それは幸せな最期でした
斉木 緋冴。
月の光と”それ”
柱時計が、深夜2時を指している。ぼーんぼーんと、静まり返った空間を震わすように、鳴った。誰もが寝静まって、でも家の中で誰かが起きている、そんな時間。レースのカーテンが、風もないのに、さやさやと揺れた。
篤子は、うっすらと目を開けた。誰もいないはずの、自分の部屋。白を基調とした、お洒落な部屋だと、自負している。欧風の家具と、天蓋付きのベッド。欧風の窓からは、月の光が差し込んでいる。そして大きな鏡の付いたドレッサー。そのドレッサーの鏡の中で、何かが動いた気がした。
ぞっとした。
目を開けていることを、気取られてはならないと思った。
けれど“それ”は、鏡の中で、確かに動いていた。
篤子は、恐怖に震えた。心臓の鼓動が、空間を伝って“それ”に聞こえてしまうのではないかと、そればかり考えていた。
――数十年前。
「お父さま」
黒い服を着せられた篤子の、大きく見開かれた双眸から、涙が止めどなく溢れている。隣にいる黒い着物を着た母は、その篤子の細い肩に手を乗せ、ただ気丈に立っていた。気丈に、振る舞っていた。
篤子の父は、胃がんだった。仕事に明け暮れた父の身体には、がんと闘うだけの時間すら、残っていなかった。篤子はそれを、知らされていなかった。だから、父が死んだのが余りにも突然のことで、実は自分は夢を見ていて、目が覚めたらまた「篤子」と呼ぶ父の声を、聞けるのではないかと、思っていた。
棺の中には、白い花が敷き詰められていた。花に埋もれている父の顔を見て、初めて「本当なんだ」と思った。苦しい思いをしただろうか。痛い思いをしたのだろうか。
……小さい篤子には、分からなかった。ただ一つ分かるのは、父にはもう二度と、会えないのだということだった。
大きな家の座敷で行われた、父の通夜。眠くなった篤子は、棺の傍、座敷の隅に座布団を敷いてもらって、親戚のおじさんの羽織を掛け、横になっていた。
もう眠りに就く、という頃になって、おかしなことに気が付いた。黒い綺麗な洋服を着た、背の高い若い男の人が、棺の中の父の顔を、じっと見下ろしている。しかも、その男の人の髪の毛は薄い茶色で、長い髪の毛に隠れて殆ど見えていないが、肌は驚くほどに白かった。
「誰?」
篤子は、そっと声をかけてみた。親戚に、こんな異国の人みたいな男の人は、見たことがなかったし、そもそもこの家の近くで、こんな綺麗な洋服を着ている人など、そうそう見たことがない。だから、不思議に思った。それだけのことだった。
若い男の人は、ゆっくりと篤子の方を向いた。長い前髪から覗く、ビー玉みたいな綺麗な青い瞳が、横になったままの篤子を、見下ろしている。じっと見上げている篤子の茶色の視線に、青い視線がぶつかった。
「……困ったな」
男の人は、篤子にも聞こえるかどうかの、消え入るような声で、呟いた。
「あなたは、誰?」
篤子も小さな声で、もう一度、聞いた。
「……」
男の人は、じっと篤子を見ている。青い瞳が、祭壇のろうそくの光に反射して、「人形の瞳みたいだ」と、篤子は思った。
「お父さまに、ご用?」
また、小さな声で聞いてみた。勿論、父がもう二度と目を覚ましたりしないことは、母にも祖父母にも、繰り返し教えられている。けれど、何故か篤子には、この男の人が父に用事があって、ここにいるのだと思えたのだ。
通夜会場は、父の兄弟や親戚、勤め先の人やその家族、そして近所の人など、出たり入ったりしていて、ざわざわと騒がしかった。そんな中で、棺の近くで横になっている篤子のことなど、一時、忘れられているような気がしていた。
「お嬢さん」
男の人の声は、篤子にだけ聞こえているようだった。何故なら、通夜の会場にいる沢山の人たちは、二人が会話していることに、誰も気が付いていないようだったから。
「私のことは、他の人には話してはいけないよ」
白い人差し指が、男の人の余り色のない唇に、当てられた。口止めの印だ。
「何故?」
篤子の無邪気な声に、男の人は困ったように笑った。
「何故でも何でも。二人だけの秘密だ」
男の人は、篤子の唇に、自分の人差し指の先をくっつけた。
「さあ、眠りなさい。起きたら、お父さまとお別れしなさい」
よしよしと、男の人は白い手で、篤子の頭を撫でた。篤子は、それで急に眠気が増して、あっという間に眠りに落ちてしまった。
「篤子、起きなさい」
