『ゴジアオイの約束』———「憧憬」「キストゥス・アルビドゥス」「約束」
植物園に、セミの鳴き声が響いている。それが途切れた途端、パシャリ、というシャッター音が私の耳に届いた。
「
わたしはピンクの花に向かってカメラを構えている男に訊ねた。
パシャリ、またシャッター音。
「キストゥス・アルビドゥス。和名だとゴジアオイだな。……うーん、もう一枚」
「ゴジアオイか、それなら聞いたことあるわ。たしか正午に咲いて、夕方には閉じる花だっけ、前に国谷が教えてくれた気がする」
「そうそう。高温多湿に弱いから、日本の気候に向いてないんだよなー。っていうか
「まあね」
目の前をアオスジアゲハが横切った。わたしはなんとなくそれを目で追う。国谷はまだゴジアオイの前から動かない。
わたしと国谷は高校時代からの友人だ。一年生の時に学級委員で同じになって以来なんとなく仲良くなり、同じ文系志望ということでクラスは三年間一緒、受験期も共に駆け抜け、お互い前期で失敗したので後期対策で最後まで学校に通い詰めていた、そんな仲だ。違う大学に進学した今でも、度々会って飲んだりしている。
園芸と写真が趣味の国谷は、口を開けばいつもその話をしてくれる。自分のことを話すのが苦手だったわたしは、国谷の話を聞くのが好きだった。気付けばわたしにまで、ある程度植物の知識が身についていたほどだ。
「あー、やっぱここの植物園すげぇよな。規模が大きいし、品種は多いし。ありがとな、小宮。ここに連れてきてくれて」
「別に、感謝されるほどのことでもないよ。あんたがここに来たいって言ったんだし」
ここはわたしの住んでいる市にある大型植物園で、結構有名なんだそうだ。わたしと国谷が会うときは、お互いの専攻柄、たいていどこかの博物館やら美術館やら寺社仏閣やらに行くことが多い。そしてその後はディナーを食べて、チェーン系の居酒屋に飲みに行ったりして、解散する。
「そういえばさ、国谷のイタリア留学って来月から一年だっけ?」
「そう。楽しみなんだよなー、学びたいことがいっぱいあるからさ!一年じゃ足りないかもしれない」
「不安になったりしないの?ついていけなかったらどうしようとか、途中で挫折するかもとか……」
「今から心配したってしょうがねぇじゃん。ま、なんとかなるって!」
午後の陽光がキラキラと降り注ぐ。眩しくて、わたしは目を細める。
国谷とわたしは正反対だ。いつもクラスの人気者だった国谷と、周りの顔色をうかがいながら教室の隅で立ち回っていたわたし。誰とでも仲良くなれる国谷と、限られた人としか仲良くなれないわたし。前向きで、失敗も挫折も恐れず突き進む国谷と、いつもネガティブで、悪い未来しか考えられなくて足を踏み出せずにいるわたし。話を聞いているだけで親兄弟を愛し愛されているのが分かる国谷と、家に居場所が見つけられなくて学校に行き、長期休暇が大嫌いだったわたし。両親が心配だから近い大学を選んだ国谷と、逃げるように遠くの大学を選んだわたし。
何もかもが違って、たまに隣にいるのにずっと離れたところにいるような感覚になる。高校時代のわたしは、国谷のようになりたくて、近くで観察していた。でも無理だった、遠すぎた。どうしようもなくわたしには国谷が眩しくて、でもだからと言って縁を切りたくはない。じりじりと焼かれるような感覚がずっとあった。大学に入って会う機会が減ってから、焼かれるような感覚は落ち着いて、それでも心の中では手を伸ばし続けている。
「ゴジアオイ、育ててみたいんだよなー」
真剣な顔で国谷が呟く。国谷の実家は庭がそれなりに広く、色んな植物を育てているらしい。一度、国谷に庭に咲いた色とりどりの花の写真を見せてもらったことがある。
「日本の気候には合ってないっていうけど、実際うまく育ててる人もいるみたいだし。挑戦してみようかな」
「いいんじゃない」
わたしは相槌を打つ。国谷ならやってのけるだろう。
