お題小説集

播磨光海

『神様の住む星』———「オリオン座」

 じめじめとした日だった。

 私は鼓野はるかと河川敷に座り込んで、ぼんやりと水面をながめていた。はるかはいつものように本を読んでいる。

 市街地のビル群に沈んでいく夕日の光が水面に映って、キラキラと光っている。

 それを見ているとなんだか眠くなってきて、私は欠伸をした。誰もいない家に思いを馳せる。

 はるかが読んでいた本をぱたんと閉じた。

「帰る?」

「ううん、もうちょっとだけ」

 そう言って、はるかは私に顔を向ける。黒髪が耳からはらりと落ちて、はるかの端整な顔にかかった。

「あのね美里、わたし、神様になるんだ」

 高校、ここから電車で一時間くらいかかるところを受験することになったんだ———中三の春、はるかが私にそう言ってきたのと同じ調子だった。


 はるかはこの小さな町では有名人だ。「神童」と謳われ、大抵のことはなんでもそつなくこなす。誰にでも分け隔てなく接し、花や小動物を愛でる優しい心の持ち主。まるで奇跡のような存在の子。

 町の人々は皆はるかを褒め称える。「観音様の生まれ変わり」「結婚式のドレス姿を見るのが楽しみ」「はるかちゃんに会っただけで一日いいことがありそう」などなど、数えだしたらきりがない。

 だけど私だけは、はるかが「奇跡のような存在」ではないことを知っている。

 数学や物理の授業で先生に指名されてもすらすらと答えるけど、本当は苦手で、必死で勉強していること。誰とも同じ距離感を保つのは処世術。家の庭の手入れをしているのは、そうすれば家族や来客が喜ぶから。

 はるかが私にそれを明かしたのは、ただタイミングが良かったからだと思う。あの時放課後の教室を訪れたのが別の人だったら、多分はるかはその人に全てを打ち明けていた。

 この町には母の実家がある。母は父と別れて、私を連れてこの町に戻ってきた。小学校を卒業してすぐのことだった。

 中学校に入学して、私ははるかと同じクラスになった。はるかはその容姿と処世術でクラスどころか校内の人気者になり、近寄ってくる人全てに綺麗な笑顔を向け、男子生徒の告白は片っ端からお断りしていた。曰く「許婚がいるので」。

 特にこれといった特技もなく、顔立ちが整っているわけでもない私にとって、はるかは憧れの存在だった。嫉妬すら許されないほど、全てにおいて異なっている。はるかと同じクラスで、平凡な私はありふれた日常を半年ほど過ごしていた。

 二学期のある日の夕方、私は教室に忘れ物を取りに戻っていた。体操服を持って帰るのを忘れていたのだ。

 カラカラと教室の戸を開けて、私は思わず息を呑んだ。はるかが私の後ろの席で———つまりはるか自身の席で眠っていたのだ。

 私はそっと自分の席に近づいて、体操服の入った袋を取り上げた。そのまま帰ろうと思ったのに、どうしてもこらえきれず、ついはるかの方を見てしまう。

 規則正しい寝息の音。長いまつ毛。うっすらと赤みが差した頬。

 開かれたノートの上で突っ伏して眠るはるかの姿に、私は見入ってしまった。

 一体どれくらい時間がたっただろう。はるかのまぶたがぴくりと動いて、私は我に返った。

 慌てて立ち去ろうとして、鞄を机にぶつけてしまう。ガタ、と音を立てて机がずれた。はるかがゆっくりと目を開けた。

 私はその場に棒立ちになっていた。目を覚ましたはるかは、まず手元のノートに目をやり、次に私の姿を確認した瞬間、泣きそうな顔になった。いつもの綺麗な笑顔からは考えられない、幼い女の子のような顔だった。

「赤星さん、見た……?」

 何を、とは言われずとも分かった。

「み、見てないよ」

 私は顔を背けた。でも、はるかが頭を上げた時に見えてしまったのだ。はるか自身の字で自己採点したのが分かる、ページのほとんどが赤で埋め尽くされた数学のノートが。

「言わないで……」

 小さな小さな声が聞こえた。か細く震えていて、今にも消えてしまいそうな声。

 はるかは俯いていた。今にも崩れ落ちて壊れてしまいそうで、私は何かできることはないかと頭を必死で働かせたけど、良さそうな言葉は全く出てこなかった。

「誰にも言わないよ」

 こんな時、気の利いた言葉の一つも言えない自分が恨めしい。だけどはるかにとっては、それで良かったらしい。

「わたしの秘密、聞いてくれる?」

 秘密、という単語に心臓がどくりと脈を打つ。あの「鼓野はるか」が、こんな私に秘密を打ち明けようとしている———好奇心、優越感、それらが湧き上がって下心にまみれた私は首を縦に振った。

