それでも世界は続くから
吉野諦一
第n+1話 ひねくれ作曲家と女子高生
妻や娘との別居を始めてから一か月が経った。
いま俺は自宅から三駅隣にあるマンションの一室を借りて住んでいる。以前から仕事場として使っている部屋だ。六畳半のスペースだが、独りで生活するのには不便しない俺の城だった。
分厚い遮光カーテンで覆った窓の向こうから電車の通り過ぎる音が聞こえてくる。不規則なようで規則的な、がたたん、がたたたん、というメロディが鼓膜をくすぐった。それがまた程よい刺激になって、想像上の五線譜に揺らぎをもたらしてくれる。
作曲を始めて二十余年。気づけば人生の半分以上は音楽を作る人間として生きてきた。
数年前まで率いていたバンドを解散させてから、俺はその創作センスを所属していた事務所に買われ、お抱えの作曲家として収入を得ている。その現状には満足しているし、デビュー当時から世話ばかりかけてきた事務所への恩返しをしたいという思いもあった。
けれど、それだけでは駄目なのだと妻は言う。
音楽と同じくらいの時間を共に過ごしてきた彼女の言葉は、いつだって俺を誤った道から引き戻してくれた。その実績を鑑みれば、今回も正しいのは彼女のほうなのだろう。
妻の意見を総括すると、どうやら俺には決定的に欠けているものがあるらしい。
だがそれを自力で悟るには一か月程度ではまったく足りないのだと、薄々感づき始めていた。
◆ ◆
昼飯のカップ麺を食べ終え、これから作業再開というところでインターホンが鳴った。
「遊びに来ましたよ。引きこもりのおじさん」
モニター越しに聞こえてきた声に、俺は作業机の上を片付けてから玄関へと向かう。
扉を開けると、オフホワイトのチュニックワンピースを着た少女が立っていた。彼女は十年来の知人の娘で、ビー玉みたいに透き通った大きな瞳が特徴的だった。
「今日もよろしくお願いします」
礼儀正しくお辞儀をしてから、俺の脇をすり抜けるようにして家の中に上がり込んでくる。あまりにも自然な動きで、他人から見ればここが彼女の家であると錯覚しただろう。
だがそちらのほうがまだ良心的なほうで、別の見方をすれば中年の男が部屋に未成年の少女を連れ込むというやや犯罪的な場面ともとれる。若干の危惧を覚えつつも玄関の戸を閉めた。
作業部屋に戻ると、予想通り少女は俺がさっきまで座っていたクッション付きのアームチェアにどっぷりと腰掛けていた。
「ふむ、今の今までちゃんと仕事をしていたみたいですね。まだあったかい」
「お前は編集部の人か何かか」
「似たようなものじゃないですか。むしろ、私みたいな可愛い女子高生に進捗を管理されたほうが、おじさん的には嬉しいんじゃないですか?」
不敵に笑ってみせる少女。
「お父さんが言ってましたよ。おじさんは仕事のことになると周りを意図的に遮断するから、時々外から刺激を与えてやらないといけないって」
「余計なお世話だな」
「そうです。余計なお世話をしに来たのです。私は」
にこにこしている少女に、俺はたまらずため息を吐く。
子が子なら、父親も父親だ。放っておくという選択肢がないのだろうか。
「あのな。いつも言ってることだが、俺は独りで居ないと曲が作れないんだ。そのためだけにこの部屋を借りているし、妻にも承諾してもらっている。お前に世話を焼かれるようなことは、何もない」
「足の踏み場もない部屋で言われても説得力ありませんけれど」
そのほうが効率が良いんだよ、と言おうとしたがやめる。
以前にこのやりとりをしたときは半日かけての大掃除が始まった覚えがあった。
「まぁ、今日は掃除が目的ではないのです」
くるりとアームチェアを反転させて、少女はこちらに向き直る。
「刺激的な午後に興味はありませんか?」
◆ ◆
昼下がりに、川沿いの道を歩く。近年の都市開発を受けて新しく舗装された沿道は、家族連れの往来で賑わっている。その人たちは皆一様に充実した表情をしていた。
「あっちの緑地公園でお祭りをやっているみたいなんですよ。ほら」
少女が指をさす方角に、大きなバルーンが二つ三つ離れて浮かんでいる。垂れ幕にはこの地域の呼称を冠したイベントの名前が綴られていた。
「あそこに連れていってもらいたいってわけか」
「違いますよ。私がおじさんを連れていきたいのです」
「素直じゃないのな」
こういうところが面倒なのだ。思春期の女子ってやつは。
俺の娘もやがてはこうなるのだろうか。今はまだ小学校低学年だが、そのうち「パパうざい」とか言ってきたりするのかもしれない。それは想像しただけで死ねる。
そう思えば、この少女と父親の関係はやや特異だと言える。十六歳になっても父親を露骨に避けることなく睦まじい仲でいられるというのは、一般的に見てやはり少し変わっていた。
そのあたりの事情に納得できる由縁が思い当たらないわけではない。
けれど、俺にそれを信じていい権利があるとは思えなかった。
五分ほど歩いて、緑地公園に辿り着く。入り口には横断幕が掲げられており、この地域の活力が結集したような漲る熱気を感じる。公園の中央にある平原地帯を囲むようにして、子ども向けの様々な出店が並んでいた。
剣玉や独楽といった昔ながらの遊具から、割れないシャボン玉などの科学的な体験形式のものまでが取り揃えられている。種類はそれほど多くないが、全て遊び尽くせば大抵の子どもは満足するだろう。ここに来るまでにすれ違った子どもたちの笑顔を見ているから、この推測には説得力があった。
