八神大玉伝

中原恵一

肇輯 畜生道を生きる少女、修羅道を歩む男

 真っ黒に焦げた樹木の枝にぶらさがっていたのは、引き裂かれた人間の片脚だった。



 辺り一面に焼け爛れた大地が延々と続く。

 通り沿いに櫛比しっぴする無人の家屋の大半は、炭よろしく黒焦げになって倒壊しもうもうと煙が燻る。

 遠くに聳える禿山にはところどころ未だ消えずに残る火の数々が窺え、炎の強さを物語っていた。

 三日三晩、地上の全てを舐めつくすような劫火によって焼き尽くされ、廃墟と化したこの町に生きて動くものの影はない。

 地上を這い回るものはせいぜい痩せさらばえた野良犬か、

 はたまたどこからともなく湧きだす蛆虫か、

 頭上を旋回する烏の群れが時折舞い降りては、路肩に無造作に転がった死体を啄むのみ。


 誰もこの荒れ果てた土地が、かつて栄えた京の都だと思うまい。


 恭仁京と呼ばれたこの都は栄華を極め、つい数年前までは碁盤の目状に延びる通りの数々を商人の喧騒や貴族の行列が行き交っていたのだ。

 だがそれもとうに見る影もない。

 今日こんにちの都には、人はいないのだ。

 地上の一切衆生は死に絶え、夜な夜な成仏できずに徘徊する数知れぬ怨霊たちのみが都を賑わす住人であると思われた。


 ――たった一人を除いて。


 骸で溢れかえる地面の上に、一人孤独に立ち尽くす少女がいた。

 少女の眼前、土ぼこりの舞う表通りには、阿鼻叫喚の地獄絵図と言うべき大量の屍があった。

 山積みのようになった数多のそれは、死後時間が経つにつれ腐乱し骨がむき出しになって、やがて町中に饐えた匂いを漂わせていた。

 そして少女は焼失した木の前でただ呆然と、ぶら下がった男か女かすらも分からないその干し肉のような人間の片脚を見上げていた。たまに風で揺れるそれは、現実感のない残酷さと言いようのない凄惨さを併せ持っていた。

 

 少女に名はない。


 年のころ、十ほどであろうか。

 背丈は四尺あるかないか、幼い少女は背嚢はいのうと思しき衣包ころもつつみで包まれた荷を背負い、その上から体に似合わない大きな日本刀を差していた。

 彼女の体はもう何か月も水浴びすらしていないらしく、髪には虱が湧き背中には蠅が飛び回り、この町と同じ血なまぐさい匂いがした。


 この小さな女の子も、相次ぐ疫病と飢饉で親を亡くした孤児みなしごだろう。

 彼女は伸び切った黒髪を後ろで一つに結び、黄ばんだ襤褸ぼろ切れのような貫頭衣を纏っていた。

 見るからに痛々しい数々の擦過傷と治りかけの傷跡、

 薄汚れた煤だらけの黒い顔、

 そして彼女の表情はといえば、まるで死相――二つの瞳はどんよりとして、濁っていた。

 

「おい、何をしているんだ」


 少女の背後から声を掛けるものがあった。


 二人組の男女――

 男の声は若く、もう一人は老婆であった。

 声は次第に近づいてくる。


「どうしたのだ、女子おなごよ。こんなところに一人でいたら危ないぞ」

「家を焼かれてしまったのかい? かわいそうにねえ」


 彼女は確かに、彼らがこう言うのを聞いた。


「どれ、我々が助けてやろう」

「安心しな。とって食ったりしないよ」


 彼らの優しげな口調は、二人が善人であることを証明していた。

 推察するに、武器を持ち合わせている気配はない。火事で泣く泣く都を後にした商人か、近隣の集落から逃げてきた村人であろう。


 だが――、


「もう怖くな……」


 刹那、少女は目を閉じて弟のことを想った。

 

 ――そうだ、これはあの時と似ている。


 そして少女は、微かに汗ばむ右手を背中に伸ばし、刀の柄を握った。

 

 ――私が、守らなければ。


「アァァァアアアアッッ!」

 

 ブシュッ!

 老婆は彼女の肩に手をかけようとした瞬間、振り向きざまに斬りつけられ胸元から勢いよく血を吹き出した。

 続けざまに首筋がぱっくりと割れ、穴の開いた喉笛から聞こえるのは、ひゅうひゅう、という声にならない息の音。

 激しく咳き込んだ老婆は喀血して、どさり、と地面に崩れる。


 紫電一閃――

 彼女は再び瞼を開いたとき、電光石火の早業で刀を抜いて老婆を仕留めた。


「貴様ぁっ! よくも……」


 そう言って男が刀を片手にとびかかろうとした途端、少女は素早く身を翻した。

 そしてみるみるうちに、ダダッ、と走り寄って間合いを詰めると、気がついたときには男の目の前にまで迫っていた。


「私に触るなァアーッ!!」


 男はまざまざと見せつけられた。

 額に皺を寄せ、悪霊にとり憑かれたけだもののように歯を剥き出しにして威嚇する様――。

 鬼の子だ。

 この未だ幼き少女の面構えは、人間のそれではなかった。

 男は須臾しゅゆの刻にして、彼我の力量の差が明らかであることを悟った。


 斬ッ――!


 男の右腕は、いともたやすく切り落とされた。


「ウワァアアアアッ!」


 痛いという言葉さえも出てこない様子で、男は絶叫しながら激痛に悶え苦しんで地面を転げまわった。少女は追い打ちをかけるように、男の足を幾たびも刺突する。


「襲い掛かろうとしたのが悪いのだ」

「していない、していない! あぁああああああああっっっ!!」

「それなら、私に話しかけたのが悪い」


 少女は蔑むように軽く笑いながらも、人間の所業とは思えない凶行に及んだ。

 まるで残虐であるがためこの世に生を受けたような、そんなどす黒い表情だった。


「神様、仏様、どうかお許しくださいっ……」


 男は必死に哀願するが、彼女は刀を振るうのを止めない。

 男は少女に縋り付こうとして、咄嗟に彼女の背中にある衣包へ左腕を伸ばした。

 そして背嚢の布の一部を掴んでしまった。

 すると少女は、これまた地獄から蘇った死霊のような顔で男を睨みつけた。


「――神などおらぬ」


 少女は嘯く。


「自分の命ぐらい自分で守れ、屑が」


 胡乱な者どものうろつくこの町で、彼女を守るものなど己以外ないのだから。

 彼女は心の中でこの哀れな男を存分にせせら笑った。


 止めの一発に、少女は男の心臓を一つきした。

 男は目をかっと見開いて痙攣し、布を固く握り締めたまま倒れこんだ。

 そして、ほどなくして動かなくなった。


 同時に、彼女の背中の荷物を覆っていた布がするり、と解け落ちた。

 中から現れたのは、男児の亡骸だった。

 乾燥して小さく縮んだそれは見た目さながら木乃伊のようで、眼球の嵌っているべき場所からは白い蛆虫がぶつぶつと湧きかえり、大半の肉が削げ落ちた皺だらけの頭は頭蓋骨を残して腐れ果てようとしていた。


 、だった。


 弟はついひと月ほど前、飢餓により痩せ衰え加えて赤痢を患い、この世を去ったばかりであった。

 少女は弟の死を受け入れられず、弟の体のなれの果てであるこの亡骸を背負って方々を放浪する生活を続けていたのであった。

 死体を担いで歩き回るなど狂人の類である。

 少女は言うまでもなく、とうの昔に正常であることを放棄していた。


 少女は男を殺し終わると、いつもの如く荷物の物色を始めた。

 追剥をするのには相手を殺す必要まではないのだが、何分彼女はこの世に善意があるとか功徳を積むことで来世は輪廻転生できるとか、そういったことを一切信じていなかった。

 そもそもここに来たのも、もっぱら死体漁りが目的であった。


 弟が死んでから、少女はただ日々生きながらえること、どんな非道な手を使ってでも自らが生き伸びることが人生の目的にすり替わっていた。

 数知れぬ人を殺め飢饉を生き延びたこの少女はいつしか、都では「鬼の子」として畏れられるようになった。

 巷では最近、こういう噂をよく聞く――この頃都に出るらしい、背中に子供の亡骸を背負って人を襲う、女児の格好なりをした物の怪が。


 少女に名はない。

 通り名を、モガリという。

 情け容赦なく、数知れぬ人間を殺めてきた弟想いの亡者に相応しい名だ。


 ○


 大陸の東の果てに瑞穂の国、という小国があった。


 瑞穂の国はかつて、雨に恵まれ森に富み、各地を清らかな水を湛えた田園が広がっていた。

 桜咲く季節には野山の随所に新しい生命が芽吹き、

 蜻蛉あきつ舞う季節には草木が鬱蒼と生い茂り、

 鈴虫の啼く頃には山の紅葉が色づき、

 茅葺屋根を白い雪化粧が覆う頃には銀世界の広がる野山を犬や兎が駆け回った。

 春夏秋冬それぞれの季節に、それぞれの色があった。

 時の移ろいはどれをとっても美しく、一虚一盈する現世の人の心を表した。

 自然の寵愛を受けた民草はやがて独特の文化を育み、現人神あらひとがみである帝を頂点として中央集権体制を敷いたこの国は繁栄した。


 しかしそんな時代は、忽然と終わりを告げる。

 

