葦原の壱師 (二章)

「聞こえないのか? 早くやれ」

 壱師いちしは振り返った。声の主は語気が荒いだけでなく表情も険しい。もう何度か繰り返し呼ばれていたのだとわかった。長く物思いにふけっていたのだろうか。ほんの僅かの間気をそらせていただけのはずだった。乾いた石の広がる河原が眩しい。手にした弓矢はたった今取り上げて手に握ったかのように感じた。

 答える代わりに即座に弓を構えたが、的の方を向いてもよく狙いを定めることができない。的を据えている川沿いの崖は木陰に覆われて暗かった。慌てて立て続けに矢を三つ放った。それらは全て向こう側の闇に突き刺さった。

「馬上だったら貊弓メッグンの方がいい」壱師は言った。

「そうだな」黨慮とうろが答えた。

 壱師は黨慮と交換した弓矢を使っていた。黨慮の祖母安都佐あづさがムラで唯一高句麗の貊弓を持ち、それを模した短弓だった。黨慮は徴兵を考慮し、壱師の弓矢を使って長弓に慣れようとしていた。

「今日は俺一人で来た方がよかったか?」黨慮が言った。

「いや……、真っ白い大きな石を見ていたら目がくらんでしまったんだ。もう良くなった」と壱師は答えた。

「もうお前の親父が、弓を引いて遊んでいる暇はないとは言わんだろう。とっくに稲の収穫は済んでいるんだ」

 黨慮は引いていた矢を放った。矢は的の真ん中に中り、竹を組んで布を掛けただけの的が硬い音を立てた。

「収穫が終わっても終わっていなくても、父にとっては何の違いもない。今日も鍬を担いで沼に行ったろう」

 続いて壱師が放った矢は、黨慮と同じ場所に中った。炭で黒い印を描いた布はこもった音を立てた。


 霊亀二年(七一六年)よりこの武蔵国に高麗の名を取った郡が拓かれ、既に四十年が過ぎていた。稲の収穫を目前にした田の中心に立つと、元はあしの湿地が広がる未開の地であったとは思えない程の豊穣を見渡すことができた。

 壱師が鍬を与えられ稲作に加わり始めた頃には、直線で区画された田とその間を整然と流れる水が、このムラの景色をつくっていた。自分のムラを高みから初めて見下ろした時、その光景は壱師の目に強く焼き付けられた。一帯をぐるりと囲む川が、水面に現れる波紋にも似た真円に見えたのだ。水の流れや大地は自ずと綺麗に整った形を成す、と錯覚しそうになる程だった。

 そんな無邪気な感慨をもってムラを見る目がある一方、開墾を始めて以来ずっと、疲労の末に萎縮した目でムラを見続けてきた者もあった。それらの者、長年小さな進歩を積み重ねてきた壱師の父真磐まいわやその先代には、結果だけを見る者のような感慨は持ち得なかっただろう。

 葦原に鍬を入れ、水路を掘り、自ら苦労して拓いた土地が青々とした田に変われば、大きな喜びを感じることもできた。だが、それは、家族が生きていく上で最低限必要な基盤の一部ができたに過ぎず、農民なりに満たされた生活が、より豊かなものに引き上げられたわけではないということも知っていた。真磐にとって、全ては開墾の為と言っても過言ではなかった。

 公民が増加し分け与えるべき公地に不足が生ずれば、元々渡来してきたよそ者は住み着いていた土地であっても取り上げられる。ただ、未開の地を開墾し、新たなクニを造るのであれば、その公民として認められる。高句麗を逃れ、この国に渡った先祖を持つ真磐にとって明快な宿命であり、その境遇に対して微塵も疑問を持つことなどなかった。

 ムラの姿が、移住前に先代が住んでいた土地と同様に整ってからもなお、開墾に心血を注ぐことには、真磐なりの理由があった。

 真磐は里長である父を中心とした大家族の中で育った。開墾された一族の広い田地の中を、幼い頃駆け回って遊んだものだった。父の代までは税の免除を受けられたこともあり、徐々にではあっても田を広げ、収穫する米を確実に増やしているという実感があった。葦原に延々と伸びる根を起こしては断ち切る内に日が暮れても、山のような土を運び入れ、やっと数歩田が広がっただけでも失望することはなかった。我が里長の目を通して、高麗郡が一体としてクニ造りに向かう様子を知ることができ、皆も泥にまみれて生きていると常に感じることができたからだった。

