『黒雲』―――「闇」「赤リップ」「千円札」

 わたしの母方の家には、こんな言い伝えがある。

「夢の中で誰かに『願いを叶えてやろう』と言われても、決して従ってはいけない」

 幼いころから、母や、祖父母からずっと言い聞かされてきたことだ。わたしが小学生の時、あまりにも言われるものだから、理由をたずねてみた。

「どうしてだめなの」

「願いを叶えるかわりに、莉乃りのちゃんの大切なものを奪われてしまうからだよ」

「そうなんだ」

 もし今晩夢で声が聞こえたらどうしよう。今度のピアノの発表会でうまく弾けますようにって願ってしまうのだろうか。そしたら何が奪われてしまうんだろう。香り付きの消しゴム?お気に入りの髪留め?幼いわたしは、一日中そんなことを考えていた。

 わたしが中学二年生の時だった。

 祖父母の家に、従姉の佐紀さきとその弟、わたしと妹の四人が集まっていた。叔母がピアノの先生をやっていて、私たち四人はみな、叔母の教え子だった。

 この町の名家である祖父母の家は、古くて大きな日本家屋だ。叔母は家の一室を借りて、そこでピアノを教えていた。その日もレッスンがあり、ピアノの音がかすかに聞こえてくる中、わたしたちは和室で祖母が買ってきたお菓子を食べていた。

 お菓子を食べている間中、佐紀はずっと無言だった。わたしはそれを不審に思いながらも、気付かないふりで昨日観たテレビの話をしていた。

 食べ終わった後、妹と従弟が携帯ゲーム機で対戦を始めた。佐紀がわたしに目配せをした。

「食器、片づけよっか」

「うん」

 わたしと佐紀は、和室に二人を残して台所に向かった。ちょうどそこには祖母がいた。

「佐紀ちゃん、莉乃ちゃん、ちょっと買い物に行ってくるから、留守番をお願いしていいかい」

「わかった」

「はーい」

 勝手口から祖母が出ていく。佐紀は祖母が自転車を出すのを窓から確認してから、口を開いた。

「この家の言い伝え、あるでしょ」

「うん。夢の中で男の人の声で『願いを叶えてやろう』って言われても、従っちゃダメ!ってやつだよね」

「二週間ほど前かな、夢に……出てきたの」

「出てきたって、声の人が?」

「見た目は亡くなったひいじいさんとそっくりだったよ。でも声はひいじいさんと全然違う。張りのある声、と言えばいいのかな」

「それで?」

「『お前の願いを叶えてやろう』って言われて……。私、自分が夢を見てるんだって気付いて、言い伝えを思い出したんだけど、断れなかった」

「そんな!あれだけおじいちゃんやおばあちゃんから言われてたのに!」

「叶う見込みのない恋だったのよ!」

 佐紀は今にも泣き出しそうな顔をしていた。三歳しか違わないはずの佐紀が、急に、わたしでは追いつけないくらい、はるか先に行ってしまったように感じた。

 佐紀の片想いの相手は、同じクラスの女子生徒だった。その女子生徒は違うクラスの男子生徒に片想いをしており、佐紀に恋の相談をしていた。佐紀は自分の想いを諦めるつもりで、その相談に乗っていたのだ。

