箱入りの猫にレモンパイ
「シュレディンガーの猫、って知ってるか」
「はい?」
焼き立てのレモンパイにナイフを差し込み、丁寧に切り分けていた私はぱちりと瞳を瞬いた。尋ねた彼は表情一つ変えず、スコッチ・ウイスキーを喉に流し込みながら涼しげな顔で再度、「シュレディンガーの猫だ。知っているかと聞いている」と抑揚のない声で続ける。
「……え、えーと……箱に猫を入れる実験、の事……ですよね?」
「随分ざっくりした回答だな」
「く、詳しくは存じ上げませんので……」
「シュレディンガーの猫ってのは、」
ぼそぼそと告げる私の声を遮り、彼は“シュレディンガーの猫”について説明し始めた。
「まず、猫を用意する。腹を空かせた汚い猫だ」
「はあ……」
「そいつを箱の中に入れる。毒入りのレモンパイも一緒にな」
彼は私が切り分けて皿に乗せたレモンパイを指差しながら続けた。失礼な、と私は口元をへの字に曲げる。私の焼いたレモンパイには、毒など入っておりません!
「箱の中には、腹を空かせた猫と毒入りのパイ。さて、猫はパイを食べて死んでいるだろうか。それとも食べずに生きているだろうか。それは箱を開けてみるまで分からない」
「はあ……なるほど……?」
「つまり箱を開けるまでは、『パイを食って死んだ猫』と『何も食わずに生きている猫』、二つの猫が同時に存在している──という理論が、シュレディンガーの猫だ」
彼は銀のフォークをレモンパイに差し込み、一口だけ口に運ぶとすぐにフォークを置いた。……あら、お口に合わなかったのかしら。そう心配しているうちに、彼はスコッチ・ウイスキーの入ったロックグラスに手をかける。
「で、どう思う?」
「え……どう思うって……」
唐突に問い掛けられ、私は戸惑った。どう思うかと問われても、反応に困ってしまう。そもそも、猫が
「……正直、その理論には無理があるかと。箱の中が見えないだけで、その瞬間に猫がパイを齧っていれば死んでいるでしょうし、齧ってなければ生きている。どうにしろ、存在する猫は一つなのでは?」
「ああ、そうだな」
自分で問い掛けたくせに、彼から返されたのは随分とあっさりした返事だった。私の見解などどうでもいいとでも言いたげなそれに、何だか頭にきて更にむっとしてしまう。
すると彼は再びウイスキーを喉に流し込み、「じゃあ、少し質問を変えようか」と続けて──不意に、私の手を取った。
え、と反応する間も無く、強い力で引かれた手。抗う事さえ許されぬまま、私の背中は簡素なベッドの上に押し倒される。驚愕に目を見開き、声すらも出せない私の目を至近距離で見つめて、彼は更に言葉を続けた。
「……俺があんたをここに呼んだ時、この
「……な、何、を……」
「“あんたを俺の物にする俺”と、“しない俺”だ」
私の両腕を押さえ付けた無骨な手に力が籠る。その手が私を解放するつもりは一切無いらしい。不意に、一口分欠けた卓上のレモンパイが視界に入って──私はひくりと喉を震わせた。
なるほど、私はアレだというわけだ。じっと見下ろす双眸と視線が交わり、「なあ、」と耳元で囁かれる声によって、つい頬が熱を帯びてしまう。
「あんたがこの部屋の扉を開けた時──目の前に居た俺は、どっちの俺だったと思う?」
「……あ、あの……ちょ、ちょっと、待って……」
「待たない。答えろ」
徐々に迫る唇。早鐘を打つ鼓動。腹を空かせた猫と共に、まんまと箱に詰め込まれてしまった私。状況をようやく理解した私は、瞳を泳がせながらも辿々しく震える声を絞り出した。
「……ま、まだ、分かりません……」
答えた私の言葉に、ぴくりと彼の眉根が動く。飢えた情欲を
「……だって、レモンパイには……毒が入ってるかもしれないんでしょう……? だったら、まだ、分かりません……」
「……ああ、そうだったな」
くつくつと、目の前で彼が喉を鳴らす。あと数センチ下がるだけで触れてしまいそうな唇を更に近付けて、色気すら感じさせる低音が「じゃあ、」と声を紡いだ。
「──毒味、しないといけない」
不敵に笑みを描く唇。
絡まる指先が私の体を固くベッドに縫い付けて、抗議の声を上げかけた唇はすぐさま彼のそれに塞がれてしまった。静かな部屋に灯っていた僅かな明かりさえもいつしか消灯され、彼の舌の上に残った酒の苦味を感じながら、とうとう抗う事を諦めた私は与えられる熱に大人しく身を任せる。
齧り付いたそれが毒だったのか、否か。
明日、朝が来て、この狭い箱の中を覗いてみるまで──その結末は誰にも分からない。
死んだ猫と、生きた猫。
この箱の中には今まさに、複数の未来が存在しているのだから。
ウメコブドットの徒然なる短編集 umekob.(梅野小吹) @po_n_zuuu
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