山羊男誕生のひみつ

@isako

山羊男誕生のひみつ

 母が禁術を使用し、彼女の傷んだ子宮を山羊のものと交換したため、生まれてきた俺の頭は山羊そのものである。山羊男誕生のひみつというのはこれだ。


 俺が生まれてからというもの、母はもうまったく世間から疎外されることになったわけで、かつては国でも一・二を争う魔女だった彼女も、すっかり落ちぶれてしまった。


 最期は森の奥に住まう妖怪の見せる幻にかどわかされ、昔の男に抱かれながら泥沼の水を肺いっぱいに満たして死んでいった。そのときおれは15だった。15という数字は魔術的に良いものだとされている。運命を人間の理で図るものが数であり、数そのものが魔術なのだ。


 俺は日々を、麦畑の管理と、読書と、そして悪魔たちとの契約履行に費やしている。


 俺は半人半獣の怪人であり、そうした存在であるところから、しばしば悪魔たちからの干渉を受けた。いまでもいくつかの契約に縛られている。生きていくために、悪魔と契約をする必要があったのだ。


 俺は俺の人生を向上させるということを善として生きているので、将来的に、長期的な目線において悪魔たちから独立して生きていくつもりなのだが、それは難しい。俺の山羊頭もその理由のひとつだけど、なにしろ悪魔というのはこだわりが強い。彼らは一度手にしたものを、簡単に手放そうとはしない。


 俺の人生はいまのところ安定しているが、さらなる向上を目指すために、俺は俺と契約している三人の悪魔を殺すか、あるいはそいつらのとの契約を破棄しなければならない。それぞれの契約は著しく俺の人生を束縛していた。


 第一の悪魔は名前をパンコといった。悪魔は名前を自分でつける。親にもらった名前を捨てるくらいの根性が悪魔にはなれないらしい。ちなみに俺は俺の名前を捨てていない。悪魔になりたいとは思わないし、これでも母のくれた名前を愛しているからだ。


 パンコと俺の間に結ばれた契約は教育と恐怖の交換だった。15のときに母親を失った俺は教育を必要としていた。俺はなにもしらない子供だった。母は俺を愛をもって養育したが、そこには教育はなかった。社会を生きていくための知識はもちろん、魔術についてさえ、母は何も教えてくれなかった。母は俺を愛していたが、俺が俺として、山羊男としてこの山羊頭で生まれてきたせいで、母は狂ってしまった。狂った母に、俺を教育することはできなかった。俺は母以外の人間を見たことさえなかった。母にできたのは、俺を食わせることと、守ることと、そして愛することだけだったのだ。


 母を失った俺に、最初に接触した悪魔がパンコだった。パンコは、昆虫のナナフシがそのまま人間のサイズまで成長したような外見をしている。一見すると、枝打ちされた材木のようでもある。パンコはその細い体に、真っ黒の大きなマントを纏っている。パンコは42歳のころに人間をやめて悪魔になった。そのときに生殖器は捨てたらしい。パンコがかつてどのような性と生きていたのかは、誰も知らない。人間だった頃のパンコを知っているものはみな死んでいる。一部の悪魔たちは知っているけど、悪魔はそんなことに興味を持たない。


 母が死んで俺は悲しみに暮れていた。毎日、ぶるぶる震えながら泣いていた。世の中にこれほどまでの苦痛が、不安が、恐怖があることを初めて知った。泣き疲れて眠るまで、泣くしかなかった。そして眠ると、母がいない時間を生きる夢を見て、目覚めた。するとまた泣いた。


 ある日、母が俺を捨てて立ち去っていくというグロテスクな夢の、あまりの恐怖に叩き起こされたところ、枕元にパンコが立っていた。


 俺はパンコのことも、ナナフシのことも、悪魔のことも知らなかった。だから初め、パンコが家にいるのを見て、嵐が樹木を家の中まで飛ばしてきたのだと思った。その樹木が喋って、俺と友達になろうと言ってきたので、俺は大変驚いた。


  パンコと俺は友達になった。そしてパンコは友達として、俺に生きていくということの難しさを教えた。世界のいくつもの不具合について語った。その中には、俺が山羊頭であること、そしてその山羊頭が世間でどれだけ疎まれる存在であるのかということなども含まれていた。


 パンコは母が大事にしていたティーセットを勝手に使って茶を二人分いれた。俺たちはそれを飲んだ。


 俺は尋ねた。どうすればあと二日でなくなる牧草(俺は牧草を食べていた)を新しく手に入れられるのか。どのようにして自分は他の人々と交流することができるのか。自分がこれから生きていくことには、どういう意味があるのか。