「わたしは『いい子』でいないとだめなの」

 疲れ切った声ではるかが言った。とても十三歳とは思えないような声。

「花に水をやったり、鳥に餌をやったりすると、みんなが喜ぶの。優しい子だねって。別に、水やりや餌やりが優しさと必ずしも繋がっているわけではないのにね。でも、みんながわたしにそうあってほしいと望むの」

「勉強ができることも?」

「ええ。本当は苦手だけど、わたしは『神童』でなければいけないから。『なんでもできる子』を望まれているから、それを演じきらなくてはならないの」

「そんなこと……」

 無理にしなくていい、と言いかけて私は口を閉じた。はるかの言う「みんな」の中に私自身も含まれていると気付いたのだ。私の憧れているはるかは、才色兼備という言葉がぴったりで、誰にでも綺麗な笑顔を向ける少女という「像」だった。授業中に先生がはるかを指名する度に、「すらすらと答えてほしい」と心のどこかで思っていた。

 私の中で、「鼓野はるか」という少女の仮面がバラバラに壊れていく。

「わたしのこと、嫌いになった?」

「ううん」

 私は即答した。はるかの目が大きく見開かれる。本当は「嫌い」って言われたかったんだろうけど、絶対に言わない。

「むしろ、もっと好きになったよ」

「どうして」

「私の中の鼓野さんは、完璧すぎて、遠かったから。でも、鼓野さんの話を聞いて安心した。私と同じ人間なんだなって思えたっていうか、身近に感じられたっていうか……」

「そう」

 はるかがふっと頬をゆるめた。この半年間で初めて見る、花が開くような笑顔だった。

「鼓野さん」

「はるかでいいわ。だから、赤星さんのことも美里って呼んでいい?」

「いいよ。それで、はるかは演じることをやめられないの?」

「やめられないわ。決まりがあるのよ」

「決まりって?」

「ごめんなさい、それは言えないの。口止めされてるから」

「そっか」

 あれこれ邪推しそうになるのを抑えて、私は応えた。私だって誰にも言えないことがある。実父が日常的に暴力をふるう男で、つい先月事件を起こして逮捕されてしまっただなんて言えるはずもない。事件前にすでに離婚していたとはいえ、あの男と関係があるだなんて知られたら、私も母もおしまいだ。

「ちょっと気が楽になったわ。『わたし』を見ようとしてくれる人がいるって、とても良いことなのね」

 椅子の上でだらしなくあぐらをかいて、はるかが言う。

「それは良かったよ」

「明日からもわたしはわたしを演じ続けるけど、美里と二人でいる時だけはやめるわ。いいかしら?」

「いいよ」

 私は喜びがじわじわと胸を満たしていくのを感じていた。誰かの唯一に選ばれるということが、こんなにも心地良いものだったなんて!

「このことはナイショ、ね」

「約束するよ、誰にも言わないって」

 私とはるかは放課後の教室で顔を見合わせて笑った。日はとっくに暮れてしまって、教室は薄闇に包まれていた。

 その日から、私とはるかは秘密を共有する仲になった。


 それからおよそ五年、私ははるかの親友であり続けている。もちろん最初のうちは優越感やら自尊心やらにまみれていたけど、気付けば友愛が勝っていた。言葉にしてしまえばチープに聞こえるけど、はるかは私にとって唯一無二で、何物にも代えがたい存在なのだ。そして、これだけは胸を張って言える。はるかには誰より幸せになってほしいと心の底から願っている。

 何度かはるかの家を訪ねたことがある。「お屋敷」と呼ぶにふさわしい、土塀で囲まれた広々とした敷地。和風建築の母屋と離れ、土蔵、そして屋敷神でも祀っているのか、家の裏手には少し大きな社がある。建物の瓦には一つ一つ、一文字に三ツ星の家紋が彫られていた。

 はるかの両親は私が来るたびに歓待してくれて、何度か泊まらせてもらった。はるかは自宅でも相変わらず綺麗な笑顔で望まれている姿を演じ、部屋で二人きりになると、今にも泣きそうな声で言うのだった。