「よし、決めた。あのさ小宮、俺留学から戻ったらゴジアオイ育てるからさ、花が咲いたら絶対写真送るわ!約束な!ほんとは実物を見てもらいたいところだけど……」
「ありがと。楽しみにしてるわ」
国谷は優しい人だ。わたしの実家嫌いとそこから派生した地元嫌いを知っているから、会う約束がある時に地元を指定してきたことは一度もない。そして「約束」と口にしたことは叶えるような人だから、数年後にはピンクの花の写真が送られてくるだろう。
「次のところ行ってもいいか?」
「いいよ」
まだ日は暮れそうになかった。
結局、国谷の「約束」は叶えられなかった。イタリア留学中にテロに巻き込まれて、国谷は亡くなった。
国谷の死を知って、わたしは一週間家に引きこもった。人の死にショックを受けたのは、これが初めてだった。ずっと憧れていた存在の突然の喪失は、想像をはるかに超えていた。
スマホに入っている数少ない連絡先から、国谷の名前を消すことはできなかった。
一週間連絡もなしに大学を休んだので、同じコースの同期が心配してメッセージを送ってきていた。ゼミの教授からは発表を無断欠席したことへの軽いお叱りメールが届いていた。お叱りくらいどうでもいいと思っていたものの、文面を最後まで読んでそうはいかなくなった。来週の発表を休んだら単位は認定しないという。なんということだ、成績表は問答無用で実家に送り付けられるから、落単なんてしたら面倒なことになってしまう。
仕方なく、最低限の身だしなみだけを整えて、家を出た。そして驚いた。国谷はいなくなったのに、電車は普通に走っているし、街頭スクリーンには変わらず天気予報が映し出されている。そしてわたしの心臓は止まることなく動いている。
大学構内も大して変わってなかった。
「あっ小宮ちゃん!ずっと休んでたけどだいじょうぶ?ってかクマひどいよ?」
共同研究室に入ると、わたしにメッセージを送ってきていた同期が駆け寄ってきた。
「あー、うん、まあ、だいじょうぶ……」
明らかに大丈夫ではないわたしの返答に何かを察したのか、同期はそれ以上訊かずに研究室を出ていった。
誰もいない研究室で、机に鞄を投げ出して、その上に突っ伏した。国谷が死んで、わたしが生きてるなんて、世の中はなんて理不尽なんだろう。
その時、ふと視界に鮮やかなピンクが飛び込んできた。わたしはのろのろと体を起こす。それは研究室の壁に掛けられている花のカレンダーだった。
「ゴジアオイだ……」
六月のカレンダーの上半分には、美しいピンクの花があった。
ふいに、国谷の「約束」を思い出した。
「花が咲いたら絶対写真送るって言ってたじゃん、あのバカ……」
目頭が熱くなる。流れた涙は一筋だけだった。それでいいと思った。国谷は湿っぽいのが苦手だったから、わたしにわんわん泣かれても困ってしまうだろう。
卒業して就職して、お金がたまったら庭付きの家を手に入れようと思った。園芸の勉強をして、庭を花でいっぱいにする。花を見ている時の国谷はいつだって笑顔だった。わたしだって笑顔で生きたい。
「そろそろ行かなくちゃ……」
発表までにお手洗いで顔をなんとかしておきたい。声も整えておかなければ。人に過度に心配されてもやりにくい。
鞄を持って、わたしは研究室を出た。
近所の花屋から、ゴジアオイの苗を入荷したと連絡があった。わたしはわくわくしながら家を出る準備をする。
「この庭も結構花でいっぱいになったなぁ」
整えた花壇には、春になればパンジーやチューリップが咲き誇る。庭の隅をラベンダーやローズマリーが飾っている。
「ゴジアオイ、うまく育つといいんだけど」
高温多湿が苦手なゴジアオイ。本当に育てられるか、少し不安だ。
「でも、まぁ。なんとかなるか!」
〈終〉
お題小説集 播磨光海 @mitsumi-h
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