 パンコは嬉しそうに言った。


「君の怖がっている顔を見せてくれたら、教えてあげよう」


 パンコは人間の恐怖の感情を愛好している。パンコは絶大な魔力とそれを駆使する魔術によって人類が恐怖するいくつかの〈種〉を作っている。パンコお手製の、一番のお気に入り〈種〉は、不治かつ死に至る性病だった。そういうものから、人々の恐怖を引き出し味わうことがパンコのライフ・ワークであって、生の意味だった。


 俺の持つ恐怖は、パンコにとって希少価値があった。珍味的なのだ。山羊頭の醜い(そして知恵遅れの)少年の恐怖は、その辺の子供とは訳の違う味がするらしい。


 パンコは俺に悪夢的ヴィジョンを見せる。それは映画(俺は観たことがないけど)のようなもので、一時間から、長いときは四時間ほどまで続く悪夢的映像である。俺はそれを見て恐怖する。内容はさまざまだが、大体は母を喪うことが関連している。それがもっとも俺を恐怖させるイメージだからだ。


 週に一度、日曜日の夜、俺はパンコが住む館に向かう。パンコの使用人が俺をパンコの寝室に案内する。寝室なのだ。パンコは自身のもっとも落ち着く場所としてそれを寝室と定めている。そこに俺を招く。そこには上等の酒と、柔らかなクッションが張られた一人がけのソファがある。パンコは俺をそこに座らせる。俺は座る。酒はパンコが飲むためのものだ。俺の恐怖をつまみに酒を飲むのが、パンコの週末の楽しみなのだ。


 そして恐怖が始まる。俺は契約に則り、俺が生み出しパンコが弄ぶヴィジョンを鑑賞する。そして一分と経たないうちに俺は恐怖に耐えられなくなる。しかし、俺は逃れられない。それは許されていないのだ。契約の魔術に俺たちは縛られている。


 俺が叫び、泣き、ソファの上でのたうちまわるそばで、パンコはじっくりとそれを眺めている。俺にはもはや、そうしたパンコに対する怒りはない。ただその恐怖に魂をずたずたにされるのみである。


 それが終わると、俺は風呂に入れられる。涙や汗・小便で汚れた身体を洗うというのもあるが、温かい湯につかることが、恐怖の状態から精神が回復するのを助けるというのをパンコは知っている。パンコは人間が何に恐怖しているかをよく知っているし、どうすれば恐怖から離れることができるかもよく知っている。パンコは悪魔の中でも、かなり知的な部類に入る存在である。だからこそパンコは、恐怖の代償に俺に教育を提案してきたのだ。


 それからの一週間はパンコの使用人と勉強をする。

 はじめは若い女が俺の教育にあたった。彼女もまた、パンコとの契約に縛られている。パンコと関わる人間のほとんどはパンコと契約している。彼女は俺の外見を恐れたりはしなかった。すでにパンコを初めとした異形たちかかわりに慣れていたのだ。そして一年が経って、彼女は俺の教育を終えた。教育がある程度高度になったので、彼女では俺の教育をまかなえなくなったのだ。


 俺たちの契約には、上限がない。つまり俺がパンコに差し出す恐怖には限界がないし、逆にパンコが俺に差し出す教育にも限界がない。俺は死に至りうる可能性があったとしても恐怖をパンコに味あわせなければいけないし、パンコは、それがどれだけ自分にとって不利な情報であっても、俺に問われれば教えなければならない。ただひとつ、〈パンコ誕生のひみつ〉を除いて。そういう契約だった。


 次は年老いた男が俺の教師役になった。名前をKといった。Kはかつて国の高等教育機関に所属し、そこで最も優れた教育者および研究者として認められた人間だったが、薬物中毒に陥った娘を助けるためにパンコと契約し、その身を闇に落した。


 パンコの魔術により、Kの娘は身体・精神ともに薬の影響から逃れることができたが、その翌年には交通事故で死んだ。それはパンコの仕業だった。Kは、まさかパンコがそこまで悪趣味な悪魔だと思わず、契約にその点――つまりパンコが戯れに娘を殺めたりしないようにする条項――を盛り込まなかった。それが失敗だった。


 娘が死のうと、Kとパンコの間で結ばれた契約は有効なままだった。現状の科学ではどうしようもない奈落から娘を救い出すことができたのは、隠され疎まれてきた科学である魔術と、何者にも理解されることのない深淵からやってくるあの魔法の力、それもパンコほどの絶大な使い手によるものであって、その代償は、Kの人生をそっくりそのまま食いつぶした。高名な学者であったKは、悪魔の手先に、その館の図書室の管理人になったのであった。


