第n+2話 手放したくないものがある



  『凪の港町 スロウペースな夢を』



 思いついた見出しをひとまず打ち込んでみて、少ししてからやっぱり違うなと感じて取り消す。この繰り返しも工程の一つだと考えて、焦らずにやっていくのが良いコラムを書くためのコツだ。


 滞在しているホテルの三階フロアに位置する喫茶店。窓辺の席から一望できるのは絨毯のように広がるマリンブルー。現地で必要な取材を終えてから、私は多くの時間をここで費やしている。店主が私とそう変わらない年齢の女性だったこともあって、この数日で随分と居心地が良くなってしまった。


 明後日にはこの町を発つつもりで組んでいた予定を見直す理由は、他にもある。


「観光案内所で弾き語りをする青年、か」


 取材中、何度か噂で聞いていた人物と対面したのは昨日のこと。近年密かなブームとなっている湾岸地域の町興しについて調べるつもりが、途中からはその青年のほうに興味が傾いてしまっていた。


 弾き語り、というのがまず私にとってのキーワードだ。放ってはおけない。


 何とか都合をつけ、ようやく噂の青年との接触を果たしたわけだったけれど――



  ◇ ◇



橙崎とうさきさんは夢を叶えた人ですか」


 青年の名前は茅ヶ崎ちがさき正志郎せいしろうといった。


 かっこいい字面が表す通り、彼自身もまた清々しいくらいの好漢だ。


「夢かぁ……そういえばあまり深く考えたことはなかったわ」

「すみません、変なことを訊いてしまって」

「いいのよ。交換条件を持ち出したのは私のほうだしね」


 午後四時。定時の弾き語りライブを終えた正志郎くんに私は取材を申し込んだ。その対価として彼が望んだのは、逆に私に幾つかの質問をする機会だった。


 正志郎くんは生まれも育ちもこの町で、都心部に行ったのも修学旅行で一回きりだという。そのため都会への憧れがあるのだと本人自ら語ってくれていた。だから私は彼の質問がそれに関することだと予想していたのだけれど、見事に外してしまった。


「どうしてそれを訊いたのか教えてもらってもいい?」

「俺、高校を卒業したら東京でバンドマンになりたいんです」

「あら」


 思わず気の抜けた声を出してしまう。


 正志郎くんは慣れているのか、自嘲的に頬を緩めるだけだった。


「無謀なのは承知の上です。でも実現のためにお金は貯めているし、技術だってこうして磨いています」


 後者に関して、その努力の成果は一時間ほど前にはっきりと示されていた。私には明確に彼の才能を見い出すことはできないけれど、夢を追うための覚悟は間違いなく宿っているとわかった。


 彼の進もうとする道に障害があるとすれば、それは前者のほうだ。


「うち、片親なんです。母は一人で働いて俺を高校に通わせてくれた。バイトで稼いだお金を渡しても、家計に含めず茶封筒に取っておかれていて」

「いいお母様ね」

「はい、俺の誇りです。母の期待に応えるためにも、俺は頑張らなくちゃならない」


 でも、と正志郎くんは言う。


「思うんです。このまま上京して、夢を叶えたとして、それで俺は後悔しないのかなって」


 置かれたギターケースに視線を落とす青年。ところどころに傷の入ったアコースティックギターには、年季ばかりではなく彼の苦悩も刻まれているのかもしれない。


 彼にとって夢は既に『叶えるもの』になっているんだろう。彼の心配事は夢が叶うか叶わないかじゃなく、夢を叶えた先にある、本当に得たいものについて。


「後悔は、何をしても起こり得るものよ。未来のことは誰にもわからないのだから」


 責任ある大人として、私が伝えられることは何か。


 それは夢を見る青年の瞳を曇らせる言葉であってはいけない。夢へ辿り着くまでの足取りを軽くする言葉がいい。それでいて持ち運べるサイズの希望になるなら、もっといい。


「さっきの質問。私は、きっと夢を叶えたんだと思う。それは貴方から見ればとてもちっぽけなもので、人によっては当たり前みたいに持っているものだったけれど、私にとっては何よりも叶えたい未来だった。その先のことなんて思いもよらないくらいに」


 真剣な表情で私の話を聞いてくれる青年。おかげで安心して続けられる。


「夢を叶えるとね、世界が広がるの。今まで見ていたのはほんの一部分だったんだとわかって、したいことがどんどん増えていく。それが意外なところに繋がって、思いがけない救いが現れることだってある」

「救い?」

「ええ、救い」


 未来は誰にもわからない。だから救いがある。


 かつて私は世界を恨んでいた。自分を産んでくれた母親のぬくもりを知らず、ずっと自分の居場所がわからなかった。


 こんな日々が続くならと、生まれてきたことさえ悔やみそうになった。心の隙に巣食うようにして罹った病が、この身体から一縷の未来すらも奪おうとした。


 けれど、それでも今、私はこうして生きている。


 家族のぬくもりと居場所を、大好きなあの人が与えてくれたから。


「心配しなくても大丈夫。夢を叶えるってことは、後悔を帳消しにすることでもあるんですから」



  ◆ ◆



 当初の予定を二泊分延長して、ようやくコラムが出来上がった。久々の紀行ライターとしての雑誌に載る仕事だったのと、予想以上の快適な環境に乗せられたのとでなかなか長大な記事になってしまった。にもかかわらず担当編集さんからは一発オーケーを貰えたので、うきうきの気分は翌朝になっても続いた。


 こうして頑張れたのも、家を留守にすることを許してくれた遥斗はるとと優月のおかげね。お土産はちょっと高級なやつにしようかしら――そんな風に考えながら土産屋の中を巡っていると、聞き慣れた声に呼び掛けられた。


千世ちせさん、今朝でお帰りですか?」


 喫茶店の店主さん。普段は溌溂とした雰囲気の明るい女性だけれど、このときは残念そうに眉尻を下げていた。


「ええ、そうなんです。記事がやっと完成しまして」

「それはお疲れさまでした。あっ、ご家族にお土産でしたらこの佃煮なんておすすめですよ」


 店主さんの的確な意見を聞きながらひと通りの買い物を済ませる。最後の最後までお世話をしてくれる彼女には感謝してもしきれない。


「寂しくなります」


 チェックアウトの後、店主さんは本当に名残惜しそうに言った。


「また伺いますよ」


 友愛の念を込めて名刺を渡す。思えばもっと早くに渡すべきだったかもしれない。


 店主さんも機会を見計らっていたようで、懐からシンプルな名刺を取り出して渡してきた。


「……ふふっ」


 図らずも笑みがこぼれてしまったのは、彼女の姓に見覚えがあったからだ。


「どうかされましたか?」

「いいえ、なんでもありません。……息子さんと貴女の夢が叶うのを、私も願っています」

「? それって――」

「また会いましょう、茅ヶ崎さん」


 何か訊かれるよりも先に別れを告げて、私はフロントを通り抜ける。伝えたいことを口にするまではいいけれど、その後についつい照れてしまう。昔はそんなことなかったのに。


 これはきっと誰かさんの癖が移ってしまったんだ。そうに違いない。だって彼は昔から、言ったそばから恥ずかしがる不器用さんだったもの。


 ああ、本当に。


 思えば思うほど愛しくなる家族がいて、私は幸せ者だ。



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それでも世界は続くから 吉野諦一 @teiiti

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