残心(三章 ざんしん)

 不意に矢が飛んだ。手がしびれたのか、弦が弽を弾いた感覚がまるでない。第三射は黒く円い星に的中した。三本も矢が刺さっていていつもより的が狭い。

 三射目でピークに達し精根尽き果てた僕は、悟りを開いたようになった。ただ型のみで動くものとなった僕は、すんなりと四射目を射て、型通りに的中した。

 自他共に期待したことのない皆中を出すと、今まで感じたことのない種類の居心地の悪さがあった。きっと今日から僕は“まぐれあたり”の代名詞になるに違いない。

 射位から下がった僕に向かい、諸山先生の口から「萱間、皆中か」と普段の十分の一ぐらいの声が漏れた。さらにまじまじと僕を見ていた先生は、普段のうるさい声でもう一度言った。弓道場に落武者が来た、と突然警告されたかのような衝撃が広がった。

 彼女の姿は見えなかった。部長は忙しいのだ。競技を観る暇はなかったのかもしれない。


 冬休みが終わり、僕が成し遂げた皆中は徒花あだばなだったのだということがよくわかった。小寺や諸山先生などから、今年は頼んだぞ、と冗談半分に言われただけで、それ以外何も変わっていない。そもそも、射初めでどんな結果を出そうと、僕が彼女に一方的に条件を押し付けたに過ぎない。やっぱり行かない、と言われてしまえばそれまでなのだ。

 それでも彼女はやってきた。一月中旬の部活がない日曜日、他に予定ができなければ行ってもよいと彼女が言った日だった。彼女はどことなく嬉しそうに見える。部活中には見ることのない顔だった。

 混んでいて何時間も行列に並ぶようなケーキ屋については触れず、彼女が観たかったという映画を観ることにした。アクション物の洋画で、後々テレビで放送してもまず観ようとは思わない映画だった。

 妙に浮いているように見えた俳優について話すと、彼女も全く同じ様に見ていたと言った。その俳優本来のイメージがいかに配役と合っていないか、作中のセリフや動作を一つ一つ挙げて悪口を言うだけで楽しかった。

「主演の俳優が好きなの?」僕は何気無くきいた。

「うーん、どちらかと言えば好き」

「出てる俳優であの映画を選んだ訳じゃないんだ」

「なんだろう……。CM観たら面白そうだったから」

「でも予告映像観て、本編観たような気になったからもういいや、ってなったりするよね」僕は半分笑いながら言った。今日の映画がまさにそうだった。

「そう? 私は本編が気になって観たくなる」彼女は言った。

 好きな異性のタイプなどは、するべきでない質問の内に入れていた。仮に僕のような男がタイプだと答えられても、彼女が気を使っているだけなのだと、どうしてもそう受け取ってしまう。かといって、強引に物理的な距離を縮める勇気もないので、当り障りのない話をして映画の中のヒロインを見るように、彼女の口や手が動くのを見ていた。


 地元の駅に着くまで、大半は部活の話をして帰ってきた。部のたわいもない話ならいくらでも続けることができる。手をケガしたらどう対処するかについて話していると、彼女はケガをしにくい手になっていると言って、手を差し出して僕に見せた。表面が硬くなったと言うその手を取って指を触ると、不思議なくらいの細さだった。ゴツゴツしたタコもないが、女子の指にありそうな柔らかさもない。ズバ抜けた彼女の行射とその指が頭の中で結び付かず、寒気に素手をさらしているのも忘れ、彼女の指に目が釘付けになった。

 既に暗くなった駅前には人影もなく、二階の高さ程ある一対の将軍標ジャングンピョだけが口を開けて静かに立っていた。将軍標のそばで彼女の手をつかんでいた僕は、我に返ってその手を離した。彼女は横目で僕を見たまま目を離さずにいる。僕は思わず「馬手めても見せて」と言った。離した手とは逆の右手が差し出されると、彼女がこちらの正面を向き、互いの目が重なった。

 大きく開いた彼女の瞳に、とても長い年月親しんできた愛着のようなものを感じる。これほどまともに見つめ合ったことは一度もないはずなのに。僕は全く動けない。

「何? ねえ」と言って彼女は手を引き離した。

 彼女の黒い瞳と周囲全てが暗闇に沈みそうだった。

背を向け遠ざかって行く彼女がおぼろげに見えていたのも束の間、全くの闇になってしまった。まるで墨の表面に髪の毛を置いて描いたような絵――葦原に囲まれた土地で鍬を取り、時には弓を取って生きる人々の姿――が様々無数に浮かんでは、闇に溶けて消えた。

 長い時間に感じた。とても大きくて、大切な何かにふれた感覚だけが残った。

 気付くと、駅敷地の外れまで行ってしまった彼女が鮮明に見えた。

「ま、……おはぎ!」僕が呼ぶと彼女が振り向いた。「今度、弓見せるよ! 貊弓メッグン!」


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彼女を射止められそうにないけど、それでも弓を引く 輪給 駘 @d_wakyu

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