 この高麗郡の中で真磐は素直に成長し成人となった。この地に移された人々は、辺境に追い遣られたよそ者などではない。困難な事業を見事に成し遂げた。公地を拡大し公に寄与したという大きな自信を持つようになった。誇るべき高麗郡の民を自覚しつつ生きてきた彼は、自分の代から課税が始まっても先代の遺産に安住せず、更なる開墾の継続と向上を自らの使命としたのだった。

 官の御達しによれば、以後拓いた田は私財として認められることになっていた。ゆえに、真磐は新たな広い田を手に入れるため、あえて本家から別れて葦の広がる沼地近くに居を構えた。

 こう話し、母や兄等と沼や田の中で鍬を振る父はとても頼もしい。壱師は子供の頃思ったものだった。

 父と同等の働きはできないまでも、壱師が田を耕し稲刈りをする限り、与えられた仕事は何とかこなすことはできた。だが、葦との闘いに多大な苦労を強いられた。葦の根はとても強く、何度も鍬を振り下ろさなければ断ち切れない。先に進み行く父を見つつ、一か所で延々根を起こしていると、体中に焦りが広がってくる。一日働いたにもかかわらず、人の背丈を越える葦の中で僅かにだけ拓いた足元を見ると、絶望感に襲われた。

 引き抜かれ集められた葦の根を見て、これが全部食べられるといいな、と幼い頃に壱師が言って家族が皆で笑ったことがあった。病死した母がまだ元気で、一番上の兄が防人として西国に行く前だった。ふとそれを思い出し、父の顔色をうかがった上で葦を刈り続ける父に話した。父は振り返りさえしなかった。風に吹かれて葦が騒ぐ音に遮られたのだろうか。この日の父は気が立っているようには見えなかったが、同じことをもう一度言う気にはなれなかった。

「川に行って来てもいいか? 朝、魚獲りの仕掛を入れたから取って来る」夕方になってから壱師は言った。

「仕掛? 誰の仕掛だ?」父は言い、起こした身をすぐにもどした。

「俺のだ。暗くなる前に行かないと、引き上げて来られない」心持声を張って言った。

 風は大分弱まっていたので、父が背を向けていても聞こえないはずはなかった。壱師は手を動かし続ける父の返事を待った。夕映えが遠くの空に見え、葦の陰りが濃くなりつつあった。

 刈り取った葦を束ねていた父は、立ち尽くす壱師を一瞥しながらも仕事を続けていたが、急に身を起こして壱師に近付き胸を鋭く突いた。壱師はよろけて倒れそうになりながら、呆然として父の顔を見た。長い間まともに父の顔を見ていなかった気がする。父の意向を知る時には常に母や兄が間にいたのだ。夕映えを背にした父の顔は、微かに記憶している長兄の面影に重なって見えた。

「行くんだろ! ここで突っ立って何してるんだ!」

 眼差しは普段通りに硬いまま、打ち付けるような激しい口調だった。一喝した父は仕事に戻ろうとした。が、依然立ったまま動かない壱師を睨んで言った。

「取って来られんと言ったな? お前が沼での仕事をその日の内に終わらせると言ったことがあるか? 家の田を何だと思ってる? 未だに川がどうしただの、抜け出すことしか考えられんのか! 子供じゃないんだぞ! お前が……」言いかけたまま父は力が抜けたようにしゃがみ込んだ。

 壱師はこの様な父を見たことがなかった。陰になった父の表情を窺うことはできず、壱師は小さな声で行って来ると言って川へ走った。

 暗い流れの中から仕掛を探し引き上げると、小さな魚が少し獲れていた。魚がよく獲れたとしても、父が喜ぶわけではなかった。ただ気が急いて走り戻ったが、父の姿はもうなかった。


