瞬篇小説 「五月廿九日」

@dakusui

その日は快晴だった。

 地中海の爽やかな風はマルマラ海を抜け海峡を渡り、その街とその城下に穏やかに吹いていた。空は、人々の営みとは関わりなく成層圏まで突き抜けるように輝いていた。人々は不安げに顔を見合わせ、足早に街路を通り過ぎていった。教会の鐘は世の終わりを告げる挽歌のように響いた。街は敵の軍隊に包囲され落城を目前にしていた。城壁に迫る砲声に人々は怯えていた。

 兵士は勇敢で司令官は有能だったが、衆寡敵せず補給を絶たれた街は今や刀折れ矢尽きようとしていた。最後の決戦を挑むべく司令官は市民と軍隊を前にして説教壇に登った。そして始まった彼の演説は全てが嘘だったが、全てが真実でもあった。


「ローマ市民諸君!」


 そこに居たのは、一人残らず希臘ギリシャ人だったが、それにも関わらず彼らは一人残らず自らを「ローマ人」と呼んでいた。


「諸君等は知っていよう!その昔、神が吾等を罰するために西方の蛮族バルバロイ、フランクびとを用いたことを!」


 美しい演説は流れるような希臘ギリシャ語だった。いにしえのローマ人が語った言葉はラテン語で彼が語る言葉は希臘語だったが、それでも彼は自らがローマ人であると信じていたし、その場にある一人残らず自らがローマ人であることを疑うものはいなかった。スキピオやカエサルの時代から、「ローマ人」とは「ローマ市民権を持つもの」という意味だったし、アントニヌス・カラカラの治世を経て今に至るまで彼らは疑いもなく「ローマ市民権」を受け継いできたのだ。


「しかし諸君!キリストの帝国は一つだ!われわれの帝国はひととき罰されることはあっても主の再臨の日まで滅びることはない!」


 城下に迫るトルコ人は城内の「ローマ人」たちと同じくらい勇敢で、数においては「ローマ人」たちの数十倍におよんだが、それは問題ではなかった。「天上におけるキリストの帝国の地上における模造」であるところのこの街、この帝国がどれほどの数の軍隊であろうと異教徒の泥靴に踏みにじられるなどありえない。神は、彼らを一時的に罰することはあっても見捨てたまうことはないはずなのだ。


「思い起こして欲しい、我々のこの都、聖なるコンスタンティノスが築いた、我らの聖母マリアの都市、この地上の宝石、この諸民族が望む栄光の都市が自由も文明も知らぬ夷蛮フランク族によって陵辱されたあの日々のことを!」


 十字軍の騎士たちが下劣で無教養な田舎者どもであったのは事実だが、まさにその略奪によって今や街の大半が廃墟と化し、大方おおかたの財宝は失われていた。それでも彼らにとっては今も変わらず、ここは「栄光の都市」なのだった。


「諸君等は知っていよう!その後、聖母マリアの取りなしにより、神は流浪の我らに憐れみを垂れたまい、新たなるエルサレムであるこの街を我々に返されて今あることを!神の恩寵により、我々の軍勢を率いたのは朕の祖父の高祖父であったことを!神はすでに我らの罪をお許しになっている!」


 彼の高貴な祖先が、この街を十字軍から解放したのは事実だが、その高貴な血筋に連なる後継者たちは罪深い裏切りと淀むような憎悪の中に生きる咎人たちであった。果たして神は彼らの罪までお許しであろうか?