「でもね、あの子すっごくいい顔で笑うのよ、その男子の話をするとき。あの子にそんな顔をさせるのが、どうして私じゃないんだろうって思ってしまって、ずっと苦しかった」

 わたしは何も言えなかった。何を言えばいいのか分からなかった。

「夢で願い事を言った次の日、その男子に他校の彼女がいることがわかったの。それを知って、あの子、大泣きして。……今では、私の恋人だけどね」

 佐紀の声は優越感にあふれている。でも、声には諦めのようなものがあった。

「佐紀ちゃんは、何を奪われたの」

「左手かな。ほんのちょっとずつだけど、左指が動かしにくくなってるの」

 わたしは思わず息をのんだ。

「ピアノどうするの!?叔母さんには言った?」

「お母さんは何も言ってこないけど、多分気付いてる。私の指が動かしにくくなってることも、それが『夢の願い事』の代償だってことも、ピアノをやめたがってることも」

「でも……指が動かしにくくなったのが代償だとは限らないし、治るかもしれないし、ピアノをやめなくたって……」

「そうじゃないのよ。私、結構前からピアノを続けるかやめるかで迷ってたの。指が動かしにくくなったのは、ちょうどいい機会だわ。未練なくやめられる」

 佐紀はあっさりと言った。

「なんでやめるの……」

 わたしは信じられない思いでいっぱいだった。幼い頃から、佐紀と一緒にピアノを習ってきた。自分も佐紀のように弾きたいと、佐紀が弾いた曲を練習してきた。連弾で何度も同じ舞台に立った。コンクールで競い合うこともあった。また何度も佐紀とピアノを弾く機会があるものだと考えていた。佐紀がピアノをやめる理由が分からなかった。

「ラフマの協奏曲やりたいねって、約束したじゃん!」

「ごめん、もう、無理だわ」

 どこか悲しそうな声だった。

「約束守れなくってごめんね。この話はこれでおしまいにしましょう」

「でも!」

「莉乃には忠告しておこうと思って。もし夢の中で声を聞くことがあれば、気を付けてね。莉乃は、ピアノ好きでしょ?」

 これ以上の質問は受け付けない、佐紀はそんな顔をしていた。この言葉をわたしに言い残して、佐紀はピアノを弾かなくなった。


***


 それから七年が経って、わたしは大学三回生になった。

 今ではわたしだけがピアノをまだ続けている。元々歌うことも好きだった佐紀は、シンガーソングライターとして活躍している。左手は、自分の意志ではもう動かせないのだという。恋人とは、高校卒業後に別れたと聞いた。

 妹は中学の吹奏楽部で出会ったホルンに夢中だ。高校に上がった今は、音大への進学を目指して勉強している。

 従弟はサウンドクリエイターになりたいと言って、専門学校に進学した。わたしが大学に入学する前日、佐紀がピアノをやめた理由をこっそりと教えてくれた。佐紀より遅くピアノを習い始めたわたしが、どんどん成長して、佐紀を追い抜いて高みにのぼって行ってしまうことに耐えられなかったのだという。

「姉ちゃん、『どれだけ練習しても、莉乃みたいな音は出せない。あの子は特別なんだよ』って言ってた。母さんも、姉ちゃんを手元から離して違う先生のところに通わせてたら、また違ったかもしれないのに」

「佐紀ちゃんの手が動かなくなったの、ストレスが原因だと思う?」

「俺はそう思ってる。病院に行っても原因は分からなかったし、姉ちゃん自身が治す気ないみたいだったから、今もそのままだけど。あの時の姉ちゃん、ピアノ以外にも恋愛のこととかで悩み抱えてたんだろ?」

「うん、わたしもそう聞いてる」

「あ、そうだ。俺、別に莉乃ねぇのこと悪く思ったりしてるわけじゃないから。姉ちゃんのピアノ聴けなくなったのは残念だけど、歌ってる姉ちゃんの方が好きっていうか、なんか輝いてるっていうか。これ、誰にも言わないでよ?」

「言わないよ。教えてくれてありがとう」

 従弟とはそんな言葉を交わしていた。佐紀がやめた原因の一端が自分にあるなんて、全く思いもよらないことだった。佐紀はわたしにどうしてほしかったのだろう。結局、わたしは総合大学に進学している。

 佐紀の一件以降、わたしはピアノの練習の合間に、「言い伝え」について調べるようになった。祖父母の家の土蔵には、代々「言い伝え」の研究をしてきた親族によって遺されたものがたくさん隠されていた。そこで知ったのは、三百年ほど前、祖先が飢饉から村を救うために「何か」と契約し、祖先の半身不随を代償に村は生き延びたということ。それ以来その「何か」はこの家に憑き、代償と引き換えに家の者の願いを叶えているということ。代償として払うものは願いが叶うまでは分からないが、人命が奪われたことはないということ。夢で見る「何か」の姿は人によって異なるということ。そして、祖父や母、叔母でさえも、代償を払って願いを叶えてもらったことがあるらしい、ということだった。