 強い日差しを感じて空を仰ぐと、もう日が一番高い位置にある。壱師は黨慮と共に水鳥を追いながら沼の周辺を歩いていた。自分の動きを鳥の動静に合わせようと必死だった。稲や葦を相手にする仕事よりも、昼になるのが早いと感じる。

 黨慮も壱師も二羽三羽と仕留めていて、沼から離れ小高くなった場所に上がって休みを取ることにした。壱師は水で戻した飯を分けてもらい食べた。一度蒸かしてから干したもので、狩に行く際の食料だった。

 年に何度も行けなかったが、壱師は狩がとても好きだった。田に入って仕事をしていても、水に浮かぶ鳥の様子を想像して手を止めてしまうことがよくあった。

「壱。ほうけた様にじっとしていることが増えたな」食べながら黨慮が言った。

「惚ける? よくあることだ。父からも仕事中に『おい、何してる』とよく言われる」

「半月ぐらい前からおかしいな。それまでの壱はそうじゃなかった。俺の気のせいか」

「獲物は外してない。腕は落ちてないだろう」、

「狩はいいんだが……」

 黨慮は少しの間黙っていたが、重たそうに口を開いた。

「探しに行けそうなのか? 壱の所の並倉なみくら。まだわからないんだろう。雪が降り出してからでは遅いからな」

「並兄は帰ってくる。大丈夫だ。きっと足を少しけがしただけだ。雪は遠江とおとうみから向こうは降らない」

「雪はみやこでも降るぞ。婆から聞いたことがある。それに、布を収めにいった運脚が都から戻ってもう二月ふたつきだ。都の役人に直接お伺いを立てに行ったのだとしても、まだ戻らないというのは……」

「並兄はきっと戻る! 兄弟の内で一番山歩きが速いのは並兄だ。どこの役人をあたるのか調べてから行ったんだ。古真こま兄のことはわかるはずだ」壱師は黨慮を遮って言った。

 強い口調で訴える壱師を見て、黨慮は黙るしかなかった。消息不明になった防人のことを都で尋ねても、農民では相手にされない。仮に聴きいれられたとしても、答えを得るのに延々と待たされるかもしれないのだ。

 防人の任期を過ぎても戻らないまま数年がたち、壱師の長兄古真磐は先の戸籍調査で不明のため除籍となっていた。壱師がかつての長兄と同じくらいに成長した今では、あえてこのことに触れる者もなくなっていた。そしてまた、次兄並倉についても、徐々に触れることがなくなりつつあった。

 壱師が二人の兄に話が及ぶことを恐れたり、努めてそれを避けたりすることはなかった。父は兄について多くを語らず、開墾の計画もほとんど変えようとしなかった。父に向かって不平を言うことを知らない、次兄の帰りを待つ兄嫁・子らは壱師同様父の後ろを必死に付いていくしかなかった。まれにどうしようもなく兄に会いたくなり、街道を西に走って行きたくなっても、日々の忙しさで覆い隠してしまうことがあたりまえになっていた。


 家が抱える問題にかかわらず、黨慮が壱師と共に狩を続けていることは、壱師にとってとても有難いことだった。兄のことでも何でも話せる仲だった。ただ、壱師の心の内を大きく占めてはいるが、封印しておかねばならないことについては一切顔にも出さなかった。黨慮の妹弥都売みずめのことだった。

 沼地で開墾することの困難を知る者同士、壱師・弥都売どちらの家も助け合いながら生きてきた。共に野山で遊び弓を習った壱師と弥都売が、互いに将来の夫・妻になることを望むのも自然なことだった。だが、二人の意志が確たる形になる前に、通い合うことのできない深い溝があいてしまった。

 春に防人のための糧を送る際、役目の他に古真磐の跡を追って調べてもよいと申し出があったことも、壱師の家では知っていた。その黨慮の申し出が立消えになったのは、弥都売が郡家ぐうけの役人の妻となることが決まったからだった。

 黨慮は兄を病でなくし、他に跡継ぎとなる者がないにもかかわらず、里中の成人の中で次に兵士に選ばれると目されていた。しかも、今後の兵士は蝦夷えみしに対する東征軍として徴集され、防人とは異なり本当の戦をすることになるとの噂が広がっていた。その父が、家のことを考えた上で、郡家に勤める男からの申し出を受け入れたのも無理からぬことだった。