 館のすべての使用人は、もちろんKも含めその自由をすべてパンコにささげている。Kは快復した娘のことを写真で見ることはできたが、それと話をしたり、食事をしたりすることは一切許されなかった。それを承知で、Kはパンコと契約を結んだ。

 ただし娘が殺されるといったことだけは、Kには想定できなかった。そしてながらくの地獄が始まった。


 Kはそうした彼の人生のことを洗いざらい俺に話した。俺が彼に尋ねたからである。パンコの所有物である彼は、パンコが俺との契約に縛られている以上、パンコが契約履行に不足を生み出さないように努めざるを得ない。嘘はつけない。嘘をついたり、教えることを拒んだりすれば、それはパンコによる契約不履行となるからである。だから、パンコが用意する教師たちは、俺に尋ねられたことに関して、彼らが知っている範囲ですべてを教えなければならない。俺が知識として求めるものを提供しなければならない。それが契約だからだ。


 Kの講義は五年間に渡った。最終的に、Kによる講義は高等教育レベルにまで達し、俺は二・三の学問分野において専門的で体系的な知識を得るにまで至った。もはや生きていくには十分な水準だった。特に魔術学と農学について、おれは強い関心を持って学んだ。Kの専門は哲学だったが、彼の学問的な領域は言葉の扱いそのものについてだったので、「そもそも学ぶとはどういうことなのか」「知識を得、それを知恵にまで開花させるにはどういう方法が有効なのか」といったことを直に教わることができた。そういう原理を、知識の体系の意味・在り方を学んだことで、俺は師を立てずとも、文書や実践から知識を得ることができるようになっていったのである。


 俺がもはや師を必要としなくなったとき、俺は尋ねた。


「悪魔は、どうすれば殺せますか」


 Kは答えた。それが契約だからだった。


「悪魔は〈誕生のひみつ〉を暴かれると死にます」


 答えてすぐ、Kは図書室の教壇から倒れた。Kは死んでいた。もう何時間も前からそうであったかのように、身体は冷たくなっていた。しかし顔は微笑んでいた。Kはあまり笑うことのない男だったが、俺がよい質問をしたり、教え子として成長を見せたりしたときには、このようにしてやさしく微笑んだ。


 いつのまにか、図書室にはパンコがいた。手元には小さく干からびた心臓が握られていた。Kのものだとすぐに分かった。


「契約とはいえ、まさか〈誕生のひみつ〉について語るとは。このジジイ。恩知らずめ」


 パンコは細い足でKの身体を蹴った。まるで枕でも蹴り上げたみたいに、身体は飛んでいった。図書室の天井にぶつかって、Kの頭があらぬ方向に曲がった。パンコは俺のほうを向いた。


「今の質問は聞き捨てならないね。君、いくら契約に守られた『教育』の一環だからといって、友人を殺す方法を尋ねるなんて、それはあまりにも無礼ではないだろうか」


 続ける。


「Kと同じくして、私が君を殺さないなどという条件は、契約の中にふくまれていないのだが、それは承知かな? 君のような出来損ないは、いつだって殺すことができるのだが……」


 パンコが話している間、俺は、なぜKが笑って死んだのかをずっと考えていた。その答えが出たとき、俺はKの死体をもう一度見た。Kの首は痛ましくへし折れていたが、顔はやはり穏やかな微笑みのままだった。


 Kはすべてに気づいていたが、契約によってそれを暴くことは許されなかった。彼は長大な遠回りの末に、俺を介することで、ようやくそこに至ったのである。


「お前が恐怖を好むのは、お前自身が恐怖をもっとも忌避しているからだ。お前が自分の恐怖を愛することは決してない。お前はそれができないから、他者の恐怖を愛することで、自分の恐怖から目をそらしている。それが、パンコ、お前の〈誕生のひみつ〉だ」


 ――あぁ。泣きそうな顔でそう息をついた後、パンコは絶叫した。屋敷中に響き渡る声だった。醜く哀れで、もはやどこにも届かない叫びだった。その叫びの反響が終わるまえに、パンコの身体は灰になって崩れた。


 俺は契約から解放されたほかの使用人たちとともに、パンコの灰を海に捨てに行った。それからKを埋葬した。


 そのようにして俺は第一の悪魔を殺した。俺は俺の恐怖を取り戻し、俺の人生の一部を確実に俺のもとに取り戻した。パンコの莫大な蔵書は、俺が全てもらいうけた。やがて俺の名を冠する図書館が設立されるだろう。勝利にはそうした報酬がふさわしい。