 代償を払いたくなければ、夢の声に応じなければよい。実際、夢で声を聞いたり姿を見た者全てが応じたわけではないという。自分の手では到底叶えられないと知りながら、それでも叶えられる可能性に賭け、あるいは叶えることを諦め、断った者達の記録が残されている。それでも、代償を払ってでも叶えたい願いを持つことが誰にでも有り得るのだと、わたしは知った。

 ピアノは好きだ。苦しい練習の果てに、思うように弾けた時の達成感なんて計り知れない。ステージでの演奏が終わって、観客から浴びせられる拍手は気持ちいい。コンクールでは何度も優勝した。母も叔母も、みんな音大進学を勧めてきた。でも、「言い伝え」を調べるうちに、わたしの関心は伝承研究に向いていった。「何か」の実在を信じ切っているわけではない。「代償」だと思われてきたものは、願いが叶った後に偶然その人の身に降りかかった不幸かもしれない。もしかしたら、この家以外にも、似たような「言い伝え」があるかもしれない。使命感ではなく、好奇心に駆られて、わたしは伝承研究で有名だという大学の門を叩いたのだった。

 アラームが鳴った。スマートフォンの時計は、午後三時を示している。そろそろ出かける準備をしなければならない。わたしは大学図書館で借りてきた本を閉じて、コスメポーチを取り出した。メイクを済ませ、その間に温めておいたヘアアイロンで髪を巻き、シニヨンにする。いつもやっていることだ。仕上げに赤いリップを塗る。わたしによく似合う色だ。鞄を片手に部屋を出た。

「コンサート、行ってくるね。晩ごはんは向こうで食べてくる」

 リビングにいる母に声をかけた。車椅子に乗った母がわたしの方を見る。

「帰り、駅まで迎えに行くようお父さんに頼もうか?」

「大丈夫。気をつけて帰ってくるから」

 わたしが向かったのは、電車を二回乗り継いだ先にある市民ホールだった。今日ここで行われるのは、社会人ピアノサークルによるコンサートだ。小ホール前の受付でプログラムをもらい、中に入る。

 開演ブザーが鳴り、アナウンスが流れる。次々と演奏者が出てきては、十人十色の演奏を披露していく。

 休憩時間を挟み、いよいよわたしの目当ての演奏者の番になった。ドクン、ドクンと自分の心臓が大きく動いているのが分かる。ステージ左手に目が吸い寄せられる。

「三番、影中稔かげなかみのる

 アナウンスと共に一人の男性が登場し、思わず口角が上がった。

鍵盤に手が載せられる。糸がピンと張られたような一瞬の緊張の後、ホールに力強い和音が響き渡る。待ち望んでいた演奏が聴ける歓びで体が震える。

 今日の曲目はショパンの『英雄ポロネーズ』。長い前奏の後、歌い上げられる華やかな旋律。鍵盤の上で指が踊っている。壮大で緻密な演奏が、わたしの鼓膜を震わせる。

 中間部のファンファーレ、その下で動くオクターブの連打。それをなんでもないような顔で弾いてのける。まるで王者だ、わたしはそう思った。ステージの上で、稔はピアノと共に歌っている。そう感じさせるような演奏だ。

 胸が高鳴る。体中を血が駆け巡るのを感じる。初めて稔の演奏を聴いた時のことを思い出した。大学一回生で入部したピアノサークルの定期演奏会。その時もショパンだった。当時三回生だった彼は、『葬送』の名で知られるピアノソナタ第二番から、第一楽章と第三楽章を演奏していたのだ。同じ一回生達は口々に「上手い」と評していたのに、わたしは「好きだ」と感じた。今までに誰かの演奏を「上手い」と感じたことは数多くある。でも、「好きだ」と感じたのは初めてのことで、それがわたしには衝撃的だった。

 演奏はコーダに突入した。もうすぐ曲が終わってしまう。まだ聴いていたい、そう思っているうちに、和音によって締めくくられた。小さなホールが拍手で埋め尽くされる。優雅に一礼する稔の姿を目に焼き付ける。胸の高鳴りは未だにおさまらない。