 それ以来、弥都売に関することは全て消え去った。田の仕事や狩などは、黨慮の働きのおかげでかろうじて支障をきたさずに済んでいた。

 散りゆく花びらを見ることもなく、花が一度に首から落ちたようだった。当初壱師には実感がなく、気付くと失われた花の影をいつの間にか探していた。仕事以外のことではとやかく言わない父から、弥都売には近付いてはならないと言いつけられていた。月明かりさえも避けて二人で逢うなどということは、もう許されないことだった。


 壱師は黨慮に促されて腰を上げた。水際に向かい、互いの間をあけて風下から近付いた。木の下に鴨が五六羽眠ったように動かず、浮かんでいるのが葦の合間から見える。壱師は息を殺し、慎重に狙いを定めようとした。

「壱!」風に鳴る葦のような声で黨慮が呼んだ。

 我に返り矢を放った。同時に黨慮も放った。

 飛び立てず水に浮かんだのは一羽だけだった。

「どうした? お前なら仕留められただろう」黨慮が眉間にしわを寄せて言った。


 冬は驚くほど早く日が落ちる。壱師は恨めしく思った。まだ狩をしていたいためではなく、父の元に帰ることをおそれるためだった。黨慮が多く獲った鳥を壱師に分けると言ったが、父が鳥を大して喜ばないと言って断った。家に向かいながらも、壱師はわざと歩みを遅くした。

 既に日は沈み、薄明かりの中壱師は炊煙の上がる我が家に着いた。父はともかく、鴨を持って帰ったのであれば皆に喜ばれるだろう。

 中に入ろうとした途端、後ろから不意にひどく強い力で腕を引っ張られた。父の顔が目の前にあった。

「今日藁を干すから昼には戻れと言っておいたな。なぜ戻らん」抑えてはいるがはっきりとした声で父が言った。

 壱師は父の顔を凝視した。狩に出る前に父が言いつける光景が微かに思い出される。言葉を失った。

「お前はいつまでも古真磐や並倉がいなければ何もできないと思っていたが……」

 父は壱師の提げていた鴨をむしり取り地面に叩きつけた。

「いつまでも鳥を追っていたければ好きなだけ山でも沼でも行け! 帰ってくるな! お前に田は作れん! 山犬にでも食われろ!」、父の声が夕闇に響いた。

 父が怒鳴りながら迫ってくるような気がした壱師は、父の顔が見えなくなるほど後退りした。一歩も家に近付けないと思った。

 父や田や狩などが壱師の頭の中に渾然として浮かんでくる。とにかく家から遠ざかろうと壱師は走り出した。あてはないが、人目を避けようと思いムラを見下ろす山に向かった。壱師が幼い頃から遊びに入っていた山だったが、山犬が出ると言って夜に入ることを戒められていた。

 山仕事に行く者が付けた、道とは言えないほどの跡をたどろうとしたが、草木に覆われた暗い山中では、ゆっくりと足元を見ながらでなければ進めなかった。周囲を見渡すと、人の世界から隔絶されたように感じられ、壱師は漠然とした畏れに包まれた。

 遭遇するまいという気持から、かえって僅かな物音や草木の揺らぎに山犬の影をみてしまう。壱師は闇雲に進み、視界の開ける場所へ急いだ。

 岩場から見下ろすと、田を包んで円を成す川や、その流れの先に広がる葦が闇に包まれている。円内の平地に比べれば、壱師達の住む土地はほとんど荒れ地だった。

 岩場の陰に腰を下ろした。足が張っていて重さを感じる。身を縮めて目を閉じると、木々のざわつきが気にならなかった。壱師は山犬を忘れ、眠った。


 壱師が目を覚ますと、強風で草木が鳴る音に包まれていた。手足が冷えるものの、夜露の湿りをあまり感じない。日差しの強さや木の陰から、既に日が天中を過ぎているのがわかった。一晩中家に帰らなかったことも初めてだったが、真昼に起きたのも初めてだった。何もせずじっと座っていると、強く気がとがめた。

