T女子大とM女子大行ったすけど、剣もほろろでした。それでもうそのルートは諦めました」

「まあな、おまえら二人じゃな…」

「ひどいっすよ。先輩、力、貸してくださいよ」

「俺はダメだ。わけがあって…」

「モデルの女、かったぱしからヤっちゃたとか?」

「まさか、そんな凄腕じゃねえよ。」

「何か、うわさですよ」

「とにかくな、四年は手を貸さない、それが伝統ってもんだ。お前ら、ナンパもできねえんじゃ、あとはモデルクラブしかねえだろ。あきらめて早く手配しろ」

「それで、青山のモデルクラブの電話なら、先輩が顔だから話を通してもらえって」

「誰が、そんな事言った?」

「遥子先輩っす」

 はーっと僕は、ため息をついた。

「くそ、遥子がか?女にそんな事、聞くんじゃねえよ。馬鹿か?」

「先輩、もしかして遥子先輩ともワケありなんすか?ショックだな」

「なわけ、ねーだろ!俺はともかく、瑤子を色目で見るんじゃねえよ」

「すみません。あの人は別格でした。色んな意味で」


 柏木とそんなやりとりをしている時、窓際の小さなテーブルに一人の女が座っていた。細かく刺繍が施された、褪せた上下のジーンズが細身の身体に似合っていた。彼女は、その豊かな髪がテーブルに届くほど前屈みになって、一心に何かを描いている様子だった。


 それがケイだった。僕は、柏木とのつまらない会話をやめて、しばらく彼女の横顔を見ていた。

「おい、柏木。お前ポラロイドカメラ持ってたな?」

「ポラロイドっすか?有りますよ。」

 工学部生で真面目な柏木は、誰かが無責任にも部会で提案した、構図用のポラロイドを常に携帯していた。僕は、柏木がカメラバッグから取り出したそれを奪い取って、急いで構えた。

「シルエットになるな…まあ、いいか」

 僕はストロボをオフにしてシャッターを切った。

「シャキッ、ジーッ」ポラロイド特有の大きな音に、彼女が振り向いた。それと同時に、僕は彼女の席へ向かっていた。


「ねえ、今…何かした?」

 ケイは、長い髪をぶるんと振り上げて、怪訝そうな顔で僕を見上げた。僕はうなずいて、彼女にまだ絵の出ていないその写真を差し出した。ケイはぼんやりと浮き出てくる自分の肖像を、ジンジャーエールのストローをくわえながら見ていた。

「危ない人?」

「どうかな?やっぱりそう見えるか?」


 僕は笑いながら彼女の前に腰掛け、テーブルの上に投げ出された変なモノを見ていた。それはB四版のスケッチブックだった。開かれたページには、真っ赤な太い彩色で、前を睨んだ女の姿がデッサンされていた。

「これ、口紅で描いたの?」

 僕は、スケッチブックの横に投げ出された、リップスティックを見ながらそう聞いた。

「そうよ。この口紅の色、飽きたから」

 ケイは無表情で答えると、つまみ上げた口紅を立てて極太のラインに、繊細な線を絡ませた。絵の中の女の目が命を得たように輝きはじめた。

「絵のモデルは?」

 僕が聞くと、ケイは一言「憎い女」と答えた。

「憎い女をこんなに綺麗に描くの?」

「そう、出来上がったら破り捨てるの!」

 ケイはそう言って、スケッチブックをパタンと閉じた。

「タバコ…有る?」

 僕はジーパンの尻ポケットから引っ張り出した、よれよれのチェリーを、指で延ばしながらケイに手渡した。ライターを近付けると、ケイはそれを拒んで自分でマッチを擦った。


「あなたは下手ね。ぜんぜんダメ」

 発色し終わったポラロイド写真を指でつまんで、ケイはそれを僕に返した。

「ナンパの小道具に使っただけさ」

 僕はそれを四つ折りにして灰皿に捨てた。

「ふーん、それで、うまくいったの?」

「分からないけど…そう思いたい」


 ケイは美大の絵画科の四年生だった。呆気に取られている柏木と竹山を追い返した後、僕はケイにわけを話して、撮影会のモデルになってくれと頼み込んだ。彼女は渋々了承した。ただ条件があった。運転免許取得中の彼女に全面的に協力する事。

「分かった。オレにまかせな!」

 僕は二つ返事で請け負った。うまいことに、僕はその頃バイトで闇の自動車教習員をやっていた。仮免札をつけて少し鈍い客の運転に同乗し、路上や車庫入れなどの特訓補習をする仕事だ。割は良いけれど、色んな意味で危険なバイトだった。

 ケイはその時、まだ路上に出る前の第三段階だった。


 千切れた真綿のように舞う牡丹雪は恐ろしくも美しい。でも、地べたに落ちた途端、それはただの汚泥に成り下がった。前の車のチェーンがひっきりなしに跳ね上げるそんな泥が、僕達の視界をひどく悪くしていた。

 僕はサイドブレーキのレバーを固く握りしめていた。そんな棒が、この雪道で用を成すとは思えないが、何かを握っていなければ、気が振れそうだったのだ。

 そんな時、しばらくおとなしかったカーステレオが、突然、裏面の第一曲を流しはじめた。それは、ケイのお気にいりの曲だった。


  汽車を待つ君の横で僕は、時計を気にしてる。季節はずれの雪が降ってる。

  東京で見る雪はこれが最後ねと、淋しそうに君がつぶやく。


 季節外れの雪が降る中、僕が気にしているのは時計なんかじゃなくて二人の命なのに…

 東京で見る雪とかじゃない。今降ってい雪が、人生で最後に見る雪になるかも知れない…

 それなのにケイはルンルンでちっとも淋しそうじゃない!


 ケイは鼻歌でなごり雪を口ずさみながら、ウインカーを出すと突然対向車線に入った。

「なっ、何するんだよ!」

「何って?追い越すのよ。」

「ウソだろ?」

 ヒコ、ヒコ、ヒコ…ワイパー越しに、ぼんやりと恐怖の世界が見えた。前車の真っ赤なテールランプが油膜に乗り、不規則な赤い帯状の縞模様となって、とろとろと近付いてきた。同時に、前方のカーブから対向車の白いライトが、鬼のように近付いてきた。

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