 その後も何人かの演奏が続き、最後に閉演のアナウンスが流れた。満ち足りた気分でロビーに出る。

「莉乃!」

 声をかけられ振り向くと、稔が立っていた。

「稔さん」

「来てくれてありがとう」

「こちらこそ。いい演奏が聴けて良かったよ、お疲れ様。はいこれ、差し入れね」

 わたしは持っていた紙袋を差し出した。

「あっこれ、この前テレビでやってたやつだ」

「稔さん、ここのミルフィーユ食べたい!って言ってたでしょ。うちからだと近いけど、稔さんの家からだと、ちょっと遠いだろうと思って買ってきちゃった」

「いや嬉しいよ、ありがとう!味わって食べるよ。そうだ莉乃、この後空いてる?」

「空いてるけど、どうしたの?」

「良かったら一緒に晩御飯食べに行かないか?少し待っててもらうことになるけど」

「いいよ、でも打ち上げは行かなくていいの?」

「ちょっと今日はね……。面子的に、結構飲まされそうな気がする」

 稔はアルコールが得意ではない。それに、大勢で騒ぐよりも静かに飲む方を好む。

「わかった。じゃあ、近くで待ってるから、また連絡して」

「オッケー。それじゃ後で」

 稔と別れて、外に出た。すでに午後七時を回っており、辺りは暗い。

 中庭のベンチに座ってスマートフォンの電源を入れた。待ち受け画面には、車椅子の母を囲んで撮った、家族四人の写真。

 母の足が動かなくなったのは、妹が産まれてすぐのことだった。「言い伝え」を調べているうちに、わたしは母の日記を見つけてしまった。そこには、産まれた直後の妹が生死の境をさまよっており、どうにかして妹の命を救いたいと願った母が、夢の声に応じたことが記されていた。

 大学時代は駅伝選手として活躍し、わたしを産んだ後もマラソンを続けていたという母は、表彰状やメダルまで土蔵に入れてしまわずに大切に手元に置いている。父の話によると、当時の母は、足が動かなくなったことを受け入れ、医者からの「原因が分からない」という言葉にも動じなかったという。母自身は、足が動かなくなったことを、走れなくなったことを、つらいと思っていないようなのだ。ただ、「言い伝え」のことをわたしや妹に話す時は、真剣な眼差しだった。「もしかしたら後悔するかもしれないよ」とまで言っていたのは、記憶に残っている。

 母の日記の存在は誰にも話していない。母自身も娘達に知られたくはないだろう。

 わたしが音大に行かずに伝承研究の道を選んだのは、好奇心に突き動かされたからだ。でも、万が一、夢で「願い事」を叶えてやろうと言われても、どれほど好奇心を刺激されても、絶対に声には応じないと心に決めている。もし願い事を叶えるという「何か」が実在して、わたしの願いを叶えることと引き換えにわたしの指を奪ったら、きっと母は気付くだろう。佐紀も気付くに違いない。総合大学に行きながらもピアノを続けると言った時に喜んだ母、七年前にわたしに忠告してくれた佐紀、その二人の気持ちを裏切りたくはなかった。

「莉乃。りーの」

 はっとして顔を上げる。目の前に稔がいた。

「なに険しい顔してるの」

「稔さん。ごめん、ちょっと考え事してた」

「今、大学の発表が大変なんだっけ。莉乃のことだから、空いた時間も勉強のこと考えてるんだろ」

「ばれちゃったか。……ごめん、連絡くれてたのに、全然気付けなかった」

「いいよいいよ。考え事に夢中になると、全然周りが見えなくなったりすること、俺だってあるから」

「今度からは気を付けるね」

 わたしはベンチから立ち上がった。最近、空いた時間ができると、「言い伝え」のことを考えるようになってしまっている。稔が声をかけてくれて助かったと思った。あまり考えすぎると、深みにはまって抜け出せなくなる気がする。

「今日ここに来る途中で、よさそうなイタリアンのお店見つけたんだ。莉乃が好きなジェラートもあるみたいだったぞ」

「わぁ、それはいいな。そこ行きたい」

「それとさ、さっき言いそびれてしまったんだけど。莉乃が今日つけてるリップ、もしかして、俺がこの前誕生日にあげたものだったりする?」

「ご名答。気付いてくれてよかった」

「莉乃に合いそうな色を選んだから。……うん、似合ってるよ」

「なんでそこで照れるの」

 一瞬、佐紀のことを思い出した。佐紀も、恋人とこんなやり取りをしたのだろうか。思いを寄せる相手と、こんな時間を過ごすことを夢見ていたのだろうか。

 わたしは目を瞬かせた。これ以上考えるのは止そう。

 稔をからかいながら、わたしは市民ホールを後にした。


***


 稔と食事を終え、別れを惜しんで自宅の最寄り駅まで戻って来た時には、午後十時近くになっていた。妹もホルンのレッスンで出かけていて、同じ頃に駅に帰り着きそうだというので、父が車で迎えに来るという。