 喉が渇いた。できるだけムラの人に遭わずに済むよう山中を回り込み、斜面を下って川を目指す。

 川原が見える場所まで来ると、人の声が響いている。壱師は繁みの間からそっと川原をうかがった。女が四五人腰を下ろして休んでいる。皆かごを持っているところを見ると、茸や栗などを採りに上流域に向かっているのだろう。壱師は目を凝らし、その中に弥都売の姿を探した。皆若い娘だったが、弥都売がいないとすぐにわかった。日に焼けた瓜が衣を着ているような姿ばかりで、首から足まで弓のように緩やかにしなる線を持つ弥都売とは似ても似つかない。壱師は元の場所に引き返そうと斜面を上がった。

 収穫が済んだ後とはいえ、皆それぞれに仕事を負っていた。兵士として徴発された者には休みなどないのだろう。こうして山の中で明るい内に遊んでいることなど許されることではない、貴族のような身分ではないのだ、などと考えながら壱師は草をつかんでよじ登った。

 岩場に戻り息をついていると、突然壱師の視界に人影が現れた。とっさに伏せ、近付く影を窺った。目の前に現れたのは、かごを提げた弥都売だった。壱師に気付いた弥都売は小さく声を上げ、立ち止まった。立ち上がった壱師につかみかかり顔を確かめると、そのまま抱き付いた。壱師はすぐに弥都売の肩をつかんで引き離そうとしたが、弥都売がさらに強く抱き付いたため、しばらくそのままにしておくしかなかった。

 弥都売が顔を上げると、壱師の衣は胸の辺りが濡れてしまっていた。黨慮を通じて壱師が家に帰っていないことを知り、一緒に山に向かった女達と別れ、以前壱師と分け入ったことのある場所へ捜しに来たのだと弥都売は言った。全く逢わなかった長い月日などなかったかのように、二人は見つめ合った。しかし同時に、決して許されない禁に手をかけているようにも、壱師には感じられた。

「何度も声を出して呼ぶな。人に聞かれたらどうするんだ」壱師は言った。

「誰もこんな所へは来ない。壱……、もう逢いに来てくれないの? 嫌なの?」

「行けるわけがない。そんなことをしたら、俺も弥都売も親父に叩き殺されるぞ」

 壱師は、嫌になったりはしないと言いかけて口をつぐんだ。弥都売も黙り、つかんでいた壱師の袖を離した。

「もう帰らないつもりなの?」

「帰らなければ生きていけないことぐらいわかっている。ただでさえ、並兄の分も働かなければいけないのに……。でも後少しだけ、こうしてムラから離れていたいんだ。弥都売は早くここを離れろ」

 壱師が突き放そうとすると、弥都売は抗った。

碆瀬はせ麻呂の所へなんか行きたくない!」

「お前が男だったら、いい狩人か兵士になっていただろうと黨慮が言っていたよ。その方が離れ離れにもならずに、俺と一緒に狩にも行けただろう。ずっとな。若い頃男に代わって馬に乗った安都佐婆は、提げた矢と同じ数の敵を仕留めたらしいな。弥都売もその血を引いているんだ」

「それは安都佐婆の、そのまた婆のこと」

 壱師は、木々の間から見える田や葦原を眺めながら座り、弥都売もそばに座った。

 流れる雲の大きな陰が、広い田の上を幾つも幾つも過ぎて行くのを見ていた。

「こうして、よそのムラから来た者のように、それか鳥にでもなったかのようにムラを遠目に見ていたんだ。仕事から離れて山の中を歩いていると、わかってくることがあるんだよ。いつも父の後について仕事をしている時には全く気にも留めなかったことにかれるんだ。母は死ぬ前、まだ元気だった頃、畦道でも山の中でも一人で立ち止まって、小さな草花を眺めたり摘んだりしていた。皆で動いている時に、一人後れた母によく待たされたものだ。どうして度々そんなことをするのかわからなかった」

「一緒にお花摘みに行ったことあったよ。好きだったものね」

「やっと今、母の見ていたものがわかるような気がする。思わず立ち止まってしまうような草も花もあるんだよ。今まで気付かなかっただけなんだ。母の実家は郡ができる前からの土着の人達で、母は草木の名をよく知っていた。だから俺に花の名を付けたんだ。今までは花の名なんて嫌だと思っていたのに……」