「抱きしめて」

 私はそんなはるかを腕に抱いて、その温もりを感じながら十数分ほどじっとしているのだった。

 中三の春だった。はるかの部屋で使用人が運んできた夜食をいただきながら、テスト勉強をしていると、ふいにはるかが手を止めた。

「美里、わたしね」

「うん」

「高校、ここから電車で一時間くらいかかるところを受験することになったんだ」

 はるかが名前を挙げたのは、県内トップの名門女子高だった。

「それも、ご両親が決めたこと?」

「そう」

「……っ」

 その頃の私には、鼓野家の「おかしな所」がうすうす感じ取れるようになってきていた。はるかは「何か」に縛り付けられて、自分ではそこから抜け出すことができないようになっている。周囲の期待通りに生きるはるかが、私と違う、遠く離れた存在になってしまうような気がして、怖かった。

「はるかと離れたくないよ」

 本音だった。私が少しでも目を離したら、すぐに消えてしまうんじゃないかと思った。

 私ははるかの方に身を乗り出した。はるかは逃げない。私はそのまま顔を近づけて唇を重ねた。

 柔らかくて、少し冷たい唇だった。

「キス、しちゃったね」

 はるかは全く動じず、それどころか嬉しさをにじませた声で言った。まるで最初から私にそうされたかったみたいだった。

「ごめん、許婚いるのに」

 私の方が恥ずかしくなってしまって、顔を伏せた。心臓がうるさいくらいにドクドク音を立てている。

「いいの、あれ嘘だから」

「それも処世術?」

「そう」

 はるかがくすりと笑う。

「なんだか背徳的ね。こんなことするなんて」

「私もだよ」

 親友の家で、二人きりの部屋で、キスをする。こんなはるかは、きっとみんなに望まれるはるかじゃない。心地良い背徳感が私を満たしていって、頭がくらくらする。

 はるかが私の首に腕を回す。今度ははるかの唇が私に触れる。私はそのまま、はるかのやることを止めず、身を任せていた。

 それでも私たちは親友だった。

 その次の日から私は猛勉強を始めた。はるかの目指す高校は、入試で一定以上の成績を収めた者の学費が全額免除される。去年の暮れに心臓麻痺で布団の中で眠るように亡くなった母のわずかばかりの遺産と、祖父の貯蓄及び年金で生活させてもらっている私には、学費は高すぎた。

 努力の甲斐あってか、私は入試で好成績を残し、見事学費免除を勝ち取った。はるかは主席合格だった。はるかの親族は皆口々にはるかを褒めたたえたけど、私ははるかが寝る間も惜しんで苦手な数学を勉強していたことを知っている。私は数学が得意なので、毎日はるかに教えていたのだ。

 高校生活は中学の延長線上だった。はるかはますます磨きのかかった美貌で相変わらず綺麗な笑顔を振りまき、私はそんなはるかの隣にいた。私たちはもう、お互いに離れがたく思うようになっていた。

 だから———だから私は、自分の中の不安を無視し続けていたのだ。いつか引き裂かれるだろうという予感は、日に日に増していたというのに。認めたくなかった。はるかのいない日常のことなんて、考えただけで気が狂いそうだった。

 でも、ついに、はるかの口から放たれてしまった。

「神様になる」という言葉が。


「美里は、薄々気付いていたでしょう?わたしの家のこと」

 私は頷いた。湿気をはらんだ生ぬるい風が河川敷を吹き抜ける。

「家の裏手の社、あそこにいるのは今の『神様』なんだね」

「そう。わたしのおじいさんだった人。わたしが生まれた時にはもう、神様になってた」

 はるかは淡々と話し続ける。

「わたしの家は代々、あの土地で星に住まう神様をお祀りして、神託を得たり、願いを聞いてもらっているの。それも、家から一人、依代を選んで、憑いてもらうことで」

 私の背中に寒気が走った。はるかの口から直接告げられたことで、私はついに現実を認めざるを得なくなってしまった。これがはるかが今まで誰にも言えなかったこと。はるかは幼い頃から、いやもしかしたら生まれた時から、親族とあの町に住む信者達によって、依代にふさわしい人間になることを望まれ、そのように育て上げられてきたのだ。