「お父さん、ちょっと家出るの遅くなったんだって。あと十分くらいはかかるかも」

 先に着いていた妹が、チャット画面を見ながら言う。

「ちょっと寒いね。何か飲む?」

 わたしは駅の外にある自販機を指した。

「どれがいい?」

「お姉ちゃんのおごり?」

「そうよ。なんでも好きなの選んでいいから」

「んー、じゃあココアにしようかな」

「はいはい」

 わたしは財布を開けた。

「あっ、小銭無い」

「わたし、自分で出そうか?」

「いいよ、わたしがおごるって言ったから」

 わたしは千円札を取り出した。その時、こちらに向かってくるエンジン音が聞こえた。何気なく顔を向けた瞬間、わたしは事態の異常さに気付く。

 言葉より先に体が動いていた。妹を全力で突き飛ばし、わたしも車の動線から逃れようとして、

「お姉ちゃん!」

 全身に衝撃が走った。視界がスローモーションで見える。わたしの手から舞った千円札がとても頼りなく見えて、ああ、「終わり」ってこんなにあっけないんだ、と思い。

 わたしの意識はプツン、と切れた。


***


 真っ暗闇の中だった。光が一切差し込まない、闇。

 ここはどこだろう。死後の世界というものだろうか。それにしても、あまりにも殺風景ではないだろうか。

「莉乃」

 どこからか声が聞こえる。聞いたことのない声。

「莉乃」

「わたしを呼んでるの」

「そうだ。私はお前を呼んでいる」

 張りのある、男のような声だった。

「あなたは誰?」

 スッと、わたしの前に浮かび上がった姿があった。闇の中で、輪郭だけがぼんやりと光っているそれは、祖父の姿をしている。

「おじいちゃん……じゃない。声が違う」

「私は――――というものだ」

 発音できそうにない音で、祖父の姿をしたものが名乗る。

「莉乃。私は、お前がずっと調べていたものだ」

「―――!」

 衝撃で声が出ない。これが「何か」なのか。やはり実在したのか。佐紀の指も、母の足も、全てこれが奪っていったのか。確かめたいことが多すぎて、頭が混乱しそうだ。

「お前の今の状態を見せてやろう」

 急に闇が消え去った。眼下には、集中治療室のような部屋と、寝かされたわたしの姿。

「これ……わたし、どうなってるの……」

「車にはねられたお前は、今、意識不明の状態にある。医者が手を尽くしているが、当たり所が悪すぎたようだ、刻一刻とお前の体は死に向かっている」

「そんな……!」

 両親、妹、稔、佐紀、従弟、大切な人々の顔が次々と浮かんでは消えていく。佐紀と連弾した晴れ舞台、妹と遊んだ日々、稔との時間、思い出が脳裏を流れていく。

「まだ死にたくない……」

 思わず、そう漏らしていた。まだ家族と一緒にいたい。稔とも一緒に歩いていきたい。佐紀の新曲も楽しみにしていた。ピアノだってまだ弾いていない曲は山ほどある。伝承研究も、やりたいことがたくさんあるのに。なぜ、こんな所で死ななければいけないのだろう。未来を断たれなければならないのだろう。

 心の底から、死にたくないと、そう思った。


「莉乃。お前の願いを叶えてやろう」


 こんなもの、逆らえるわけがないと思った。どうあがいたって、もう自分にはどうにもできないのだ。断れば、わたしは死んでしまうのだ。二度と誰にも会えないまま、この世を去ってしまうのだ。