 その頃、大陸にはかの国――瑞穂の国では単にそう呼ばれていた――という強大な軍事国家があった。かの国は広大な領土を有し、王たる皇帝を中心として百余りの民族を束ねる大帝国であった。

 かの国は周辺諸国を次から次へと征服し、様々な国家に朝貢を求めた。従わなければ一部として飲み込んでしまう、というのが彼らのやり方だった。

 そしてかの国は次の標的として、大陸の遥か彼方にある瑞穂の国を呑噬どんぜいせんとした。現にこの数年で、瑞穂の国の隣国三つがかの国の侵略を受け、朝貢を余儀なくされていた。

 瑞穂の国とかの国とは一部地続きで繋がっており、温暖な気候と水の恩恵を受けたこの土地はかの国の言葉では「蓬莱」とも呼ばれ、樹木は金銀財宝の実を結ぶ極楽浄土であるというのが巷間の噂であった。

 また、皇帝は瑞穂の国にあると言われた伝説の宝玉、八尺瓊勾玉やさかにのまがたまを欲していた。

 楚国の璧にもついで珍重されたこの宝物は、瑞穂の国において帝の保有する三種みくさ神宝かむだからの一つであった。

 かつて三千大千世界の全てを封印し、内部に宇宙を閉じ込めたとされたこの玉を手に入れた暁には、神となって全地上を支配することも夢ではないという。

 玉が持つ絶大な権力に目が眩んだかの国の皇帝は、はじめ瑞穂の国に朝貢を望み以下のような国書を送った。

「日出ずる処の天子、辺疆は東夷の倭国の王に書を記す。

 倭国は豊かなる国にして、我が国にない宝玉を有している。そして我が国は広大な領土を有しており、十五の城と邦をって之にえんと欲す。朕の言わんとするところを知らずば、即ち百万の兵を持って攻め入らん」


 かいつまんで言うに、若し倭国が其を差し出して屈伏すれば、十の城と邦を与え倭国を取り立てよう、だがそうでなければ侵略するぞ、という脅しの内容であった。

 いわば挑発、事実上の宣戦布告である。


 みかどはこれを受けて大臣たちと話し合いの場を設けた。


 大臣たちは慌てふためくばかりで、中には早々と降参してしまった方がいいのではないかという者すらいた。瑞穂の国は山地と海に四方を囲まれ敵襲には強い。しかし実際、対外交戦経験のないこの国は戦争に弱く、かの国の力量は計り知れないであろう、と。

 だが大半を占めたのは、暴虎ぼうこ馮河ひょうがの勇をふるい攘夷を唱えた者たちだった。

 そもそも彼らはかの国が本当に攻め込んでくるのか、という点について懐疑的であった。もとより私腹を肥やすことにのみ関心を示さない大臣たちが政権を掌握していた。そして彼らの多くは、悲しいことにまさに夜郎自大ともいうべき見識の狭い者たちであった。

 井蛙せいあに大海は語れず、瑞穂の国はかの国の軍事力を完全に侮っていた。


 誇り高かった帝は、やがてかの国に対する返事の書をしたためて使節を送った。皇帝はかの国の力など歯牙にもかけないという文面に激昂し、使節を切り殺すと瑞穂の国へ強襲をかけた。


 戦争はかの国の圧倒的優勢に終わり、数知れぬ兵たちが死んだ。

 そしてとうとう都に攻め入ったかの国の軍勢は宮殿におわす帝の首を刎ねた。

 しかし帝は手に入れれば地上の全てを支配すると言われたその宝玉を死ぬ前に頭蓋に叩きつけて壊し、「この八尺瓊勾玉やさかにのまがたまが再び集まりしとき、かの国に災いがあるだろう」と予言して崩御した。


 かくして宝玉は百八つの玉となって分裂し、地上に四散した。


 ○


 時は移ろい、飢饉に餓える一人の少女がいた。


 少女は焼き討ちと掠奪によりすっかり荒廃した京の町に住んでいた。

 今や多くの建物は、柱は折れ屋根や壁は朽ち果てていつ倒壊するとも分からないものばかり。

 そして、その中にある無人の寺院――瑰麗かいれいな装飾のほどこされたほこらは盗賊に荒らされて仏像は持ち去られ、もはや参詣に来る者も尽き果てた。蟠屈ばんくつした立派な古松のある庭園も、今では手入れする者もなく芒や三味線草が覆いつくしてしまった。

 そして野山へ還りつつあるこの場所こそが、少女の住処であった。


 少女は弟の死体を背負って京の町を歩き回り、出没する盗賊たちを狙って追剥をして糊口を凌いでいた。

 少女は生きるためなら何でもした。

 例え相手が女子供であろうと誰であろうと無慈悲に襲いかかり、物品を掻っ攫うか、言うことを聞かなければ殺すのみだった。

 そしてそれは全て、今は亡き弟のためだった。


 この日、少女は信仰の失われた寺院の境内で一人、縁側に座って物思いに耽っていた。

 臙脂色の丹塗りの禿げた柱、

 空を飛ぶ烏、

 崩れかけた門から見える通りに転がる乾ききった死体、

 普通の人間であれば生きた心地がしないであろうその場所は、彼女にとっての世界の全てだった。

 少女は所々穴の開いた寝殿の床に弟と刀を寝かせて、座っている木の板の縁から裸足の両脚を投げ出してぶらぶらしていた。

 一つ結びにされた揺れる黒髪は少女の頭から枝毛を散らしながら垂れ下がり、線香花火のようでいささか哀しげだ。

 長い髪は走り回るのに邪魔だったが、切ることもかなわず盗品の麻紐で一つに縛っていた。


 塀の向こう、遥か向こうに火が燃えるのが窺える。

 火は赤々として、爛々と輝く炎を彼女の瞳に映し出した。


 ――人が焼ける匂いがする。


 彼女は自分の体の臭気を嗅いで、快い気分さえ感じていた。

 いつしか染みついて消えなくなったそれは、彼女が生きている証だった。

 ふと見れば、少女の顔はこころなしか嗤っていた。

 ころころと、あの世で手招きする髑髏しゃれこうべ、亡霊の権化が如く。

 

 言うまでもなく少女は気が狂っていた。

 それもその筈、少女は村を出て以来、たった一人の肉親だった弟をとうとう死なせてしまったのだから。


 病弱だった双子の弟は、善人であるが故に死んだ。

 母を同じくする姉、同胞はらからとして運命づけられた哀しみは、少女がこの世に生を受けた頃にまで遡る。


 少女の生まれた村は山のはざまにある集落だった。

 とても小さな村で、呪い師の老婆が里長さとおさとして全てを取り仕切る、いにしえから伝わる瑞穂の国の伝統的な生活の息づく村だ。

 二人は私生児で、父は何処にいるのか分からない。父は刀だけを母に残して去った。

 そして少女の母は二人の出生と同時に亡くなった。相当な難産で体力を使い果たし、二人の嬰児えいじを産み落とすとすぐこと切れてしまった。

 呪い師は弟がこの世に生を受けた時、一目見るなりこう言った。

 なんて醜い子だ。この子は将来恐るべき禍をもたらすに違いない、と。

 やがて呪い師はこれが呪いであるとして、祈祷と称して村人たちを巻き込んで二人を虐げた。

 二人を見かけると石を投げつけたり、分配される雑穀に虫を混ぜたり、嫌がらせは徹底して二人を追い詰めた。

 不屈な姉はそのたびに憤り反骨精神を見せ、時には侮辱した村人にとびかかって取っ組み合いの喧嘩さえもした。

 が、弟はそうではなかった。


 弟は年齢こそ少女と同じだったが、劣悪な環境で育ったせいか発育が悪く体は小さい。並んで立つと三、四歳は年下に見えた。

 虚弱体質であった弟は幼いころから体調を崩しやすく、外で走り回ったり農作業をしたりすることはなかった。

 そして掘立小屋の土間に敷いた藁の上で、ひどいと一日中寝込んでいることがほとんどだった。

 少女は弟に代わり毎日働き、苛められながらも生計を立てた。少しでも休めば鞭でたたかれ、体中痣だらけになっても少女は休むことを許されなかった。里長は大声で喚き散らし、少女から税だといって様々なものをむしり取った。

 そんな中、誰一人味方してくれる仲間のいないこの村で、弟は少女にとって唯一の安らぎだった。

 弟は家で一人、姉の帰りを待ちわびていた。

 少女はいつも家に帰ると、また嫌がらせをされた、とか、こんな村出ていこう、とか愚痴を言うことがほとんどだった。

 弟は辛抱強く姉の言葉を聞いて、うんうんと頷いた。

 そして、儚げに笑っていつも、許してやれ、彼らとて人間なのだ、話せば分かるだろう、と言うだけだった。

 弟が見せるはにかんだようなその笑顔は、少女が心のどこかに置き去りにしてしまった感情を呼び起こし、たまらなく哀しくさせた。

 弟は思いやりのある子供だった。そして、自分のために誰かが苦しむことをよしとしなかった。

 少女はこの純真無垢な弟のためなら、自分を犠牲にしてもいいとさえ感じていた。


 だが貧しいながらも支え合う二人の生活は、そう長くは続かなかった。


 当時、大陸から攻め込んできたかの国との長年続いた戦により国は困窮していた。この頃から体制に反発し台頭をはじめた新勢力が、朝廷に対して不穏な動きを見せていた。

 蹶起した彼らは各地で乱を起こし合戦に疲弊した旧勢力はやがて没落していった。

 相次ぐ混乱で朝廷は機能しなくなり、都では焼き討ちや強盗が日常的に行われるようになった。


 そしてそれは、少女の村にも影響した。

 この年、大規模な飢饉が各地を襲った。

 日照りが続いたせいで田畑は干上がり、作物の収穫量は激減したからだ。

 夜逃げする百姓が続出したため、里長は村の農民たちを厳戒に監視した。

 しかしそんな中、あろうことか少女の弟が夜中に高熱を出し、病の床に伏してしまう。

 少女は疫病に感染したと分かれば村を追われてしまうと焦り、真夜中の月明かりの下、背中に弟を担いで家の外に出て、山を下ったところにある比較的大きな集落を目指した。効くかどうか分からないが、日本刀を売りさばいて薬を買おうとしたのだ。