「私は諸君等に問う!我らが地上から失われれば、一体だれが人類と文明世界を神の名の下に統一する崇高なる事業を成し遂げるのか?我らが敗れるかもしれないなどと考えるものは、単に敗北主義者であるだけではない。敢えて言おう、彼らは審判の日に地獄の火で灼かれるべき異端、背教者たちであると!」


 歴史がもはや「文明世界の統一」や「地中海帝国」を求めていないのは明らかだった。それは二百年このかた明らかな趨勢だったし、司令官の怜悧な頭脳はそのことを完璧に理解していた。それでも彼は、彼の前任者たちから引き継いだ空疎な任務に対して忠実であった。


「野蛮な異教徒ペルシャ人たちは今やわれらの城下にせまり、降伏を要求している。」


 城下に迫るトルコ人たちを古式ゆかしく「ペルシャ人」と呼ぶと、演説はトーンを上げていった。


「しかし私は諸君の前に再び誓う!」

「この私、コンスタンティノス・パライオロゴス・ドラガゼスは死の瞬間まで106人の諸皇帝の唯一の正当な後継者であり」


 この時代、西方には「ドイツ人とローマ人の皇帝」を名乗るものがあり、多くの国々を支配し絶大な栄華と権勢を誇っていたがそんなことは問題ではなかった。 彼と彼の前任者の諸皇帝をたどれば、彼こそが、そして彼だけがアウグストゥスとコンスタンティヌスに連なり「ローマ皇帝」の名を受け継ぎえる唯一の正統なる君主であることは余りにも明白だったからだ。


「全地上における神の代理人であり」


 ローマではその地の総主教が「教皇」として自分こそを神の代理人と称えていたが、それは問題ではなかった。 司令官の前任者の一人がそのローマ教皇と全キリスト教世界の庇護者であったのは千載の昔のことであるにも関わらず、その記憶はそれでも余りにも鮮明だったのだ。


「神に選ばれたローマ市民の名において全地上の支配者でありつづけることを!」


 彼の帝国は今やこの街を残すのみだったが、それは問題ではなかった。 どれほどの絶望的な苦難も、彼と彼の帝国に神が課した義務を思えばひとときの試練でしかないのだ。


「死は恐れるに足りない!戦場に屍を曝すのは洗練された民族の洗練の極みである!」


 皇帝司令官は叫んだ。


こう!主が我らに与えた試練を乗り越えるために!」

こう!我らの信仰と勇気を主の前にあかしするために!」


 群衆は応える。


「聖なるかな!聖なるかな!聖なるかな!万軍の神!

 聖なるかな!聖なるかな!聖なるかな!勝者キリスト!

 聖なるかな!聖なるかな!聖なるかな!我等の皇帝、パライオロゴス家のコンスタンティノス!絶望するのは早すぎる!」


 全ては手遅れであり、落城は誰の目にも時間の問題だったがそれは問題ではなかった。


 彼の守ろうとしたその都の名はコンスタンティノポリス。人の曰く「第二のローマ」。諸都市の都市。都市の女王。世界の富の三分の二を集める都市。 海峡所在の全能の都市。新たなるローマ。新たなるエルサレム。聖母マリアに捧げられた神の都市。諸々もろもろの民族と全普遍世界とに名高い都市。地上の宝石。永遠の都。


 この奇妙なは法と彼らの自称とに従うならば「ローマ市民ならびに元老院S.P.Q.R.」の名を以て呼ばれるべきであろう。キリスト教化された、ギリシャ人による、皇帝を戴く「ローマ人の共和国」である。

 すなわち、ボスポラス海峡のヨーロッパ側に残されたこの一都市こそが、かつてイタリア半島の一都市におこり全地中海世界を支配した大「ローマ帝国」の最期の姿なのであった。彼らの主観の中ではそれは「の日まで続き、その日までに人類と文明世界とをキリストの名の下に統一することを神から任ぜられた地上最後の帝国」だった。


 このちっぽけなが滅亡したこの日、人類が創造した最も美しいこの都市を血に沈め中世が終わった。


「1453年、コンスタンチノープル(現・イスタンブール)が陥落し、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)が滅亡した」


 我々の世界史の教科書はこの事件をただ一行、静かにこう記すのみである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

瞬篇小説 「五月廿九日」 @dakusui

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