「じゃあ、私はここで待ってますから」
隣の少女が予想外なことを言った。
「なに言ってるんだ」
「おじさんを連れてくる目的は達しましたからね。あとはご自由にどうぞ」
「いやちょっと待てよ」
「だから待ってますって」
「そうじゃなくて」
子ども向けの遊戯に今から興じてこいということなのか。四十を過ぎたこの俺に。
「おじさん、こういうの好きでしょ」
どうやら本気で言っているらしい。揺らぐことのない瞳がその証左だった。
彼女の眼は特別だ。あのいけ好かない父親とよく似て、世界の本質を決して見逃すことがないよう、いつも爛々と輝いている。
その光が苦手だった。俺の救えなかったものを否が応にも思い出させる、その光が。
「わかった、行ってくる」
俺は半ば自棄になって平原へ踏み出す。
だがそれだけでは済まさない。少女の細い手首を掴んで、引き寄せた。
「お前も一緒に来てくれよ。おじさん一人じゃあ不審者扱いだ」
おどけた口調で誘う。二十代の頃は何とも感じていなかったが、時が経つと気恥ずかしさが勝ってしまうようになっていた。
いつの間にか。自分でも知らないうちに、人は変わっていく。
「しょうがないですね。ほんと子どもなんですから、おじさんは」
その眼に光を湛えて。
少女――橙崎優月は笑った。
◆ ◆
その後、三時間ものあいだ俺と
こういう経験を一般的には童心に返ったと言うのだろう。だが俺は自覚する通り、元から歳ばかり食っただけの子どもだ。最初からどこにも行っていないのに、返るというのもおかしな表現だ。
自覚――そう、自覚だ。
俺は知らないうちに、自分は大人だと過信していた。実際、社会的にはそう見られて当然の年齢と立場ではあるのだが、そういった建前にこそ引きずられていたようにも思う。子どもが背伸びをして、その状態での背丈が本来の身長であるかのように意地を張る――妻はその姿勢をそろそろ改めるべきだ、と促してくれていた。
どんなに繕ったって、俺を構成する要素から子どもっぽさは取り除けない。ならどうすれば、俺は大人として欠けている自覚を正しく得ることができるのだろう。
そんなことを考えながら仕事場に戻ると、マンションの入り口前に見知った女が立っていた。
「やっと帰ってきましたね」
「
しばらく呼ぶ機会のなかった名前だ。また数年前までは頻繁に呼んでいた名前でもある。
久しぶりに会った彼女は以前よりも伸びた髪を肩のあたりで束ねていた。気の強そうな顔立ちに紺色のパンツスーツがよく似合っている。
「どこ行ってたんですか。もう少しで警察に通報するところでしたよ」
「極端すぎるだろ」
「そのくらいはします。当たり前でしょう、大事な姪っ子なんですから」
肩をすくめながら、沙智は優月のほうを向く。
「優月ちゃん、おじさんと出掛けるときはあたしに連絡を頂戴」
「だけど私、もう十六だよ。心配いらないよ」
「わかってるわ。あなたは充分しっかりしてる。それでも不安になってしまうのよ、ごめんね」
沙智の伸ばした手が優月の柔らかい髪を撫でる。心地よさそうに受け入れる優月。
十六歳といえば、優月の両親や沙智は既に自立している年齢だ。『孤児院』と呼ばれる私営施設で暮らしていた彼らには、そうせざるを得ない事情があった。だからこそ、優月には甘く接してしまうのかもしれない。
一刻も早く大人になる必要のあった彼らは、優月の成長に何を見るだろう。
焦らなくていい、ゆっくりでもいいから、健やかに育っていってほしいと願うのが親の情だ。それとは別の願い、あるいは祈りと言うべきものが優月には託されていた。
それは、世界を正しく愛する、ということ。
かつて現世の美しさと儚さを唄った、あの少女の生まれ変わりとして。
「それじゃああたしはこの子を送ってきます。おじさんはどうされますか?」
「これから作業を再開するよ。滞っている仕事もあることだしな。……あと、お前までおじさん呼ばわりはやめろ」
「それは失敬。ではナガサキさん、今日は優月ちゃんのためにありがとうございました」
頭を下げる沙智。少し遅れて、優月も小さく会釈をした。
「また会いに来ますね、おじさん」
「余計な世話は勘弁してくれよ」
「では次はお菓子でも持っていきますね。私の作ったクッキーは美味しいって評判なのです」
そう言い残して二人は去っていく。通りの角を曲がったのを見届けた後、俺は軽く伸びをした。
日が沈むまでにはまだ時間がある。このまま作業に戻るのもいいが、身体を動かした疲れにかまけて休憩するという選択も悪くない。確か冷蔵庫には貰い物の缶ビールが残っていたはず――
いや、そんなことは後回しでいい。
それよりも先に話したい相手の顔が、はっきりと思い浮かんでいるじゃないか。
今日の出来事を家族と共有したいというささやかな望みが、俺にはとても大切なことのように感じられた。
すぐさま携帯を取り出して、逸る気持ちを抑えて妻の番号に電話をかける。するとコールが三回鳴らないうちに反応があった。
「もしもし。……今晩の飯、家で食べてもいいか?」
いつまでも俺が大人になりきれない子どもなのだとすれば、帰るべき場所なんて一つしかない。
そうでなければ、おそらくは何も始まらないのだ。
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