 Kの身体を焼きながら、俺はそんなことを考えていた。




 第二の悪魔は名をデクーといった。デクーと俺の契約は愛の契約だった。パンコとは違って、デクーは性を残した悪魔である。デクーは女の悪魔だった。


 母の死後、俺は教育と共に愛を必要としていた。実際のところ教育などよりもはるかに愛を求めていた。それを知っているからこそパンコは初めに俺に友達になろうなどと持ちかけてきたのだし、そしてあえて奴は俺に愛を与えはしなかった。パンコは隠していたようだが、奴が恐怖の対極にある愛を嫌悪していたのは言うまでもない。


 デクーも俺と同様に愛を求めていた。デクーには何人もの恋人がいた。デクーは愛に飢えていたので、愛に飢えている人間を好んで選んだ。愛の契約を多数結んでも、デクーは満足しなかった。身体を交えている最中でさえ、寂しくて泣き出すような女だった。しかしそれでも、やはりというべきか、デクーを必要とする人間はたくさんいた。人間の多くもまた、愛に飢えていた。


 デクーは盲だった。デクーの瞳が光を捉えることはない。デクーは言葉と匂いを愛する。デクーは見た目と醜美を関連させない。デクーは、山羊頭の俺を恐れたり嫌悪したりすることなく、俺を愛した。


 俺たちが初めて会ったとき、彼女は言った。


「私は醜いとされるものしか愛することができません。私は、醜いとされるものがどれだけ愛を求めているのかを知っています。それがどれだけ切実なものかをよく知っています。あなたは大変に醜い外見でいらっしゃるようですね。では、私の恋人になっていただけませんか?」


 それは15の俺には理解できない提案だった。目の前にいる、瞼を縫い合わされたやせぎすの女が自分と愛の関係を結ぼうとしているというのは分かったが、愛とはなにか、なぜそんなものがあるのか、それはどのような意味を自分にもたらすのか、そうしたことらに関してはなにも分からなかった。


 ただ俺は与えられるものすべてを必要としていた。母が死んで俺のうちから損なわれたすべてを、それらで代替しなければ、その空虚さに引きずり込まれて、おれ自身が空っぽになりかねなかったのだ。


「私の〈誕生のひみつ〉をあなたに教えます。私はこれまでにたくさんの人間や悪魔と愛し合ってきましたが、ほんとうの意味で誰かを愛したことは、ただの一度もありません。ほんとうの愛と呼ぶにふさわしいものが私に備わったことは、ないのです」


 俺が第一の悪魔を殺した日の夜、デクーはそう言った。


 〈誕生のひみつ〉を暴かれた悪魔は灰になって死ぬ。では自分からひみつを語ったとき、悪魔はどうなるのだろう。


 彼女から魔法の力が失われていくのを感じた。悪魔としての彼女が持っていた存在と意味の力が緩やかに世界に還っていった。彼女が狂気によって不当に独占していた世界の力が、それでも足りない場所に向かって移動していった。


「私は悪魔であることをやめます。これで、私が傲慢にも引き寄せ続けていた運命の力が世界に戻ります。私はただの人間に戻り、そしてただの人間であるがための分の力さえ失ってしまうでしょう。それがこれから始まります」


 彼女の流した涙が、頬から垂れて彼女の腿に落ちた。その滴の重みに耐えかねて彼女の脚は大きく曲がってしまった。


 俺は彼女の名を口にした。しかし、「デクー」というのはかつて存在していた愛の悪魔の名前であって、目の前にいる盲の女について、俺はその名前さえ知らないのであった。


 俺はデクーを殺そうとしていたことを、そのときになってようやく後悔した。デクーが死ぬことが、こんなにも苦しいことだと思いもしなかった。俺は自らのそのあまりにも愚かしい姿に、絶望した。


 デクーは世界から拒まれるようにして、少しずつ、目に見える速度でその存在を縮小していった。俺は山羊的嗚咽をびぃびぃと鳴らしながらそれを見ていた。それを止めるのは不可能だった。他のことなら、学んできた高等魔術を使ってほとんどなんでもできたが、それだけはできなかった。


 最後に残ったのは、胎児の出来損ないのような肉のかたまりだった。


「デクー」俺はそう呟いた。それ以外の呼び方はもはや存在しないのだ。肉のかたまりはまだ命と呼べるような営みを維持しているようで、眼の横から突き出た乳房の、その中央にある乳首を囲うように配置された穴は、どうやら呼吸らしい空気の流れを作っていた。


 それには口らしい穴もあり、鼓動らしい動きがあり、体温らしい熱もあった。ただコミュニケーションには遠い生命だった。攻撃性さえもたないそれは、虫よりも俺から遠い。


 俺はその苦しみに耐えられそうもなかった。俺は魔術を用いて、「それ」から苦痛なくして命を奪い去ろうとした。眠るようにして命を終わらせるような技術は、科学にも魔術にも既にポピュラーであると言えるレヴェルで知られていた。