 だがそこを呪い師の老婆に見つかってしまったのだ。

 呪い師は少女を見るなり憤怒を露わにし、大声を出して他の村人を呼ぼうとした。

 そして少女はあまりのことに動揺し、持っていた刀で老婆を斬り殺してしまった。


 ○


 ぽっかりと浮かんだ綺麗な三日月が、漆黒の夜空を照らしていた。


 少女は確かに、呪い師の老婆の瞳の奥に迫りくる凶刃に対する恐怖を垣間見た。

 瞬間、時が止まったかのように、刀はゆっくりと生々しい重みを手に伝えた。


 これが、人を斬る感触というのものなのだろうか。


 ズシャァ!

 つかの間、気がつくと少女は呪い師の胸を掻っ捌いていた。

 噴水のように動脈から血が吹き出し、呪い師は蒼白な顔のまま後ずさりして、どさり、と地面に崩れた。


「アァアアアアアッ!」


 断末魔の悲鳴――呪い師は大音声を上げて、身の危険を知らせようとした。

 少女は恐ろしくなって、狂犬病を患った野犬のように息を荒げて、呪い師が死ぬまでドスッ、ドスッ、と何度も刺した。

 そして肺を刺された呪い師は、苦しげに体のあちこちから血をまき散らすと、そのまま二度と動かなくなった。


 数えで七つの時、少女にとって初めての殺人だった。


 ――殺し、た?


 芽生えた小さな殺意はやがて大きな怒りとなって、この老婆を刺し殺すに至らしめた。


 ――殺して、しまった。


 刹那的な衝動で人を刺し殺した後悔が、今さらながら少女を襲う。


 ――殺したんだ。私は、人を殺したんだ。


 確かに老婆は憎かった。だが散々自分を苦しめてきたとはいえ、一人の人間をこの手で殺めてしまったことにとめどない罪悪感が湧水のように溢れ出して、少女はしでかしたことの大きさに押しつぶされそうになった。

 少女はあたりに飛散した血飛沫を見て、がたがたと震えながらへたり込んだ。


 しかし少女には悠長に何もせずに佇んでいる余裕もなかった。

 家々にぽつぽつと明りが灯りだした。村人たちを起こしてしまったのだろう。

 このままここにいれば、今度は異変に気づいた彼らが二人を見つけて殺しにかかるに違いない。

 少女は絶望に打ちひしがれながら決断を迫られた。


 そうして少女は、逃げた。


 いつもの道を通り過ぎ、村を出てあてどなく走った。

 石つぶてが随所に転がる山道を、足の裏が潰れた血豆だらけになっても、肌が傷だらけになってもただただ走った。

 弟を担いでいるせいで消耗は激しく、少女はぜえぜえと息を切らして汗だくになりながらもひたすら走った。

 今思えば夜の野山は危険だらけだった。山賊に狙われるかもしれない、狼にとびつかれるかもしれない。


 ――失うものなんて、もう何もない。


 少女は不思議と、心を解放感が満たしていくのが分かった。

 抑圧されてきた人生に一筋の光が差したように思えたのだ。


 一晩中走りとおして、都の近くまでやってきた少女は泥塗れになっていた。

 少女は都近隣の山中に洞穴を見つけ、弟を寝かせた。

 そして力なくその場に倒れ丸く縮こまった。

 全身の筋肉が声にならない悲鳴をあげているようで、鈍い痛みに耐えていた。


 風穴の内部は真っ暗で、暗がりの中お互いの顔すら見えない。

 だがやがて、差し込んできた朝陽が薄らと二人を照らした。

 少女も気づいてはいたが、弟は途中から起きていた。弟は横たわる少女に、苦しげに一言こう漏らした。


「お姉ちゃん、大丈夫?」


 少女は何も言わず、一滴の涙が頬を伝って地面に流れ落ちた。


「お姉ちゃんは悪くないよ、悪いのは僕だ。本当にごめんね」


 弟は再び咳き込んだ。

 途端に、少女の脳裏を走馬灯のように今まで苦しかった記憶の数々がめぐり、涙腺が緩んだ少女は弟を抱いてそのまま大声でワアワア泣いた。


 少女はその後、こう決意した。

 この子を、私が守らなくては、と。


 二人の生い立ちは、魔性の子として疎まれ、忌まれ、村を追われたところから始まった。


 ○


 遁走の後、少女はしばらく都で人を殺して金品を奪い、食糧を強奪し、生計を立てた。

 村を脱走した少女に行くあても頼るあてもなく、追剥をすることで糊口を凌ぐほかなかったのだ。

 少女は生きるためなら何でもした。

 そして少女はいつしか、人斬りの腕だけを上げていった。

 弟の病気は得た薬によって奇跡的に恢復したが、日に日にやつれていく姉を見て弟は気が気でなかった。

 気づけば少女の肉付きの悪い体からは皮膚を突き破らんばかりに骨が浮きだし、炯々とした眼光は禽獣のようであった。さながら生きている骸骨である。

 弟は、自分の病気はもう治ったのだ、外に出て何かできることをしたい、というようなことを言った。

 すると少女は、お前は穴の中でじっとしていろ、と言って弟の言うことには耳を貸さなかった。


 ある日、弟は洞穴に帰ってきた姉に――言ってはならないことだと百も承知で――苦言を呈した。

「またこれも、盗んできたの?」

 弟の言葉に、少女は俄然食事の支度をしていた手をとめた。

 少女は人を一人殺してしまったことで、良心の箍が外れて抵抗がなくなっていた。

 二人の間を、窯の雑炊の煮え立つ音と炎の弾ける音だけが埋める。

「いつまでもこうしていることはできないよ。盗みだけで生きていくなんて無茶だ」

 弟は追い打ちをかけるように言った。

 少女は唇を前歯で噛みしめて、黙っていた。

「僕はお姉ちゃんと同じ歳なんだ、なんだってできるさ」

 すると少女は弟の顔を思い切り平手打ちした。

「そもそも全部お前のせいでこうなったんじゃないかっ! お前が一人で生きていけないせいで!」

 少女はもっていた匙を投げつけて怒鳴り散らした。

「私だって生きているのが辛い! でも私が守らなかったら、誰がお前を守るんだっ! 一体誰がっ!」

 悲痛な声が狭い洞穴の中で反響する。

 少女は弟の頭を掴んでぐらぐらと揺さぶりながら言った。

「誰が……誰がお前を……」

 そうしているうちに自然と涙がぼろぼろとこぼれ出して、足下の地面を濡らした。

 少女は頭を弟の胸に押し付けてそのまま泣き崩れた。

「……ごめん。悪かったよ」

 弟はそのまま俯いて沈黙した。

 ふと見ると、弟は粗末な服の裾をかたく握りしめていた。


 以後、弟は少女に対して何も言わなくなった。


 ○


 ほどなくして、弟の病が再発した。

 そして薬を得ようにも、この頃とうとう都にも夜討ちや焼き討ちが横行し始め、町は荒れに荒れていた。弟の予想は的中し、盗みだけで生きるのは日に日に難しくなっていった。

 少女は生きる糧を得ることあたわず、生活は困窮を極めた。


 或る日、少女は出ていった町で武士に捕まりそうになって逃げ惑った末、病気の弟を置いたまま一週間ほど家である住処の洞穴を空けてしまった。

 遂に少女が山中の住処に帰った時、弟は既に瀕死の状態だった。

 あろうことか弟は姉の為に僅かな備蓄の食料を残しており、自分が其れに手をつけなかった結果こうなったのだった。

 少女は気がふれそうになって、弟を負ぶい紐で縛って背負うと再び都へ出ようと山道を下っていった。

 そこで彼女は絶望を目にした。


 ――町が、燃えてる。


 見晴らしのよい山の崖の上から鳥瞰した都の町は、まさに地獄の業火ともいうべき炎に包まれていた。人々は荷物を抱えて走り回り、遠くに男たちの怒声が聞こえた。混乱に乗じて強盗を働く不届きものがいるらしい。

 帝のおわす宮殿にまで、火の手は容赦なく襲い掛かった。

 新勢力を率いる何者かが宮に弓を引いたのだ。


 少女は目の前に広がる悲惨な光景を見て、呆然と立ち尽くしている――ように見えた。

 だが少女の瞳はむしろ爛々と輝き、顔に浮かべられていたのは、貪欲な悪鬼の微笑みだった。


 ――あはは、面白いじゃないか。


 少女は夜叉のように頬の肉を引き攣らせて、身体に力が漲ってくるのを感じた。

 好機を得たり、とばかりに少女は都の町に駆け降りると、弟を担いだまま刀を振り回して次から次へと通行人に襲い掛かった。そして、小柄な体を生かして猿のように飛び回り、脅して荷を奪っていった。