「神様になったら、はるかはどうなっちゃうの?」

「『鼓野はるか』の人格は消えるわ。肉体だけが残されて、生命活動が停止するまで神様であり続けるの。そして肉体が死ねば、次の依代に移るのよ」

「はるかはいつ神様になっちゃうの……?」

「明日」

 私は絶句した。

「今朝、神託があったの。今の依代の肉体はもう保たない。明日の朝、命が尽きるって」

「そんなの嫌だ!」

 わがままを言う幼い子供のような声が私の喉から迸った。

「ねえ逃げようよ、はるか。二人で遠いところまで逃げて、一緒に暮らそう」

「逃げられないのよ!」

 はるかの叫びが私の耳を打った。

「もうわたしの体は依代となる準備が始まっているの。今朝、神託があった後から、少しずつ変わってきているのが分かるのよ」

 そう言ったはるかの瞳を見て、私は息を呑んだ。こげ茶色だった瞳は、金色になっていた。

「わたしの体が生きている限り、どこに行こうが必ず神様はわたしに憑くわ。だから美里、もう終わりにしましょう。どうかこのまま、わたしのことは忘れて生きて」

 全身の冷水を浴びせられた気分だった。はるかの処世術、その真意にどうして私は気付けなかったのだろう。

「このっ……馬鹿!」

 初めてはるかのことを罵倒した。驚きで固まるはるかを抱きしめる。どこにも行ってしまわないように。

「本当は誰も悲しませたくなかったんだね。みんなと距離を置いていたのも、『許婚がいる』なんて嘘までついて恋人を作らなかったのも、いつ自分が神様になって消えてしまうか分からなかったからなんだよね。それで……いつも通りにしてたら良かったのに、私に全てを打ち明けてお別れを言ったのは……私にだけは悲しんでほしかったから。そうでしょ?」

 私ははるかの、金色に変わってしまった瞳をのぞき込んだ。

「そうよ。ずっと一人ぼっちで完璧に振る舞って、誰かの特別にもならず、依代にふさわしいわたしのまま、神様になるつもりだったのよ。でも、中一のあの時、耐えられなかったの。心が揺れてしまったの。誰か一人でもいい、わたしを見てほしいって思ってしまったの」

「うん。私ははるかをずっと見てるよ。だから、今……とっても悲しくてどうしようもないんだ」

 私ははるかを抱きしめる腕に力を込めた。

「はるかはさ、神様なんかじゃないよ」

「うん」

「全知全能なんかじゃないし、数学は苦手だし、実は折鶴も折れないし」

「うん」

「はるかは人間だよ」

「うん」

 小さな嗚咽が、腕の中から聞こえてきた。

「わたし、人間のまま死にたいな。昔からずっと、もしそれが叶うならこれ以上幸せなことってないって思ってた」

「そっか」

 私は胸の中の自分に問いかけた。

 誰よりもはるかに幸せになってほしいって思う?

うん。

去年祖父が亡くなって、ついに私は天涯孤独の身になった。たった一人の孫娘が、県内の名門女子高に合格したことをとても喜んでくれた祖父。「美里は美里の生きたいように生きろ」という言葉を遺して逝ってしまった。

はるかがこの世から消えてしまうなら、私もこの世に未練はない。

「ねえ、はるか達の神様が住む星ってどこにあるの?」

「オリオン座の三つ星。そこに住んでるんだって」

「じゃあ、ちょうど良かった」

 今は六月。オリオン座が空に昇ることはない。神様が見ていない間に、私がはるかを連れていく。神様なんかに、はるかの髪の毛一本でも渡してやるものか。

「行こう、はるか」

「うん」

 日の暮れた河川敷を、私たちは手を繋いで歩き始めた。


 近くの駅で、終着駅までの片道切符を二枚買う。

 ロングシートの片隅で、私たちは身を寄せ合って座った。一両だけの電車に、私たち以外の乗客はいない。振動に身を任せ、車窓を流れていく景色をぼんやりと眺める。

 やがて、電車は終点に着いた。

 ホームに降り立つと、うっすらと潮の香りが鼻をくすぐる。駅から十分ほども歩けば、もう海だ。

 海水にちゃぷりと足を浸ける。冷たくて、気持ちいい。

「はるか」

「なぁに、美里」

「二人一緒なら、どこでも行けるよ」

「そうね。天国でも地獄でも、美里と一緒ならどこだっていいわ」

 私とはるかは顔を見合わせて笑った。片手を繋いで紐で結び、二人で海の中を進んでいく。

 南の空に、私の星座、さそり座が姿を現していた。


〈終〉

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