 手順は滞りなく遂行されたが、しかるべき作用は現れなかった。デクーは呼吸を続けていたし、その痛々しい姿は俺の胸を内側から焼いた。


 それはデクーがかろうじて世界に存在を結び止めようとした結果なのだろう。あるいは彼女は最後に魔法を呼び出したのかもしれない。魔法が本当に呼び出されたのなら、いや、魔法が本当に呼び出されたのだからこそ、デクーはこうして存在を保てたのだろう。そして、暫定的な不死を背負った。


 俺はぶよぶよした、融けた猫のようなデクーをこぼさないように丁寧に抱えたあと、底にクッションを詰めたバスケットの中に入れた。一つと半分だけが残った目が、俺を見上げていた。俺はデクーと一緒に暮らすことにした。


 デクーは、俺が彼女を殺すつもりなのを知っていて、その上で今このようになることを選んだ。彼女は最後までほんとうの愛には至らなかった。最後まで求め続けた。そしてそれは俺も同じだった。だったら、俺の方からぼちぼち与えてやってもいいじゃないか。そうとも思った。彼女が死ななくなってから、俺はようやくそんな風に思えるようになった。


 そのようにして俺は第二の悪魔を殺した。俺は俺の愛を見つけ、俺の人生の一部を確実に他者に譲ることになった。




 ある夕暮れのことだった。麦畑の様子を見に行って帰ってくると、デクーが殺されていた。デクーの居場所だったあのバスケットの中はデクーの肉と血でひたひたになっていた。俺はそのなきがらに触れたが、もうすっかり冷たくなっていた。


 デクーのバスケットの隣には、立派なかまきりがいた。俺がかまきりに問いかけると、かまきりは答えた。


「バスケットの中身を傷つけたのは、山羊でした。私は見ていました。真っ黒な毛皮と真っ白の目を持った牡山羊おすやぎがやってきて、バスケットの中身を散々に噛み千切っていきました。私には目もくれずにそれをやっていきました。それはほんの数十秒間で終わりました。牡山羊は口の中に入った中身をバスケットに何度か吐きつけると、あとは何事もなかったかのようにしてお尻を振りながら歩き去っていきました」


 俺はデクーのなきがらをKの墓の隣に葬った。その後、俺は山に入っていった。山にいる山羊の群れに尋ねた。しかし、真っ黒な毛皮と真っ白の目を持つ牡山羊というのは見つからなかった。俺は魔術による追跡も試みたが、その牡山羊の行方は判明しなかった。魔術による検索がうまくいかないのであれば、そこには悪魔による魔法の介入が考えられる。


 俺はデクーを失ったことに対して、当然の悲しみを覚えていた。また同時に、ある種の開放感のようなものも抱いていた。どちらも本当に俺にある感情だったが解放感の方は俺に居心地の悪さを与えた。結局俺は、デクーを邪魔に思っていたということなのだろうか。泣きも笑いもしない、ただ一日に一握の麦を食らうだけの肉袋になったデクーを憎んでいたのだろうか。


 しかし俺の中には、悲しみにも、解放感にも勝る感情があった。俺はそれに似た感情を持ったことがあった。しかし今俺の中にあるそれは、これまでに経験したあらゆるものに比するまでもなく、もっとも俺を残酷な気分にさせるものだった。どのように表現するべきだろう? ひどく焦っているようでもあったし、また一方では身を委ねるべき潮流のようなものも感じ取っていた。


 頭の中に、火が入ってかんかんに燃えている石炭が詰まっているような気分だった。その欠片や煙は、俺が口を開く度にぼろぼろとこぼれだして辺りを焼いた。


 俺は、たとえそれがどんななにであろうとも、デクーを殺したものをこの手で殺してやりたいと思っていた。


 俺は町におりた。俺の棲む山小屋から町まで、歩いて三日かかる。俺が町に辿り着いたときには、もう、町は空っぽだった。道中で俺を見つけた誰かが、先んじて町に伝えたのだろう。人間たちは避難を既に済ませているらしい。


「旦那、旦那」俺を呼び止める声があった。路地裏に繋がる暗がりから、下品に眼を光らせる小男が俺に微笑みかけていた。


「旦那。山羊頭の旦那。もうこの町にはひとっこ一人いませんや。わしのような外道ものしかおりませんですぜ。みんな、山羊頭の旦那がやってくるっつう噂を聞いて、逃げ出しましたぜ」