 母が野山に何を見て楽しんだのか、一つ一つを壱師が確かめる術はもうない。小さな草花の、人為に依らず自ら整う驚くべき形やその美しさから、母が見ていたものはこうであったろうと想像するのだった。

 壱師は強いて弥都売を立たせ、もう一度帰るように促した。清らかな弥都売の顔が憂いで曇っていた。弥都売は何度も振り返りながらムラへ向かって降りていった。

 日は傾き始めていた。ムラの様子、特に壱師の家付近をうかがうことのできる場所を探して、身を隠しながら少しずつ川原に向かって降りていく。たった一晩逃げていただけで、知らないムラにでも入って行くかのようだった。

 もし、家に戻ろうとして父から拒絶されたら、このまま衰えて本当に山犬の餌になるかもしれない、との思いが壱師の脳裏をよぎった。空腹と喉の渇きからその思いは一層強くなり、壱師はただ水に誘われるがままに川原へ向かった。

 壱師は気が済むまで川の水を飲むと、すぐに身を隠すこともせずその場に腰を下ろした。緩やかに流れる水は淵では遅くなり、流れの狭まる所では速く流れて渦を作る。その絶え間ない繰り返しを見ているだけで心が満たされ、我を忘れて眺めていた。


 壱師がただ流れだけを見て過ごす内に辺りは薄暗くなり、光を千々ちぢに映す黒い流れが川原の中に横たわっていた。壱師は顔を上げ、川原に沿って歩き出した。川原は既に暗がりとなった木立に囲まれていた。

 程なく、川幅が広がり流れが浅くなった。ムラの領域に入っていた。

 騎馬が三騎、突然川原に入ってきた。川を渡ろうとしていたが、馬上の男達は壱師に気付くと馬を止めた。

「おぬしはこのムラの者か?」頭巾ときんを着け弓矢を携えた男が言った。

 男の顔は陰になりよく見えなかった。壱師は身を硬くし、そうだと答えた。

「漁をする者には見えないが、何をしている? 名を名乗れ」男は言った。

 壱師は即座に答えることができなかった。馬上の男の身に付けているものが判別できるようになるにつれ、逃げられるような相手ではないと思った。

胡毛井部こげいべの真磐の……」

「胡毛井部真磐の息子か。このムラの者だな。何をしている? こんな所で」

「仕掛を沈める場所の下見に……」壱師は早くこの場を離れようと出まかせを言った。

「真磐の息子ならば、魚獲りをして遊んではいられないはずではないのか? おぬしの父は寸暇を惜しんで荒地をひらいているらしいな。郡家にも聞こえのあるほどだ」男は辺りによく通る声で言った。

「おぬしの父はやっこだとばかり思っていた。あの働きようではな」と言って男は笑った。奴婢でもああまではやらん、と言って供の男も笑った。

 寒風が吹きつけ壱師の顔は強張った。男の顔を凝視し続け、薄明かりの中でも少しずつ見えるようになってきた。その顔には微かに見覚えがあった。

「おぬしは真磐の何番目の息子だ? 確か息子が一人防人として出たまま帰らず、また一人戻ってこないらしいな。まだ戻らないのか?」

「並兄はきっと帰ってくる。古真兄も……いつかは帰る」うつむきながら壱師は言った。

「古真磐は既に除籍だ。死んだも同じこと。並倉は、逃亡を疑う者もいるのだ。他国では公地を捨てて逃げる者がいくらでもいるからな。もし逃亡した者が捕まれば、杖で叩きのめすぐらいでは済まされん。そう覚えておけ」男は目の前に逃亡者がいるかのように言った。

「逃げたのではなく、歌垣うたがきに行こうとして、道を失ったまま帰れないのではないのか」供の男が笑いながら言った。

 壱師は答えず、顔も上げない。

「何だ、おのれの態度は! 物の言い方にしても、身分をわきまえろ!」供の男が怒鳴った。

 壱師の手前の男が手を上げ、供の男を制止して言った。

「おぬしまで姿をくらましたりはしないだろう。三番目のの子はおぬしか?」

 壱師は頷いた。

「騎射ができるらしいな。黨慮から聞いた。しかもヤツより上手うわてだそうな」

 壱師は黨慮と聞いて、目の前の男が誰なのかを思い出した。郡の役人と共にムラをめぐる姿を何度か見たことのある舎人であり、弥都売の夫になる人物だと黨慮から教えられた男、碆瀬麻呂だった。