 応えようとして、思い出した。

 母のこと。佐紀のこと。わたしは一体、何を奪われるのだろう。無事に助かったとして、この先数十年間、何を奪われたまま生きていくのだろう。命があるに越したことはない。母も佐紀も、奪われたことに折り合いをつけていた。でも、わたしは?わたしは、折り合いをつけて生きられるのだろうか?いつか後悔する日が来るのではないか?ずっと後悔しながら生きるくらいなら、このまま、何も奪われていない自分のまま、ここで命を終えてしまおう―――。

 どこからか、華やかな旋律が聞こえてきた。力強く、壮大で、それでいて緻密な音。

稔の『英雄ポロネーズ』だ。稔の演奏を、わたしが忘れるわけがない。一度聴けば、ずっと頭に残っている。わたしの好きな、稔の演奏。わたしに、衝撃を与えた存在。

生きたい。そう思った。たとえ何が奪われようと、生きていたいと思った。後悔するかもしれない。あの時命を終えてしまった方がよかったと思う日が来るかもしれない。それでも、残されたもの全てを使って、楽しみを、好物を、わたしが生を謳歌できる理由を、見つけ続けてやると強く心に決めた。

「わたしは、生きたい!」

 力の限り、叫んだ。


***


 意識が浮上する。ゆっくりと目を開けて、まず視界に飛び込んできたのは、両親と妹の顔だった。

「莉乃!」

 三人とも泣きじゃくり、すぐに医者と看護師がやってきた。

 あの夜、車にはねられたわたしは、二日ほど生死の境をさまよっていたらしい。その後急に容態が良くなり、間もなく目を覚ましたのだという。ちなみに、車の運転手は飲酒をしていたそうだ。

 わたしは一般病室に移され、数ヵ所の骨折の回復を待つ身となった。佐紀と従弟が面会に来てくれた。稔も病院に駆けつけてきてくれた。みんなわたしが一命をとりとめたことを喜んでいるようだった。

 ただ、わたしは不安に駆られていた。代償が何かは分かっていない。稔からもらったリップはちゃんとあったし、指も無事なようだった。

 ある日、妹がウォークマンを持ってきた。

「病院、暇でしょ?お姉ちゃんのウォークマン持ってきてあげたから、少しは暇つぶしになるかも」

「ありがとう」

 妹が帰った後、わたしはウォークマンの電源を入れた。何を聴こうか考えて、目についたバッハの『アリア』を選んだ。

 聞こえてきたのは雑音だった。

「嘘……でしょ」

 手当たり次第に曲を再生していく。ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第九番『クロイツェル』、リストの『メフィスト・ワルツ第二番』、グリーグの『トロルドハウゲンの婚礼式』、プロコフィエフのピアノソナタ第七番。どれも雑音にしか感じられない。

イヤホンをスマートフォンに付け替え、動画サイトを開く。人々の話声、動物の鳴き声、効果音、それらは普通に聞こえるのに、クラシック音楽も、洋楽も、邦楽も、全てがわたしにとっては雑音になっていた。どれもこれも、一分と経たずに堪えられなくなってしまう。今まで美しいと感じていたはずの音楽が、今や耳障りなものとしか感じられない。音楽であふれる世界から、わたしは締め出されてしまったようだった。

「これが、代償だっていうの……」

 ぽたり、と涙が零れ落ちた。一度流れ出した涙は止められなくて、次から次へとあふれ出してくる。食いしばった歯の間から、嗚咽が漏れだす。

 もう稔の演奏を、そのまま感じられない。佐紀の歌も楽しめない。自分で演奏することすらままならない。それどころか、音楽が流れるところ、どこに行っても、わたしは雑音に悩まされることになるだろう。

 頭がくらくらして、目の前が真っ暗になりそうになって、シーツをぎゅっと握りしめた。

 まだ頭に残っている稔の『英雄ポロネーズ』を必死で手繰り寄せる。頭の中で思い出す分には、雑音とは捉えられないらしい。それも、いつまで憶えていられるかは分からない。

「それでも、生きていくんだ」

 口に出して言ってみた。あの時、決めた。生きていたいと願った。どんなに苦しかろうと、命がある限りしがみついてやると思った。

 ぼろぼろと、涙があふれて、両目が熱い。きっと自分の顔は相当ひどいことになっているだろう。

 窓の外を見た。遠くの方に黒い雲が垂れ込めている。

 わたしはそれをぎゅっとにらみつけた。

(終)

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