 小男は、彼の見てくれや話し方にはそぐわない、金品の類いをたっぷり腕に抱えていた。俺がそれを見ていると、へらへらと笑う。


「こいつは旦那のおかげです。そうだ。分け前を献上いたしますぜ。旦那がここにいらしたから、わしはたっぷりと稼がせてもらえました……」


 俺は小男を蹴っ飛ばして怒鳴った。男が大切そうに握っていたきらびやかな装飾品たちが、軽やかに音を鳴らして地面に散った。


「黒い毛皮と白い目の牡山羊はどこだ」


 男は少し黙った。それから知らないと答えた。俺は腹をたてていた。男が俺に便乗して悪事を働いていたからではない。俺は他のもの全部に腹を立てていた。


 魔術を使おうと、そう意識する以前のことだった。俺のなかから、なにか俺とは別のものが溢れだしてきた。それは俺が呼んだものだった。俺はそれを呼び出すことに成功した。魔法がやってきたのだ。


 小男は苦しそうに身悶えしたと思うと、突然立ち上がって両の手を水平に広げ、全身で十字を描いた。揃えられた両足は寄りねじられて、一本になっていく。その脚から次第に、硬い木質が現れていく。繊維が擦れ合わさる音が響く。男は数秒の合間に一本の枯れ木になった。みすぼらしい衣服と、最後まで首にかけていた金の首輪が、冗談のように枝に垂れ下がっていた。


 木は言った。


「旦那。これではあんまりです。わしは確かに悪人ですが、しけた枯れ木だなんて。こんな往来の真ん中にぽんと置かれては、戻ってきた町人たちにちょん切られてしまいます。後生ですから、どうか直してください」


 ううん。ううん。と、木は唸って泣いていた。


 俺は町を出て西に向かった。いくつかの町や村を訪れたが、黒い牡山羊については何の情報も得られなかった。

 そして俺は都を目指すことにした。都にある地下街ならより多くの情報が手に入ると考えたのだ。しかし、都に着く前に、それはやってきた。さぎは飛んでやってきた。下草の豊かな草原に、大きく真っ白なさぎがやってきて俺の目の前に降り立った。


 さぎが言った。


「これから都に行くんだね。都に行ったら、君は死ぬよ」


 俺は自分が死ぬとは思っていなかった。ただし生きているような感じもしなかった。デクーが死んで以来、ずっと頭の中がぼんやりしたような気分になっていた。そして、反吐が出そうなほどの怒り。


「ひとつ教えておいてあげよう」さぎは俺を嘲るように嘴をつんと立てた。笑っている。


「君の山羊頭は悪魔の魔法によるものだ。君は、生まれる前から悪魔と契約して、その山羊頭を持ってこの世に現れたのだ」


 俺はさぎを木っ端微塵にして殺そうと思った。でもそう思った瞬間に、さぎはすばやく飛び立って、俺の手の届くところから離れていった。


 そのようにして俺は第三の悪魔の存在を知った。俺は黒山羊とともに、その悪魔も殺さなくてはならないと思った。俺の山羊頭はすべての束縛の根本的原因でもある。もしそれがなんらかの意図から生み出されたものだとしたら、俺はその意図を許せない。


 俺は都についた。正確には都に至る道、城壁の手前のところに大規模な軍勢があった。たくさんの男たちが、憎むような、恐れるような顔で俺を見ていた。先頭にいた大きな一人の男が俺に言った。まさか頭領ではないだろうが、それなりに鋭い雰囲気を持った男だった。おそらくはかなり経験を積んだ古株の兵士というところだろう。


「山羊よ。ここにお前の求めるものはない。立ち去るのだ。お前が何十年もの間、何かを探しながら破壊と殺戮を積み重ねてきたのだとしても、その新しい一片にこの都を加えるわけにはいかないのだ」


 俺には、男の言葉の意味がよくわからなかった。黒い牡山羊について俺は尋ねた。男は、俺の顔を怪訝に見つめたあと、知らないと言った。彼の知る限り、黒い山羊というのはこのあたりの土地にはいないらしい。はるか遠くの、異国の山深くにしかそういうものはみたことがないのだという。


 俺はがっかりした。やはり地下街に行くほかないと考えた。魔法を呼び出して、男を泥と腐った水でできた人形に変えると、彼は気が狂ったように笑いながら、どこか遠くへと歩いていった。


 兵士たちが長い槍を持って俺に向かってきたが、最初の十四人に対して魔法を呼び出して、十四人それぞれに別なかたちで死を与えた。するとそれを目の当たりにした十五人目の兵士は恐怖のあまり、自分の槍を自分の喉に突き刺して死んだ。そして残りの全部は、駆け出してどこかに去っていった。


