妄面
安良巻祐介
能などに使われる翁面が一つ、塀に沿った暗い小道の端に、ぽつりと落ちている。
何とも珍しい。誰かが落としたにせよ、こんなものをわざわざ外に持ち出して歩くだろうか。
近所に能楽師が越してきたという話も聞かない。むしろここら一帯は、裕福ながら野暮たらしい住民の多いところであって、能などよく知らないという手合いが殆どであろう。
では、なぜ。
少なからぬ興味を持ってその面に近づいて行くと、こちらの一歩ごとに翁面の周りに蟠っていた薄い闇がその色を増すように思われ、おやと思って足を止めたときにはすでに、それは見間違いようもなく色を変え、先分かれして形を変じ、細長い人の四肢を形作っていた。
くぬり、と、翁面が地面から持ち上がり、さながら酷い痩身の猿が起きるようにして、影の四肢で以て、立った。
『もう…もう…妄…妄妄妄妄…』
翁の顔をしたそれは、そのようなよくわからない、そのくせ何の字なのかだけは頭に焼き付くようにわかる不思議な声を上げて、電灯の光の下でくぬ、くぬり、と身を蠢かすと、何か頭を抱えるような動作をして、物凄い早さでその場から駆け去っていった。
闇に溶けて行くその後ろ姿を見つめて戦きながら、粋か、粋でないかならば、間違いなく粋なものであったと考えを整え、記憶の中のお能の舞台を一人で勝手に再現しながら、帰途についた。
妄面 安良巻祐介 @aramaki88
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