翌朝、母の声ではっと目を覚ました篤子は、がばっと起き上がった。きょろきょろと周りを見回しても、あの男の人の姿は、見当たらない。やはり、通夜の客だったのだろうか。小さな篤子には分からなかったが、何かの繋がりがある、父の友人か何かだったのかも知れない。篤子はそう思って、それ以上は考えなかった。何故なら、それ以上に父との別れが、悲しかったからだ。だから、あの男の人のことは、しばらく忘れていた。
次にその男の人を見たのは、父の亡くなった数年後だった。篤子は高い熱を出し、生死の境をさ迷っているような状態だった。夜中、母が手洗いに立ち、部屋に篤子一人になった時に、あの男の人を見た。まだ小さかった篤子の額に、手を当てて、優しく微笑んでいた。篤子は何だか嬉しくて、同じように微笑んで、それから安心して眠った。次の朝には、熱はすっかり下がっていた。母も、祖父母も泣いて喜んだ。
小さな子供が、高熱を出したら、命を落とした時代のことだったから。
あの男の人のことは忘れていた。青いビー玉みたいな綺麗な目と、それを覆い隠す長く薄い茶色の前髪、白すぎるほど白い肌……。
幸せな結婚をして、家庭を持って、夫を見送り、息子夫婦と孫と、幸せに暮らしている間は。
ぼーんぼーんぼーんと、柱時計が深夜3時を示した。篤子は、寝たきりの老婆になっていた。数年前に脳梗塞を患い、身体の殆どが動かない。寝る時は、おむつをしてもらうようになっていた。心臓も弱っていたし、そろそろ認知症の気配も、してきた。でも、孫が選んでくれた老眼鏡に頼れば、目は悪くなかった。
だから篤子は、“それ”に気付かれないように、そうっとそうっと動く方の手を、枕元の眼鏡に伸ばした。そして、そうっとそうっと眼鏡をかけた。
その時、天蓋に付けてあるレースの布が、ふわっと翻った。
「っ!」
篤子は、恐怖に身を縮めた。目をぎゅっと瞑り、口を引き締めた。
「……久しぶりだね」
聞き覚えのある声に、篤子はそうっと目を開けた。そして、口をあんぐりと開けた。
そこには、あの男の人が、月光を背に受けて、立っていた。
「あなたは……あの時の……」
篤子は、回らない口を一生懸命動かそうとした。それを見たあの男の人が、ふっと微笑んだ。……とても優しく。
「久しぶりだから、忘れられていると思っていたよ」
男の人は――よく見ると、黒い洋服に黒い刺繍が施されている――、篤子の記憶と寸分違わぬ姿で、今、篤子のベッドの横に、立っている。そして、記憶と寸分違わぬ声で、篤子のことを呼んだ。
「お嬢さん」
と、くすくす笑いながら。
篤子は、かあっと頬が熱くなるのを、感じた。
思い切りおばあちゃんになってしまっているし、寝たきりだから髪も整っていないし、顔も洗ってもいない。髪も染めていなければ、着替えてもいないし、そもそも今は深夜で、篤子は寝起きである。
慌てて動く方の手で、顔を隠すと、
「そのままでも充分綺麗だ」
と、男の人に手を止められてしまった。
忘れていたことを詫びなければ、と思った。でもその時、「二人だけの秘密」を思い出した。
「あなたは……死神ね? あの時、父を、迎えに来ていたのね?」
男の人は、悲しそうに頷いた。そして、篤子の傍に寄って、頭をよしよしと撫でた。懐かしい感触と共に、あの日の「秘密」を、何故か詳しく思い出せた。
「あの時、貴女が秘密にしてくれていなければ、貴女も一緒に連れて行く決まりだった」
「……そう」
「でも、貴女はちゃんと忘れていてくれた。私はそれが、ありがたかった」
「そう……」
月光を受ける「死神」というのも、おかしなネーミングだ。そう思って、篤子がふっと笑うと、
「幸せに過ごせたね。見れば、分かるよ」
と、男の人が微笑んだ。
「ええ、とても。……あなたのおかげで」
篤子は、ウィンクして見せた。男の人は、面食らったような顔をしたけれど、すぐににっこりと微笑んで、
「ちゃんと覚えていてくれて、ありがとう」
と、篤子の額に唇を落とした。
「おばーちゃん! 朝だよ?」
孫の春香が、篤子の部屋のドアを、ノックした。けれど、中からは返事がない。まだ寝ているのかと思い、春香はもう一度ノックして、ドアを開けた。
「おばーちゃん?」
篤子は、息を引き取っていた。
「故人が、動かない手を、必死に動かして書いた、最期の手紙です」
喪主の高彦が、涙を堪えながら、薄桃色の便せんを広げた。斎場のすすり泣きが、大きくなる。
「それは幸せな一生でした」
それは幸せな最期でした 斉木 緋冴。 @hisae712
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