 都の地下には、大きな下水道がたくさん通っている。そういう空間を利用して、陽のあたるところで生きられないものたちが生きている。このような場所では、自然と悪魔に関する情報も集まるようになる。悪魔との契約は、幸福な人生の終りとほぼ同じ意味にあたるものだが、それでも悪魔と契約をしたがる人間は後を絶たない。悪魔の魔法を誰もが必要としていた。耐え切れなくなったものが、本当に悪魔に会いにくるのだ。あるいは悪魔のほうから、そうした人間に会いにくるのだ。


 地下街には多くの人間がいたが、それらのほとんど全部は俺を恐れて姿を現さなかった。薄暗い地下街で、何か知っているものがいないかとさまよっていると、俺の後をついてくるものがいる。振り向くと、泥人形に変えた男が、泥を撒き散らしながら歩いていた。相変わらず笑っていた。


「山羊、山羊よ。このままここに残れば、お前は死ぬぞ。殺されるぞ。立ち去るのだ。いますぐ立ち去るのだ」


 俺は泥人形を無視した。ひどいにおいを放っていた。


「これは嘘ではない。ほんとうにお前は死ぬのだ。もうじきに〈彼〉が来るのだ。〈彼〉は本当にお前を殺すだろう。死にたくなければ、山に帰るのだ」


「ええい。聞け。聞くのだ。死ぬぞ山羊。お前が死ねば、私の身体はこんどこそただの泥になってしまう。そうなると、私も死ぬのだ。頼む。山羊よ。ここから立ち去ってくれ。本当にお前を殺すものがここに現れることになっているのだ。王が〈彼〉を呼んだのだ」


「〈彼〉は終わらせるためにやってくるのだ。なんだって終わらせてきた男なのだ。悪魔よりも恐ろしい。いつかすべてのものが〈彼〉に終わらせられてしまう。みなそれを恐れている。そして〈彼〉はお前と一緒に私も終わらせてしまうのだ! ああ! 恐ろしい!」

 

 俺は泥人形から命を奪って、そのあたりに捨てた。泥人形は形を失って崩れ落ちた。ようやく安心できたのだろう。彼はとても落ち着いた様子だった。


 地下の街をどこまでいっても、黒山羊を知るものはいなかった。人であれ、人でなかれ、皆が俺から逃げていった。どうしようもないので、また他所をあたろうと思った。もう何度もこんなことを繰り返している気がしていた。少し、うんざりした。


 いつのまにか道に迷って、妙な袋小路になっている水道に入った。地下街の中でも、一番に暗い様子の場所だった。その奥には老人がいた。何か店を開いているらしいのだが、大きなクロスをかけたテーブルと椅子だけしか準備されていない。俺は老人の対面に座った。


「私は占いをしております」

 老人は言った。その瞳は白く濁っていた。俺を見ているようで見ていないその目の動きで、老人が盲なのはすぐにわかった。


「あなた様の求めるものがどこにあるのか。あなた様の近い未来の形が、私にはわかります」


 お手を。そういって老人は俺に手を差し出した。俺はそれを握った。老人の手は冷たく強張っていた。死人のようでさえあった。


 驚くべきことに、老人は魔法を呼び出していた。普通の人間が魔法をよびだすということは、つまりこれは魔法使いということなのだろうが、それをやってのけるものがいるとは。俺の、パンコの蔵書を通した知識の中でも、初めてそういうものが本当にいるのを知ることになった。


 魔法を呼び出している間だけは、老人はまっすぐに俺の目を見つめていた。瞳はあいかわらず白濁していたが、老人は確かに俺を見ていた。見えているのだろう。


 しばらくして、老人は語りだした。


「あなた様は、ずいぶんと長く旅をされているようです。そしてそれは、どのようにかして終りを迎えることになります。かなり、近いうちにでございます。よかれあしかれ、もうじき終りになります。

 そして……。ああ、これをお伝えするのは、あまりに残酷なことであるかもしれませんが、あなた様は求めるものはすでに失われております。もはやあなた様は、ただ想いだけが燃え続けているのです。蝋燭が、自分がもうすっかり自分の時間を燃え尽くしているはずなのに、それに気づかず、まだ芯に火を点しているようなかたちです」


 魔法によって導かれた言葉は、確かな響きをもっていた。しかし、あまりに抽象的な老人の言葉では、俺は何も納得することができなかった。俺は尋ねた。


「黒い牡山羊や、俺の頭を山羊にした悪魔が、もういないということか?」


「具体的なあり方は、わかりかねますが、あなた様がそうしたものたちから、なんらかの満足を引き出すことはもはやございません。証拠、と申しては乱暴なもの言いであるかもしれませんが、あなた様は、なぜ自分がそうしたものたちを追っておられるのか自分でもご存知ではないようです。はじめの理由も、もう失われております」


 俺は考えた。俺は自分に山羊頭を与えた悪魔を、殺さねばならない。そして、黒い牡山羊を殺さなくてはならない。明白だった。そのとおりでしかなかった。そう言った。


「では、なぜそれらを殺さなくてはならないのですか?」


 次の言葉は、出てこなかった。


 なぜ俺は、そんなにもそれらの悪魔を憎んでいるのだろう?