 

 ――貴族も武士も関係ない。死ねばみんな同じように死体になる。


 みんな死ねばいい――幼き少女はこの年にして救いのない道を生きていた。

 少女にとって、もはや人を殺すということは記号でしかなくなり、斬りつける感覚ですら快感になった。

 なす術もなく恐怖に喘ぎながら絶命する人間の顔は、少女を得も言われぬ陶酔へと導いた。


 燃え盛る都の町で、彼女はかつて奴隷のように労働を強いられていた人生に別れを告げて、血に飢えた獣が如く思う存分に人を斬った。


 本能のままに、使役されるのみの人間――


 少女は畜生道を生きていた。


 ○


 ――弟は優しかった。


 静寂しじまの内に、少女は思い出す。


 ――


 弟の亡骸の前で、少女は生気を失った顔で座っていた。

 涙はとうに涸れてしまった。

 人としての心はもう、どこかに置き去りにしてきた。


 少女は失意のどん底にいた。


 あの日から少女は弟を助けようとして、盗み出した物品の数々を使い、藁にもすがる思いで必死に薬餌療法を試みた。

 だがまともに教育も受けていない、知識のないこの僅か八歳の少女にそんなことは可能であるはずもなかった。

 水も薬も、いくら口に含ませようとしても力なく唇から零れるだけ。

 少女はやむを得ず、食物を自分の口で噛み砕いて口移ししてみても、弟は食事を受け付けなかった。

 時折瞼と胸が動いていることのみが、弟が生きている証だった。

 少女はようやくここに来て神にすがった。弟の手を握って、どうかお助けください、と死ぬ思いで何度も祈りを捧げた。


 そして――弟は看病の甲斐もなく、間もなく息を引き取った。


 少女は一人、誰もいないぼろぼろになった伽藍堂の部屋――もとは寺院だったらしいが、火災で焼け落ちてしまった――で、弟の死体を寝かせたまま、顔を両手で覆った。そして、爪が食い込むほど強い力で額を掻き毟った。

 長い間不運に見舞われ、たった一人の肉親にさえ先立たれた少女の精神は耗弱し、憔悴しきっていた。


 少女はもう、耐えられなかった。

 その時、少女の心の中でぎりぎりまで引っ張られていた弦が切れて弾け飛んだ。


 ○


 どこの誰とも知れない人間の生首や胴体、腕や脚がばらばらになって転がる都の町――

 初めこそ焼失した家屋の整理をする人々が戻ってきたものの、今ではそうした者たちも絶えて久しい。いるのは寺を荒らす盗賊か、死肉を貪る野犬のみである。


 聞けば、この乱の後すぐに、都はここから北にある別の場所に移ったそうだ。

 先の帝は紅旗征戎こうきせいじゅうが事にあらずという姿勢で、まつりごとに飽いて蹴鞠に耽り詩歌を詠むのみであったという。そして、天下の乱れんこと悟らずして民間の愁うるところを知らざっしかば、久しからずして謀殺されたとか。

 かの国の侵略により先々代の帝が殺されてから、瑞穂の国では出鱈目が罷り通っていた。

 往時、天皇家は幾つもの家に分かれてそれぞれが都を持ち、挙句の果てに帝の血筋を僭称する新皇といったものまで現れ、混乱を極めていた。


 少女が生きる時代――末法思想が広まり、暗雲がこの世を蓋い、人々は社会の趨勢を嘆きながらも時の潮流になす術もなく翻弄されるのみであった。


 そしてここにいる少女の慟哭も、天へは届かなかった。


 少女はあまりにも無力であった。

 逆らえない因果の糸に雁字搦めにされ、この腐敗した世の中でさえ自由に生きることも叶わない少女――

 少女にとって弟は何一つほしいままにならないこの世界で、唯一の救いだった。

 しかしその弟も飢餓により、遂に命を落としてしまった。

 少女が守ろうとしてきた全ては失われ、己の無力さにただ打ちひしがれてこの末法の世を恨むばかりであった。


 いつしか少女は、非業の死を遂げた弟の死霊にとり憑かれたようになった。

 無人の寺院を牙城に、たまに通りかかる人の荷を奪い、逆らえば殺すことも厭わない非情の追剥となった。

 そして今、少女は背中に餓死した弟と亡骸を背負い、盗みを生業として荒れ果てた都で日々生きながらえるのみ――

 もはや何のために生きているのかすらも分からない、いっそ死んでもいいとも思う。だが人を殺さずにはいられない、という奇妙な執念ともいうべき自家撞着だけが少女を生かした。


 少女はそうした生活を一年以上続けた。


 そんな折――絶望の淵にいた少女の前に、ある男が現れた。


 ○


 少女はその日、表通りを歩き回っていた。

 そして少女は懲りもせず、ぐらぐらになってしまった弟の首を負ぶい紐で固定して、懲りもせず背中に背負っていた。猩々の母は死んでしまった我が子を肌身離さず持ち歩くと言うが、彼女はまさにそれだった。


 相変わらず町に人の影はなかった。

 空は忌々しいほどに雲一つない快晴で、少女は果てしない蒼穹を仰いで天につばきした。

 少女は裸足で砂礫を踏みつけながら、このまま何もなくなってしまった方が却ってせいせいする、などと思った。

 少女はもう泣かなくなっていた。

 がりがりに痩せ細った体、

 窪んでけた頬、

 そして光を失って黒ずんだ瞳の浮かぶ双眸――


 全てが少女の生きてきた道の険しさを代弁するかのようであった。

 まともに生きながらえることが難しい世の中で、少女は十分に生きていた。


 しかしそれも、もう限界に近づきつつあった。


 *


 とある倒壊した家屋の塀の前のを歩いている時だった。不意に、遠くから何者かの声が聞こえた。

 声はゆっくりと、だが着実にこちらへ距離をつめてきていた。

 少女は咄嗟に建物残骸の影に身を潜めた。


 声は次第に接近し、大人の男の声であることが分かった。

 少女は僅かに緊張する。

 何者だ?

 耳をそばだてて注意して聞いていると、男は呑気にも鼻歌を歌っていることが分かった。

 この地獄めいた骸溢れる都の町に似つかわしくない、陽気な歌声だった。


 少女は物陰からほんの少しだけ顔を出して、声の主の顔を拝もうとした。

 

 通りの真ん中にいたのは背の高い無精ひげを生やした若い男だった。

 体格はがっしりとして大丈夫とも言うべきで、全体的に角ばった印象を受ける。そのくせ顔は強面でもなく、痩けていて多少えらが張っているが輪郭は丸い。年の割に童顔なのかもしれない。

 煤けた薄い茶色の襤褸を来たその男は、表通りの真ん中を堂々と歩いていた。

 腕を組んで闊歩する彼は飄々として、穆として清風の如き男という感じだった。


 少女はとりあえず安心した。彼は危険な人間ではなさそうである。

 だが――歩き方から推測するに、男は何本かの刀剣ないし槍を持ち歩いていた。

 事実、彼は竹刀袋に似た縦に長い袋を背負っていた。そして錫杖しゃくじょうのような長い棒を杖代わりにしている。

 少女はなんとかして背中の荷物を奪えないか、と思った。

 直接食べられそうなものを奪う方が楽でいいのだが、何分このところこの町には人間が来ることさえ減り、今度いつ獲物が現れるか明確な保証がなかったのだ。


 俄然、男は急に足を止めて、自分の足下を見た。少女は身構えて、様子を見る。

 どうやら草鞋わらじの紐が切れてしまったらしい。


 男はその場で懐から取り出した麻紐で器用に結びなおすと、再び歩き出そうとした。

 そこで、少女は立ち上がろうとした男の首筋に刀を突きたてた。


「――動くな」


 瞬間、男は動きを止めて、少女に背中を向けたまま諸手を宙に突き出した。

 武器は持ち合わせているようだが、そもそも闘う意志がないらしい。


「動けば、命はないぞ」

「分ぁったよ、分かったから、それを突きつけるのはやめてくれないか。これじゃ、身動きすらとれねぇ」


 男の声は朗々として、見た目の割に老けていた。

 少女はそう言われて、刃を男から三寸ほど離した。

 すると男は持っていた一切の荷を蹲ったまま地面に下し、徒手空拳で少女の前に躍り出た。


 少女は改めて、男の姿を目の当たりにした。

 男は一見、武士もののふのようにも見えたが、どうやらそうでもないらしい。着ている服は袖のついたような木綿の服と上等だった。しかし大して路銀を持ち合わせているようでもない。

 一方、男との身長差は二尺以上あって、圧倒的にこちらが不利ではあった。

 だが男はへらへらとして、少女を視界に見とめた瞬間、力の抜けた表情でこう言い放った。


「へぇ、こんな小さなお嬢ちゃんとはね」


 男はあくまで虚心坦懐に振る舞い、呆気にとられたように嗤っていた。

 毒気が微塵も感じられない、心からの笑顔だった。

 少女は意外だった。今まで刀を突きつけて怯える者は数多と見てきたが、自分を殺そうとしている人間に笑いかける者は初めて見た。

 然し――


「黙れ!」


 少女は、般若の如く眉間に思い切り皺を寄せて男を睨みつけた。

 そして、こう言った。

 男の態度が相当気に食わなかったらしい。


「お前、これだけしか持っていないのか。まだ隠しているな!」

 

 男は懐から袖珍本を取り出して、少女の前に掲げた。


「これで全部だ」

「嘘をつけ!」


 男は嘆息して、空中でばさばさとその本を振ってみせた。


「俺は商いをしていてね、これには客の名前とか家の場所とかが書いてあるだけだ。こんなもの持ってても仕方ないだろ、お前は。

 これ以外じゃ今持ってるのは精々、さっきお前の前に置いた刀数本だけさ」


 少女の足下には布に包まれた刀が数本転がるのみ。

 どれもが見るからに使い古され、ぼろぼろに傷んでいた。


「……持っている荷を置いて早々に立ち去れ」


 すると男は再び嗤った。


「まあ、俺だって本当はそうしたい所なんだが――」


 男は目にもとまらぬ速さで少女の足下に敏捷に駆け寄り、地面に散らばる刀の中でなぜか長い杖のようなものを回収した。

 少女はあまりに素早い動きに、思わずたじろぎそうになった。


「――お前に、ただならぬ気配を感じるんでね」


 快刀乱麻!