 壱師は顔を上げ、食い入るように碆瀬麻呂の顔を見つめた。眉つきも鼻筋も真っ直ぐ通り、尖った頬骨や盛り上がった頬の肉でゴツゴツした所がなく、頬・顎を包むかたちが緩やかだった。母親が都の家の出だと聞いていたが、このムラの男の中では見ることのない顔立ちをしている。いつか寺の中で垣間見た仏の顔のようだった。それは、笑いも怒りもない顔付きでありながら、結んだ口のまま何かを語るように見えた。

「馬に乗っていたのはずっと前のことだ。黨慮の家で馬を売ってしまってからはもう乗っていない。それに、騎射がよくできるのは……黨慮の家の者だ」壱師は答えたが、弥都売の名を口に出すことができなかった。

 わきまえているではないかと言って、碆瀬麻呂は顔を崩すこともなく静かに笑った。

「郡家の者でも、狩や戦に行ったことのない者がいるのだ。型通りの稽古はしていてもな。我らに手を貸してくれ。犬や鹿の代わりをしろと言うのではない。騎馬での戦い方を覚えるには、騎射に優れた者を相手に戦の如くやり合うことが必要なのだ。案ずることはない。鏃の付いた矢は使わん」

 碆瀬麻呂は提げていた矢を取って壱師に見せた。矢の先には鏃ではない丸い頭が付いている。碆瀬麻呂の指図に応じて供の男が馬を降りた。壱師が綱を受け取りその鹿毛かげの馬に触れると、馬に親しんだ頃が懐かしく思い出された。

 黨慮や弥都売の真似をしているだけで、面白いように騎射が身に付いていった。農耕馬でありながら、黨慮らによって乗る者に合わせることをよく仕込まれており、手を放して乗っていても落ちる怖さを感じることがなかった。どんな時にも壱師を優しく背に乗せてくれる。乗らずに触れているだけでも楽しく、辛いことを忘れることができた。

「当てるのは相手の首から下。馬には当てるな」と言って供の男が弓と胡籙ころくを渡した。

 壱師はあぶみに足をかけ馬の背に乗った。まともな鞍を使ったことがない壱師にとって、立派な作りの鞍は驚くほど座りがよく、腰を浮かせても安定して乗ることができる。これならずっと馬に乗り続けられる上に、騎射もしやすい。碆瀬麻呂の後に従って下流へ進み、葦原に出た。

 葦は月明りに照らされていたが、地と沼の境が見えなかった。壱師はぬかるみを避けられるのか気がかりだったが、馬の背に乗り揺られていると、馬の足に任せられるような気がした。

「この辺りなら邪魔が入ることもないだろう。矢が尽きるまでやる。待っていろ。鏑矢かぶらやを放ったらそれが合図だ」と言って碆瀬麻呂は壱師から離れた。

 遠ざかる碆瀬麻呂の馬が闇に紛れるやいなや、壱師は胡籙から矢を抜き馬を叩いて走らせた。鏑矢の大きな音が間近に聞こえたのだ。

 二騎共、葦に隠れた起伏を避けながら走り、互いに相手を左手に見ながら様子を窺っていた。壱師にとっては狩場としてよく知る場所だったが、馬上から、しかも夜に見る景色は普段と異なり、大まかな方向しかわからなかった。

 小高くなった斜面に近付き、葦原が切れた所で壱師が矢を放った。その瞬間、脇に矢を受けた。当てることに気を取られていると、相手の矢が確実に己を捉えることに壱師は戦慄を覚えた。これは稽古なのだという心積もりが薄れつつあった。