 気づけば、俺は地下街を出て、どこともつかない、だだっぴろい荒地を歩いていた。風が強い。俺の毛並みが揺れた。これからどこに行けばいいのだろうか。黒い牡山羊と、第三の悪魔を殺す。目的はある。なぜそれが目的なのかは、わからない。これまで俺のうちに燃えていた怒りは、急速に冷めつつあった。


 何かを忘れているのだろうか。あれほどの怒りがあったのだから、必ず俺にとって、なにか深い傷があったはずなのだが、さっぱり思い当たる節がない。長いあくびが出た。空気が冷たい。なんだか疲れていた。


 荒野が続くはるか先に、青年がいた。むこうからこちらに歩いてきているようだった。やがてすれ違うだろうな、と考えていると、彼は俺の目の前で足を止めた。

青年は俺のことを知っているように、俺を見ていた。俺のほうは彼を知らなかった。


 俺は彼に尋ねた。


「お前、黒い牡山羊を知っているか? 毛皮が黒くて、目が真っ白の牡山羊だ。あと、俺を山羊にした悪魔がどこにいるのか、それも知らないか?」


 青年は答えた。

「おそらく、私はどちらのことも知っています」


 俺は驚いた。それを言うものは、今まで俺の前には現れなかった。俺を前にして、嘘をつけるものなど存在しない。

 

「教えてくれ」


 青年は少し考えるようにして言った。


「では、まず、黒山羊のほうから」


 俺は頷いた。


「あなたは知らないかもしれないけど、あなたはその見た目から〈黒い牡山羊〉と呼ばれ、恐れられている。毛皮が黒くて、目の白い山羊の悪魔。それがあなたです。そういうことですよね?」


 俺は自分の顔に触れた。頬の毛を摘まんだ。視界のはしに、黒い毛が揺れていた。


「次に、あなたを山羊にした悪魔について」


 青年は続けた。

「あなたは生まれたときから山羊頭だった。それはなぜか知っていますね」


 それはよく知っている。俺は答えた。

「母が禁術を使用し、彼女の傷んだ子宮を山羊のものと交換したためだ」


 そこに、俺の因縁の悪魔の介入があるはずだった。


「なぜ、あなたの母親は、自分の子宮を山羊のものと交換したのでしょうか」


 俺は押し黙った。わからなかった。そんなことは考えたこともなかった。考えたくもないと思った。「やめてくれ」


「きっと、そうまでして産みたい子供があったんでしょう」




 俺の身体は、足元から少しずつ形を失っていった。はるか昔にこういうものを見たことがある気がする。やわらかく形が崩れていく。俺は俺自身の終りを感じていた。


 青年は俺のことを静かに見つめていた。そこにはあまり感情らしいものはなかった。ただじっと見つめていた。


「それがあなたの〈誕生のひみつ〉です」


 ――ああ。そうか。そうだったのか。


 もう俺はすべてを失っていた。俺の身体はすべて灰になった。やがて風はそれらを吹き飛ばして散らしていった。


 そのようにして一個の悪魔が死んだ。彼は自身の〈誕生のひみつ〉を暴かれ、独占していた運命の力を解放させた。存在は完全に霧散し、人々が抱えていたその強烈な記憶も、次第に薄れていった。数十年としないうちに〈黒い牡山羊〉は忘れ去られていった。

 青年はその後、故郷の村に帰ったが、風邪を悪くさせて死んだ。普段から人と話のかみ合わない男で、人々からは狂人だとされていた。王が悪魔を殺すために呼んだ悪名高い戦士は、都にたどり着く前に、買った娼婦に殺された。娼婦は、戦士に親を殺された遺児だった。




 とある山奥に、立派な図書館があるのが発見された。その庭園には、二つの墓があった。それを見つけた者は、この二人の男女らしき人物が、ひそかに知識が受け継がれること願って図書館を建てたのだろうと推察した。図書館には二つの墓に刻まれた名を連ねたものが冠された。危険な魔術に関するものは深く封印されたが、そこは多くの人が訪れる場所になった。

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山羊男誕生のひみつ @isako

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