 男は素早く錫杖――否、尖端についていた布を振り払うと、槍を手に取った。

 少女は、これまた奇妙なものを武器に使っている、と思った。

 男が持っていたのは先が三つ又に分かれた槍の一種、三叉戟さんさげきだったからである。装飾品のようなそれは、いささか実戦向きの武具とは言い難いかもしれない。


「戦う気か」


 少女は煤汚れた鼻を片手で拭うと、久しぶりに張りつめた空気をひしひしと感じながらも不敵に微笑んだ。


「俺に女子供を虐げて悦ぶような趣味はない。どちらが強いかなんて明白なのに、そんなことをしたら可哀想だ。だが……」


 男は背筋をまっすぐ伸ばして武者震いすると、少女の前に立ちはだかった。

 そしてようやく真剣な眼差しになって見下したように少女を見つめた。


「……先に刀を抜いたのはお前だ」


 男は長い槍を、少女の方へビッ、と突き出した。


「こんな小童こわっぱ、しかも女子おなごに負けたら男の恥――いや、末代までの恥だ!」


 さっきまでとは打ってかわり、愚弄している様子は見受けられない。

 男は槍術の構えをした。

 二人の間を、砂埃を伴った一陣の風が吹き抜けた。

 今まさに、戦いの火蓋が切って落とされようとしていた。


「殺されても文句を言うなよっ……!」


 男はそう叫びながらダダッ、と勢いよく走り寄ると、少女に槍を突き刺そうとした!


 少女は寸での所で攻撃を交わし、男の背後に回ろうとした。

 繰り出された槍がヒョウッ、と空気を切り裂く音が周囲に響き渡る。

 

 瞬間に、舞い上がった土煙が、旋風のように二人を包み込んだ。


「お前、なかなかいい動きをするな」


 少女は男の視線に射竦められまいと、全身の毛を逆立て威嚇する虎のように咆哮した。


「真剣勝負に槍を使うなんて、舐めてるのか?」


 少女は嘲る。

 すると男は顔を顰めて、再び鋭い槍の刃先を少女に向けた。


「喋ってる余裕があったら戦え!」


 斬ッ――!

 振るわれた槍を後ろに体を反ってなんとか交わした少女は、刀で槍の柄を受け止めた。


 ギャンッ!

 澱んだ空気を貫き、耳をつんざくような金属と金属がぶつかりあう音が響く。


 少女の日本刀は衝撃で刃が僅かに零れ、まるで火花が飛び散ったかのように見えた。

 そして男は少女が怯んだ隙を見逃さず、そのまま狂ったように何度も斬りつけながら前進した。


「こんな錆びついた刀で勝てると本気で思ってるなんて、いい度胸だッ!」


 ギャン、ギャン、ギャンッ!


 刀と槍のぶつかり合い、とめどない応酬が続く。

 しかし少女も負けてはおらず、男が振り回す狂気を全てぼろぼろに錆びついた刀で受け止めた。

 しかし――


「これでどうだッ!」


 男はたじたじになっている少女の頭上から槍を叩きこんだ。するとすかさず少女は刀身でそれを受け止めた――が、しかし。

 すると男は何を思ったか、急に振った槍を一旦引いて、もう一度鋭く少女の心臓を一突きしようとした。


 ――刹那。

 少女は片腕を地面につけて側転し、と素早く横へ避けた。


 その時、宙を舞う少女の右腕にすっと赤い横線が走った。

 後ほんの少し横にずれて刺さっていれば、利き腕が使い物にならなくなっていたかもしれない。


 少女は今さらながら格の違いを感じていた。


「――強いな」


 男は汗だくになりながら、一言そう漏らした。

 砂埃の舞う荒れ果てた都の町で、二人は吐息が荒くなって咳き込みそうになる。


「刀を振り回す蟷螂かと思っていたが、猿みたいな奴だぜ」


 油断を見せることは許されない。

 少女は寺院の門を後ろ手に立ち、男は焼け野原の続く表通りを背後に陣取った。


「……お前こそ、ただの商人あきんどではないな」


 少女は精一杯、全身の毛が恐怖に粟立つのを抑えようとしていた。

 そして後方へ押されながらも、反撃の機会を狙っていた。

 ――気合で負けたら、終わりだ。

 今一度、少女は自分の中に残された生存本能を信じ、心の中で気を引き締めた。


 二人は見つめ合いながら、じりじりと距離をつめながらゆっくり歩いていた。

 男はお互いの力が互角であることに驚き、少女は男に気圧されそうになって焦った。

 鎧袖一触だと思われたその戦いは、両者一歩も引かない延長戦へ持ち越されようとしていた。

 晴天の太陽が、今日ばかりは憎らしい。体力を温存したくとも、蒸発した汗が力を奪っていく気がした。

 ぎりぎりの駆け引きが続く。


 そして――先に踵を返し走り出したのは、少女だった!


「逃げる気かっ!」


 少女は男に背を向けると、颯の如くダッ、と門の方へ走りこんだかと思うと、煙のように姿を消した。


 男は寺院の中に駆け込む少女を追って、境内にさっと全速力で走り、中を見渡した。

 ――が、誰もいない。


「おい、出て来い! 怖くなって逃げ出すとは、卑怯者ぞ!」


 男は無人の境内で叫んだ。

 そして、嗾けるようにこう言いかけた――


「そんな刀でいつまでつか……」


 ――瞬間。

 男は背中にこの世のものとは思えぬ妖気を感じて、後ろを振り向いた。

 少女は所々腐って抜け落ちた本堂の床の上に立っていた――背嚢を背負って。


「なんだなんだ、そんなもの背負って! 邪魔だろう」


 少女は無言のまま男に凄まじい勢いで走り寄ると、刀を思い切りふるった。

 ギャンッ!

 男は槍で刀を受け止めたじろいだが、同時に違和感を覚えた。


 ――何だ、この感覚は?


 少女は、この世のものではない禍々しい何かを小さな体で必死で抑え込んでいるような、何とも言えない不気味な気配を漂わせていた。


 男と少女は庭を飛び回り、戦闘は時に建物の中にも及んだ。

 しかし男は解せなかった。少女が敢て、背中を曝しながら戦っているように見えたからだ。


「どうしたァッ! 後ろががら空きだぞ!」


 高速で移動しながら男は話しかけたが、少女は反応しない。

 男は少女の繰り出す攻撃を交わしながら、隙だらけの背後に回って斬りこむことを試みた。

 一体、中に何を入れていやがる。


 男は再び少女が屋外に出た時、太陽光線に怯んだ一瞬の不覚をついて、槍を背嚢ごと貫通させつき刺した!


 少女は男の槍を受けて僅かな間その場で動かずに立ち止まっていた。

 決まった!