 再度両騎馬共に葦の中へと駆け込んだ時だった。矢が鋭い音を立てて壱師の視界を掠めた。追いつつある騎馬とは全く別の方向からのものだった。鋭利な鏃が頭の中で光った。

 壱師と碆瀬麻呂達が遭遇した時から不穏な重たい空気が漂ってはいた。壱師は馬の背に揺られている内に、その心地悪さを忘れかけた所だった。

 身を屈め、隠れた射手から離れようと馬を急かした。馬は暴れるような力強さで駆け、左に折れ右に折れては葦原を突き進み、壱師は振り落とされないように夢中でしがみついた。

 鏃で射かけられ、壱師は否応無しに戦場いくさばを駆け回ることになった。その因縁として考えられることは一つしかなかった。

 それぞれ互いの位置がわからずにいるのか、常に囲まれているのか、壱師にはわからない。馬を降り手綱を引いてそろそろと歩く。逃げ出すくらいなら馬と一緒にいる方がいい。たった一度だけでも、相手を恐れさせるほどの矢を射ることができるのか試したい、そんな思いが壱師を衝き動かした。

 不意に前方の葦が揺れ、弓を構えた人影が現れた。壱師が身を低くして隠れようとすると、小さく壱師を呼ぶ声がする。駆け寄ってきたのは弥都売だった。

「けがは? 賊に間違われたの?」弥都売が壱師の全身を見回しながら言った。

「稽古のはずが……。どうしてこんな所へ来た。すぐに帰れ!」

「壱師が気になって外へ出たら、いつもは見ない騎馬を見たから心配になって……。追ってくるのは役人なの? 止めてくる! 壱師を狙っていた騎馬を一つ、もう仕留めた」

「騎馬を討ったのか!?」

 壱師は弥都売の腕をつかんで引き止め、弥都売とその手に持つ弓を見比べた。黨慮の言葉が頭に浮かんだ。どんなに駆け回っても碆瀬麻呂一騎のみで、もう一騎いるはずの騎馬を見なかった。

「研いでいない鏃。でも安都佐婆の矢だから毒が塗ってある。馬がしびれているだけ」弥都売は矢を見せながら言った。

「その弓と矢をよこせ。馬上は貊弓でないとやりにくい。鏃は使わない。付け替える」

 弥都売は何度帰れと言われても抗った。壱師の相手が碆瀬麻呂だと気付いていないのだ。壱師は急いだ。すぐにでも碆瀬麻呂の馬をこの場から引き離さなければならなかった。

「すぐにここを離れろ! 矢を射かけられるぞ!」壱師は馬に上がりながら言った。

「壱師も! 討たれるくらいなら逃げて!」

 討たれはしない。相手も殺さない(弥都売の夫になる男だからな)。壱師は呟き、葦から抜け出して突進した。

 葦から離れて走れば碆瀬麻呂は追ってくるはずだ。川に沿って馬を走らせた。冷たい風を受け、壱師は顔を下げた。馬はまるで川を下る船のように滑らかで早い。顔を横に向ければ、真東から北に寄った地の端に、微かに朱を帯びた月輪が浮かんでいる。月はどこまでも駆ける馬についてくる。馬体の躍動が股間を経て伝わり、壱師は喜びを込め手綱を力一杯握った。できることならば、家も追手も恋も忘れ、果てしなく走り去ってしまいたかった。

 川が大きく曲がった所で壱師は直進を止め、馬を返した。鹿毛の首をなでながら、壱師は目指す所を決めた。鍬も田も捨てない。そしていつかは馬を買うのだ。きっとどこかに咲いている可憐な花に遇うこともあるだろう。

 男の頭巾を射抜きさえすれば十分な威嚇になる。もうあえて弓馬を揃えてやって来ることはないはずだ。貊弓と一本の矢を手に、壱師はもと来た方へ駆け出した。もし、先に相手方の矢が壱師の胸に突き刺されば、本当に山犬の餌になるかもしれない。それでも山犬への恐れより、むしろその存在の大きさを思うのだった。

(山のカミ、オオカミ! この一矢に力をくれ!)

 突進し迫る壱師を認めて、碆瀬麻呂が弓を構えた。左手へ回ろうとする碆瀬麻呂の正面へ突っ込み、壱師は前方に向けて弓を構える。その目は頭巾を捉えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る