エピローグ

ライフステージ

 誰もいなくなり、静まり返った店内で、由美は食器を洗っていた。水が流れる音と、外からかすかに聞こえる車の通る音を除けば、何も聞こえない。春の訪れを告げる鶯の声も、夏の代名詞の蝉の鳴き声も、風流心をくすぐる虫の音も、冷たく頬を撫でる風の音も。まるで世界から切り取られたような空間で一人、由美は食器を洗い終え、カウンターの席に回って丸椅子に腰を下ろした。そして、今日のことを思い出した。

 早希ちゃんが経験した非現実的な話。不思議な話で、童話の世界を聞かされているような心地だったけど、どこか現実味があって、どこかこの世界に矛盾しているところもあって。でも今につながっている大切なものもあって。もし嘘だとしても、だまされて裏で笑われているとしても由美はこの話を信じようと思った。もちろん、そんなことがないことは重々承知の上で。

 そのあとのあの七人はもっと自分にとって身近な話なのに、複雑な事情を抱えていたからよくわからなかった。きっと話を聞けばある程度は理解できるのだろうが、多分あの七人―――特に同年代で特に親しそうだった五人には深い友情があるのは、何も知らない人が見てもわかる。本来形ない象徴や信仰に近いものだけど、彼ら彼女らの中では鎖のように固く結ばれているように見えた気がした。

 私は安定が好きだ。安定している方が、安心していられる。停滞だともとれるだろうけど、衰退よりはましなことはわかる。変化のない日常は、過ごしていて快適だと個人的に思う。でも、そんな生活が退屈だと思うことはもちろんある。物語の主人公は波乱万丈な人生―――例えば運命的な出会いをして世界を変えるような、主人公が輝く生活を送ってみたいという気持ちもある。それはたぶん子どもの時からある好奇心に近いものだと思う。

 今日会った人もそうだが、学校の同級生もそうだ。前に池田くんの舞台が終わった後にあさのんが走って劇場に戻っていった時、主人公みたいだなって思った。誰かに求められているってことは、誰かに支えられているってことだから。他にも喜多くんは全国的にも話題になってきているし、そもそも私の通っている学校からたくさん有名人が出てきていて誰もが変化のある生活に負けじとくらいついている。

 のどが渇いてきたので、私は何となくさっそく洗ったばっかりのカップに水道水を入れて一気に飲み干した。喉は一瞬潤ったが、何か物足りない感じがする。普段からコーヒーばっかり飲んでいるからだろうか。そもそも私はコーヒーが売りの喫茶店の娘にもかかわらず紅茶好きなのだが、多分今は関係ないんだろうな。

 ため息をついた。私はこうやって喫茶店でずっとい続けるのだろうか。もし結婚したとしても、多分私はここでこれまで通り喫茶店の仕事をし続けるんだろうな。

 なぜか涙がこぼれる。確かにこんな風に将来が決まっていて、やるべきことが決まっていて、ある程度の友達がいて。そんな生活は安心していられるかもしれない。でも、物足りない。私の人生はこんなものでいいのか。

 その時、一か月前に近所で起こった火事を思い出した。早希ちゃんの話で聞いたけど、あの母親は子供を愛しながらも死んでいった。彼女も何回かこの喫茶店に来たことがあったから、お別れの会には私も参列した。彼女はよく、子供の成長を見ていてうれしいと言っていた。変化がある生活が楽しみで、それが糧となっていて、いずれ来る反抗期や親離れや独り立ちも含めてすべて覚悟のうえで、だけど楽しい。そういっていた彼女はもうこの世にはいない。幼い子どもを置いて、思春期を迎える前にいなくなってしまった。いつ大切なものが消えていくかわからないのに、私は変化を求めてしまうのか。やはり安心が一番なのか。

「すみませーん……?」

 旭は泣いている高校生の店員クラスメイトを見つけ、少し戸惑った。

「花田さん? どうしたの?」

「……倉田くん? ごめん、ちょっと泣いてた」

 由美は無理やり涙をぬぐって旭に向き合った。しかし、一度あふれ出した涙はすぐに流れてきてしまって、結局顔に一筋の涙の後を作った。旭にはその顔が美しく見えた。

「大丈夫だから。何か用?」

 由美は涙を手で撫でて、無理に大人ぶって問いた。

「いや、今日何となくコーヒーが飲みたくなってさ」

 なぜか旭の目線は定まっていなかった。

「そう。じゃあ準備するね、カウンターの前に座って」

「いや、ちょっと待って。さっきの奴は見過ごせないよ」

「大丈夫だから……たまに泣きたくなる時あるでしょ?」

「確かにある」

「どんな時?」

 由美はカップの水滴を布巾で取りながら興味ありげに聞いてきた。

「本読んだときとか? あと映画見た後とか」

「それって感動して泣いたやつでしょ?」

 由美は苦笑しながらそれは違うと反論しようとした。でも。

「それもあるけど、やっぱり俺はそんな人にはなれないのかなって思った。この人かっこいいとかこんなこと起きないかなぁって思うこともたくさんある。例えば晴斗が主演の舞台、かっこいいって思ったし、俺もあんな場所に立てたりあんな場所でしゃべったりできないのかなって思った。でも、俺はそうやってみんなの前で一人で歌うなんてことはできないし、そもそもそんなことする勇気すらわかない。でも、晴斗が脇役の時からずっと見ていたけど、その晴斗もやっぱりかっこよかったんだ。もちろんもともとイケメンだったってこともあるけど、何かをやってるってだけで人はかっこいいんだって思った。ただそれが表に出るか出ないかだけで、たまにテレビの特番とかで縁の下の力持ちって呼ばれている人たちがクローズアップされる時があるけど、それにも出てこないがんばっている人だっているんだ。きっと誰もが誰かのヒーローなんだよ」

 旭はそこまで話して我に返って由美の方を向くと、彼女はぽかんとしていた。

「どうしたの?」

「私でも、誰かのヒーローになれるかな」

「え?」

「私は、ヒーローになれるかな」

 旭は少し希望を見出しつつある表情の由美を見て、『僕にとっての答え』は定まっているけど、助け合うのも間違っていないと思い、背中を押すことにした。

「花田さん」

 彼女がこちらを向いた。俺は口を開いた。


 花田さんは、俺のヒーローだよ。


     ***


 ベルが鳴った。喫茶店のドアが開いた音だ。涙も乾き、優しい笑顔を向けた由美ヒーローはその方を向いた。カウンターの丸椅子に腰かけていたヒーローは、意を決した由美の顔を見た。安心できる彼女だった。


「喫茶『花田屋』へようこそ!」



                               ―完―

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ライフステージ(超長編) 時津彼方 @g2-kurupan

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