 ぐさり、と突き刺さった槍は心臓を貫いて、少女を死に至らしめる――

 男はそう確信して追い打ちをかけて、この鬼の子のはらわたを抉ろうとした。


 ところが――少女はすぐにひらり、と身を翻し、後ろに回転しながら塀の上に飛び乗った。

 馬の尾のような髪がまるで生きているかのようにうねる。


 男の額には脂汗が浮かんでいた。

 何せあともう一歩のところで、急所を外してしまった。

 あの瞬間、燦々と輝く陽光に照らし出されて、少女の背嚢の正体を見たからだ。

 男は少女の背中にあったそれが、子供の亡骸であったことに気づいてしまったのだ。


「お前……まさか……」


 その時、男の左腕に鋭い痛みが走った。

 上腕部が切り刻まれ、血がみるみるうちに滲み出す。

 男は同時に留めをさそうとした少女の凶刃を、間一髪の所で躱したのだ。


 そして、この少女が何者であるのか、今はっきりと思い出した。


「モガリ、だな……」


 ――やはりこいつは、殺さなくてもよかった。


 男は痛みに耐えかねて、膝を折った。

 最近巷で噂になっている、都に出る女子の物の怪とはこの子であったらしい。

 少女は塀の上に蹲踞したまま、男の言葉に応えた。


「そうだ――本当の名、ではないが」


 そして少女はそのまま、ぐらり、と倒れこむと塀の下に頭から落下した。


 ○

 

 男は急いで気を失っている少女のそばへ駆け寄った。

 流血しながら地面に突っ伏す少女は虫の息で、肺に血が入ったらしくゲホゲホと大きく咳き込んだ後、呼吸する音さえも次第に小さくなっていた。

 もはや今際の際、このままでは命が危ない。だが――


 まさかとは思うが。


 男は少女の背中に括りつけられた子供の木乃伊を無理やり引きはがした。

 少女と同じぐらいの男のものであろうその死体は、首がぐらぐらになってしまっていていた。

 死んでからもうかなりの年月が経っているらしく、そもそも原型をとどめているのが奇跡的だった。

 そして死体に己の身体を近づけると、さきほどのこの世のものとは思えぬ妖気を感じ、心臓の鼓動が高鳴った。


 予想通り――。

 確証はないが、そう考えざるをえない。


 男は一人で納得していると、少女の手が彼の服の裾を握った。

 少女は男の目の前で、生まれたての小鹿のようにぶるぶると震えていた。


「やめ……ろ……」


 かすれるような声で、少女は苦悶の表情を浮かべながら言った。

 少女は最後の力を振り絞って、弟の亡骸を守ろうとしていたのだった。

 その時少女が見せた顔は、もうさっきまでのような人殺しの顔ではなかった。

 それは弟を想う、優しい姉の顔だった。


「……すまねぇことをした」


 このままでは死んでしまう。

 男は目を瞑って、両手で頭を抱えた。


「だが勝負は勝負だ、俺にはもうどうしてやることもできねぇ」

 

 男はぼさぼさの頭髪を思い切り掻き毟ってから、拳で膝を思い切り叩きつけた。

 今さらながら無関係な子供を殺めてしまった後悔の念が男を襲う。


「――死ぬ前に、お前に言うことがある」


 少女は苦しみながらも、男の告白に耳を傾けた。

 男は静かに語り出した。


「ヤサカニノマガタマ、というのを知っているか?」

 

 少女は首を振る気力もなく、消えゆく命の灯をなんとか保っていた。


「手に入れれば、不老不死も夢ではない、恐ろしい力を秘めた玉だ。

 その昔、帝がかの国の凶刃に倒れ崩御なすった時に、ばらばらに砕け散ってしまったという話だ。玉は人に寄生して、その人間の人生を良きにつけ悪しきにつけ、変えられない運命へと導くという」

 

 男の話しぶりは衒学的だったが、少女は自分の遠い記憶を掘り起こして誰かがそんなことを語っていたように思った。

 だが――


「それ、が……どうした……」


 ――それが何だというのだ。

 雲上人の生活など、少女のような虐げられるだけの幼い子供には関係ない。

 しかし、その時男はひどく狂気じみた表情で顔を顰めてから、にっと歯を剥きだして言い放った。


「――お前の弟には、玉が宿っている。しかもかなりでかいやつだ」


 少女はあまりのことに、固唾を飲んだ。

 そんなバカなことがあってたまるか。


「どう、して……そんな、ことがっ……、分か、る?」


 すると男は右手を自分の左胸に手を当てて、自分の鼓動を確かめていた。

 そして再び頷いた。


「俺はお前の弟と同じように、体の中にある玉を宿している。玉はお互い近づけば心の臓に働きかけ、互いの位置を知らせることができる。まァ、つまり文字通り一心同体ってこった。

 だから俺には分かるんだ」


 ――何を言ってるんだ、こいつは……。

 少女は、あまりに常軌を逸脱するようなことを平然とぬかす男の口ぶりに、聞いているだけでは信じがたく嘘っぽさを感じた。

 だが男の真面目な目つきは、丸っきり荒唐無稽なことを言っているようにも見えなかった。

 

「そして今、お前が生き延びる方法は一つしかない」

 

 少女は意識が朦朧とする中、確かに彼がこう言うのを聞いた。


「――


 男の顔は真剣そのもので、少女は言い知れぬ狂気を覚えた。

 

 しかし――男はほどなくして、普通の顔に戻った。


「すまん、今言ったことは俺の憶測でしかねぇ」


 男は嘆息して、少し嗤った。どこか寂しげで、哀しげな笑いだった。


「お前が弟の心臓の中に入っている玉を体に取り込んだところで、生き返る保証はねえ。

 第一、そんなものがお前さんの弟の体の中に宿っていたんだとしたら、病気でも飢餓でもなんでもいいが死んじまった理由の説明がつかねぇのさ。

 このご時世じゃ、確かに生きていくのは厳しい。だがな、玉を持ってる者はただの人間じゃねぇ、半分神様みたいなもんだ。その神様が並大抵のことで死ぬようには思えないんだ」


 そうさ。この子の死体に玉が宿っているなんて、ありえない――

 この子をなんとしても生かしてやりたい――男は自身の罪悪感とやるせなさから、戯れにこんなことを言ったのだった。


「本当にすまねえ。こればっかりはお天道様にも申し訳が立たんわ」


 男は目を瞑って首を左右に振りながら、飢饉に人生を狂わされてしまったこの幼い少女を憐れんだ。


 もう少し、もう少し良い時代に生まれていたら、もっと変わったかもしれない。 

 この子は鬼の子なんかじゃない、ただの人の子だ。それも優しい弟思いの女の子だ。


「だから俺の言ったことは忘れて――」


 だが男が再び眼をおずおずと開いたとき――


 男は思わず目を、いや己の正気を疑った。

 なぜなら男はこの短い人生の中で、最も忌むべきおぞましい光景を目の当たりにしていたからだ。


「おいっ、お前っ……!」


 男は恐怖のあまり凍りついた。

 少女は弟の死体をばらばらに引きちぎって、はらわたを喰らいだした。

 死にかけであるというにも関わらず少女の目は爛々と輝き、まるで狂疾にでも罹ったように何の躊躇いもなく、がりがりの細い腕で力強く肉を引き裂いていく。

 実の弟の肉を喰らうなど、人間の所業ではない――こいつは人の皮をかぶった悪魔だ。


 男は戦慄し我を失っていたが、気を取り直して少女を止めようとした。


 ○


 少女は男の制止を振り切って、無我夢中で弟の死体にありついた。

 貪る死肉の味は、まったくもって旨いとは言い難く、少女は幾度も嘔吐しかけた。

 そして、今までの短い人生を思った。


 訳もなく生を受け、好きでもなく働き、働いても虐げられ、虐げられても働いた。

 弟は少女にとって唯一のまっとうな生きる理由だった。

 だがその弟が死んでしまったこと、もっと言えば自分のせいで死んでしまったことは少女にとって甚だ受け入れがたく、少女の精神をじわじわと犯していった。

 

 生きたい、生きたい、生きたい――


 頭の中で木霊のように連呼するそれは、少女の爪を弟の心臓の内側に巣食っていたそれまで辿り着かせた。


 少女は死肉のかたまりの中にある、固い塊に自分の指が触れるのを感じた。

 そして、息を荒げながら肉ごとその塊を引きちぎると、妖しい紅い光を帯びたその玉を人差し指と親指でつまんでみせた。


 ――これが……


 それは二寸ほどあろうかという水晶玉のような赤黒い丸い玉で、まるで内部で溶岩が湧水の如く湧き出しているようにも見えた。

 暮れ泥む夕陽の光に染まる雲にも似た色の玉は、男が言った通りの代物だった。


紅蓮ぐれんしゅ、か……?」


 男は玉の美しさに思わず息をのんだ。

 

 ほんの一瞬――少女は口をあんぐりと開けると、飴玉か何かのようにいとも容易く玉を口の中に放り込んだ。































 額に微かな違和感を覚えて、少女はうつつに戻った。


 おずおずと両の目を開いてみると――寝ぼけ眼でしかと見えぬが――一匹の蠅が頭上を飛び回っているようだった。

 彼女の顔の上を虫が這っていたらしい。

 窓枠から幾筋かの光線が漏れて、埃っぽい空気の中に光を投げかけていた。


 此処は、何処だろう。

 

 覚醒すると同時に鈍い痛みが体中に走る。

 少女は仰向けに寝転がったまま、天井の渦のような木目を見つめて、時折外から入ってくる人々の濤声を聞く。

 辺りには湿った土の匂いが立ち込めており、横眼で見る限り何の用途で使うのか分からない道具類が散乱していた。

 小屋の中、なのだろうか。


 ――どうやら、私は生きているらしい。


 藁が敷かれた土間の上に寝かされていた少女は、身動きもとれないままぼんやりしていた。

 ここへ来る前の記憶があやふやだ。

 少女の思考は混濁していた。

 まるで頭の中に直接何かを流し込まれたかのように、ひどい頭痛がする。

 意識が、頭脳が、何を考えるのも拒んでいるかのように思われた。


 はたと、背中に弟の遺骸がないことに気づく。

 

 どこだ、どこにいる――

 

 少女は血相を変えて急に起き上がり、背中を弄ったりあたりを見回したりして、あるはずもない弟の姿を求めた。

 刀もない、あの刀がないと、私は……。

 そして、焦燥に駆られて我を失いかけた時、何気なく自分の右腕に傷跡をみとめた。

 

 ――ああ、そうだった。


 少女はじたばたするのをやめて、傷に見入った。

 水平に横にスッ、と走った生々しいこの傷跡は、明らかにあの時のものだ。

 少女はあの無精ひげを生やした若い男のことを思い出した。

 彼は私を刺し殺したはずだった。

 そうだ。こういうふうに、心臓を一突きして――


 少女は自分の左胸を掌で軽く押さえた。

 すると小さく、弱々しくはあるが、確かに鼓動が脈打つのが手を通して伝わってきた。

 しかし――


 なぜ、私は生きているのだ?

 

 まず心臓を貫かれて生き延びるというのがおかしい。

 普通の人間なら死ぬはずだ。

 それになぜ彼は私を殺さなかったのか。

 もう既に虫の息だった女子おなごを一人殺すなど、赤子の手をひねるようなものではないか。


 時間が経って黄色く変色した藁の上で、少女は両脚を折ってへたり込んでいた。

 湧き上がってくる数々の疑念が、少女の小さな胸の中で膨れ上がっていく。

 そして、記憶の糸をやたらめったら手繰り寄せるうちに、少女をある一つの残酷な事実へと導いた。


 


 たまらず、少女は脱兎のごとく駆け出した。

 誰もいない部屋を抜け、腐り掛けた戸を思い切り開き、一人息を荒げて家の前の通りに裸足のまま出た。


 すると――

 燦々と輝く太陽の光の下、少女は思わず目を手で覆った。

 そして明るさに目が慣れた頃もう一度辺りを見回すと、そこには、見たこともないほど多くの人で賑わう都の姿があった。


 耳を塞ぎたくなるほどの喧騒が四方を満たし、無理に突っこんでいけばたちどころに押し返されてしまいそうな膨大な人の波が押し寄せていた。

 通り沿いには老舗が軒を連ね、遠く塀に囲まれた皇居には旗が翩翻へんぽんと翻り、道には女子供も僧も貴族も、かつての恭仁京のように自由に行き交っていた。

 都邑の雑沓が、人々の声が、少女の周りに溢れていた。

 七堂しちどう伽藍がらんが焼失せずに未だ残り、仏への信仰が息づく街――


 こんな場所があるなんて。


 あまりの壮観な光景に呆気にとられた少女は、たくさんの人々が通りすがりに怪訝な視線を浴びせるのも気にせず、悄然として声もないようだった。

 世界は終わってはいなかった。

 国が混乱する前の民衆の暮らしが息づくこの場所は、少女の気持ちを僅かでも穏やかにするかと思われた。


 しかし、一時のまやかしに幾ら事実から目を背けようとしても、自分がしでかした罪から彼女は逃れることができなかった。

 やがて我を失った少女は頭を抱えたままガタガタと震えだした。


 私は人間を食べたんだ、しかも実の弟を……。


 するとそこに、野次馬を掻き分けて一人の精悍な男が現れた。

 男は数本の刀を背中に担いで、手拭いを鉢巻代わりに巻いていた。


「おう、ガキ。目が醒めたか」


 それは紛れもなく彼だった。

 少女は目が弾けんばかり瞼を大きく開いて固まっていた。

 男の声は少女の心には届かない。

 異変に気づいた男は嘆息して、少女の手を引いた。


「――少し、中で話そうか」

 

 ○


 男の部屋の中――

 男は土間の椅子に腰かけ、少女は藁の上に正座していた。


「さて、何から話したもんかねェ」


 男は、死にかけていた少女がどうして生き返ったのかについて、多くを語らなかった。

 そもそも少女は模糊として記憶がないのだ。


「あの後、お前さんを止めることができなかった俺は、が引き起こされてしまった」


 少女を見つめる男は瞳の奥には、深い闇が湛えられていた。男は、少女の身に起きたことについて思い出した。


 *


 少女が例の赤い玉を喰った直後、少女は苦痛のあまり顔を引き攣らせて地面にのた打ち回った。


「バカ野郎っ! なんて真似をするんだ……っ」


 男は痛む右腕を押さえつつも少女に駆け寄った。

 しかし男が必死で彼女の体を抑え付けようとするも叶わず、男は急に足をすくわれた。

 ごう、という凄まじい烈風が男を吹き飛ばしたのだ。


「ウワァアアアアッ!」


 そして少女の体はまるで雷にでも打たれたかのように跳ね上がった。

 ただならぬ妖気が霧のように立ち込め、あたりを丸く包み込んでいく――。

 男は恐れ戦いて、少女から一旦離れて様子を見ていたのだという。


 すると旋風とともに宙に舞いあがった少女は、胸の上に巨大な梵字を大きく浮かび上がらせた。

 禍々しく光輝くその赤い字は閃光を放ち、空間を捻じ曲げてしまうほどの圧倒的な影を作り出して全てを飲み込もうとした。


「くっ……」

 

 男は命がけで少女に近づいた。

 少女の体はこの世の理に逆らって宙に浮きあがり、髪は天へ向かって垂れ下がっていた。

 そして必死に地面に這い蹲りながら、男は懸命に目を開いてその梵字を見つめた。


 こいつの体にとり憑いていた化け物の正体を掴んでやる……。

 最後は半ば執念だった。

 男は、はっきりと見た。

 映り込んだのは――『シリー』、彼でも分かる数少ない梵字の一つだった。

 男は一瞬間の内に状況の深刻さを悟った。

 ほどなく、彼は機転を利かせて、猛烈な風の中立ち上がり合掌した。


「……オン、マカシリ・エイ・ソワカ」


 男は一人、真言を唱え出した。

 はじめ彼の詠唱する声は小さかったが、やがて声を張り上げて威嚇するように、男は途切れることなく喉が枯れるまで叫び続けた。


「オン・マカシリ・エイ・ソワカ、オン・マカシリ・エイ・ソワカッ!」


 吉祥天を表す梵語は荒れ狂う玉を鎮め、大地を覆う妖気は微かに揺らぎだした。

 だが依然としてただならぬ気配は治まらない。

 ――糞が、埒が明かねえ。

 男は乾坤一擲、一世一代の賭けに出た。


「俺は――だ、『――』を有す神なりっ! 貴様の眷属ぞっ、言うことを聞けっ!」


 何を思ったか、男は宙に浮かぶ少女の体を抱き留めた。

 前腕の骨がばらばらに砕け散るほどの圧力がかかり、重みに耐えかねて呻き声を上げた。


「我が命、惜しくはない! こいつを殺すな!」


 猛烈な痛みに感覚が麻痺していく中――

 男は冷たくなっていく少女の肩を抱きかかえて、耳を聾するばかりの大声で絶叫した。

 すると段々と、力が弱まり始めた。


 そうだ、こいつは殺してはならないんだ。


 頼む――目を固く閉じて、男は残りの力を振り絞って祈った。

 心中する覚悟だった。


 すると――不思議なことに、妖気の塊が薄らいでいく。

 段々と、全てを覆いつくしていた影が消えていく。

 やがて少女は再び地面に落下し、立ち込めた妖気は雲散霧消し、もとの焼け野原の荒れ果てた都の町の風景が戻ってきた。

 

 そして蘇生した少女の体は「しゅ」――吉祥天の力を有す紅蓮の玉を有した。


 *


 こうして事なきを得たが、少女は気を失ってそのまま二晩目を醒まさなかった。

 あの後男は少女を背負って、自分の住んでいる街まで戻ってきたのだ。


「あの時の俺は浮かび上がった梵字を見るなり確信した。ああ、お前さんの弟に宿っていたのは『吉祥天』なんだと」


 そう語る男はどこか愉しげだった。


「信じようと、信じまいと、いずれにせよ事実は変わらない」


 少女は俯いたまま、歯を食いしばっていた。

 彼女は半信半疑だった。

 男の語った話はいささか超現実的で、信憑性に乏しいものだったからだ。


「まァ、それよりお前さんの死んだ弟について話を聞かせてくれないか。弟はどんな奴だったんだ?」


 男は無精ひげに手をあてて訊く。

 少女は触れられたくない問題について問われて、壁際に立てかけられた自分の刀を見つめたまま口を真一文字に結んでいた。


「お前は俺のおかげで生き返った。感謝しろよな」


 男は腕組みをしたまま豪快に笑った。

 少女は腿の上に押さえつけていた拳を、思い切りギュッと握り締めた。


「まぁ、これからの人生も長いし、適当に生きるこっ――」


「――その汚らわしい口を閉じろ」


 少女は目にもとまらぬ早業で壁際の刀を手に取ると、男の首に突きつけていた。


 笑ってなど、いない――少女は吊り上がった眼はまるで獲物を前に餓えた野犬のようだ。

 それまでの雰囲気から一転して、男の部屋は殺伐とした空気になった。


「よくも……」


 少女は命の恩人である男を殺そうとした。

 にも関わらず、男は笑うのこそやめたが、余裕綽々という感じだった。

 何が可笑しい、少女は憤った。


「何故だ、何故私を生かした?」


 憎い――やり場のない哀しみを抑えきれず、敵意をむき出しにして男に迫った。


「生かした? お前が生きる道を選んだんだろうが、弟を踏み台にして」


「踏み台になどっ……」


「さっきの質問は悪かったな、少し言い方を変えよう」


 男は座ったまま、少女に視線を合わせて力強く見つめた。


「お前の弟はどんな奴だった? 優しくて、人の為に自分を犠牲にしてもよいと考える奴だったんじゃないか?」


 少女は俄然、不意をつかれてはっと動きを止めた。

 頷きこそしなかったものの、それは男の言っていることが正しいということを意味していた。


「――そうか、やはりな」


 男はしたり顔で微笑んで、話を続ける。


「お前、そのまま俺の首を刺そうとしてみろ」


 男は無表情だった。

 少女は躊躇いなく、男の首を刎ねようとした。

 だがしかし――


「どうした? 殺せるなら殺してみろ」


 体が動かない。どんなに彼に刀を突きたてようとしても、力が抜けてしまう。

 少女は焦燥に駆られて、全身の皮膚からだんだんと冷や汗が出てくるのを感じた。

 男はどすの利いた声で一喝する。


「殺せ!」


 ――できない。


「簡単だろう、今まで何人も何人こうして手にかけてきたんじゃないのか?」


 少女の一抹の不安は、やがてどうしようもない戦慄へと変わった。

 男は刀の柄を掴んで、自分の首に突き付けた。


 威圧的な態度――男の二つの黒い瞳孔に射竦められ、少女はいつの間にかすっかり怯えていた。

 そして――男は嗤った。


「アッハッハッハッハ!」


 少女は激しい動揺を隠しきれないまま、男を殴ろうとしたが、それでも彼女の体はびくともしなかった。

 男は嘯く。


「ハッハッ、お前は本当に愚かな奴だ!」


 男の気持ち悪い笑い声が耳について、少女はとても不快だった。


「笑うな!」


「人の話を聞け、って」


 両腕を広げて、男は得意げに言う。

 少女は激情に身を任せて今にも彼を刺し殺そうとしていた――心の中では。


「吉祥天は慈愛の神だ。そしてお前の弟さんは体の中に吉祥天を宿した紅蓮の『珠』を体内に有していた。そしておそらく『珠』に因縁づけられた人間は、自分を犠牲にしてでも周囲の人間が幸福ならそれでいいと考えてしまう」


 少女は訳が分からないという様子で黙りこくっていた。


「俺はお前の人生を一部始終観察してたわけじゃないから本当のことは分からない。

 だがおそらく、お前の弟はお前のように、自分が生き延びるためなら他人を斬り殺しても構わないという生き方はできなかったんじゃないのか? えぇ?」


 男は庵の壁が震えるほどの大声で叫んだ。

 確かに、男の言う通りだった。

 弟はいつも誰にでも平等に優しくて、結果身を滅ぼしてしまったのだ。


「要はな、お前さんが体に宿している『珠』が意味してるのは、悪しきことのために人を殺むにあたわずという戒めさ。もしお前が玉の運命さだめに逆らって何かをしでかそうものなら、『珠』はお前をどうするか分からない、心臓を食い破って死に至らしめるかもしれん。

 簡単に言えばお前は、これから先人をやたらめったら斬り殺すことができない、っていうことだよ」


 少女は愕然とした。

 今までの人生が全て、まるで天の意思のような巨大な何者かに操られていたかのような錯覚――それはあまりに理不尽で、残酷で、それでいて妙に事実と合致していて、彼女を追い詰めた。

 然し――


「そんな話、信じられるかっ! 出鱈目なことを言うな!」


 少女はぶるぶると肩を震わせながら振り絞るように言った。

 彼女はどうしても何もかもを認めたくなかった。


「――でも、現実にお前は『珠』の力で生き残った」


「嘘だっ! そんな馬鹿なこと……」


 そうだ、そうに決まってる。

 これは悪い夢なんだ。

 少女は自分の置かれた境遇が信じ難く、耐えられなくなって必死で口を動かした。

 だが男は険しい表情で、少女に語りかけた。


「馬鹿なことじゃない、事実だ。

 お前は、呪われてしまったんだ。お前は自分の命が惜しいあまりに、自らこの八神大玉を巡る因縁――いや、呪いに足を突っ込んでしまった」


 畳み掛けるように男は強い口調で迫る。

 この若い男はこうして見ると、まるで壮年の男性のような哀愁を湛えていた。

 彼は十歳に満たないこの少女にも容赦ない。


「大体、私はお前の口からしか話を聞いていないんだ! 全部作り話かもしれないじゃないか!」


 少女は癇癪を起して手当たり次第に部屋の中の物を壊そうとした。

 しかし少女は剣をふるうことがかなわず、代わりに石を投げようとするが見当違いな方向へと飛んでいく。

 男の言うことは本当だった。


「私は……私は、そんな、この世のものでない力を宿すような、特別な人間なんかじゃない」


 少女は自分の思いのままに体を動かすこともできずに、小さく嗚咽を漏らした。


「特別、か。少しは自惚れたって構わないぜ、もうお前は人間ではないんだし」


 顔を上げて男を見た少女ははっとした。

 男は激しい口吻だったが、身体からは悲愴な気が漂っていた。

 そうだった――彼もまた、例外ではないのだ。


現世うつしよには今、百八つの玉がある。先々代の帝、スメラミコトが崩御なすった時に玉は割れ、四散したそれは瑞穂の国に生きる民草として転生した。

 玉を宿す人間は千差万別ときてる。やんごとなき血筋の貴族もいれば、刀を振るい猛る武士もいるし、商人に百姓、いやしい乞食も物乞いも、という具合に貴賤上下の区別はない。

 玉は平等に数多の人間にとり憑き、多くの場合望まない運命へと導く、と聞く」


 まるで琵琶法師のように、男は詩を朗読するが如く静かに語った。

 少女は男の独白に耳を傾けながら、その場で中腰のまま固まっていた。


「百八つの玉は大陸の果て、遠く天竺で信仰される神にまつわるものだそうだ。

 そのうち、八つの大玉には名前がついてる――しゅぎょくのうへきけい、っつう具合にな。こいつらは特別な地位を占める神様を宿してるってんで、重要視されてるんだ。

 これが通称『八神大玉』――ハッシンタイギョクとかヤガムダマとか言われてる代物だ。

 しかし、まさか八神大玉を持ってる人間の一人が死んじまうなんて、お天道様の考えることは分からねえな」


 そして男がこの後言った言葉は、少女の今後の人生を決定づけるものとなった。


「前も言ったと思うが、俺もお前と同じようにこの腹の中に玉を有している――八神大玉の内の一つを。

 そして、この八神大玉の全てが集まりし時、末法の世は終わる。この国に蔓延る禍は一掃され、神仏にすがって欣求ごんぐ浄土じょうどせずとも民草は極楽へ導かれるだろう――」


 男はここでいったん喋るのをぴたり、と止めた。

 少女は固唾を飲んだ。

 狭いぼろ屋の中で、男と少女の間にただただ静謐とした時間が流れる。


「っつう話を、知り合いの坊主から聞いたんだがね。

 で、お前は、『しゅ』――そして俺はその他七つのうちのいずれか。

 もうすでに二つの玉が、ここに相対しているわけだ。これが何を意味するか、分かるか?」


 少女は押し黙ったまま、何も口にしない。

 彼女はすっかり冷えてしまった自分の腕をつかんでさすっていた。

 沈黙が続き、男は溜息をついて再び語りだす。


「やれやれ、強情だねぇ……」


 せっかく俺が自分の手の内を明かしてやったっていうのに、もう少し喜んでもいいんじゃないか。

 男はぼさぼさの髪を掻き毟りながら、一人少女の孤独に思いを馳せた。

 一方的な情報を与えられても、この子は信じる他ないのだ。


「俺が信用できないのも仕方あるまい、手始めに自己紹介しよう。

 俺の名は、カヌチという。刀鍛冶なんぞをやっているが、このご時世人を斬る人間ばかりでいけねえ。俺は、そういう世の中を終わりにしたいんだ」


 カヌチ、という男は作業用の小さな木製の腰かけにどすん、と腰を落とすと、柄でもないのに気を取り直して気さくに話し出した。


「そもそもカヌチってのは俺の通り名だし、何でも好きに呼んでくれ。お前さんは……モガリ、だったな?」


 男は破顔して、腹を割って話し合う構えだった。

 しかし少女は頑なな態度を崩さない。


「……その名前で呼ぶな」


 少女の気迫に、カヌチは少しばかり気圧されそうになった。


「名前などいらぬ」


「しかし、名前がないってのもよォ?」


 少女はむすっとして男と会話する気など端からないようだった。

 これが少し男は癪に障った。


「俺は無為な殺生が嫌いでね、お前みたいな人間は呪われてくれてよかったさ」


 この言葉に再び少女は激昂するが、何分彼に手を出すことができないので少女はすっかりおとなしくなってしまった。

 そして、男はこの先の暮らしについて現実的な話を始めた。


「お前もどうせ行くあてもなかろう、しばらくはここに泊めてやる。

 ああでも、母と叔父夫婦がすぐ近くに住んでるんだが、ここは作業場だしむさ苦しいし、なんならそっちに泊まってもいい。

 その代わり、俺に協力するんだ。商売道具である左腕を台無しにしてくれたつけを払え」


 少女は何を要求されるのだろう、と内心びくびくしていた。

 思えば少女の人生はずっと、何かに支配され、使役され、自由にならないことばかりだった。

 ――今度もまた、そうなるのか。

 ところが、ここで男は随分と抽象的な交換条件を提示した。


「俺と一緒に、残りの六つの玉の所在ありかを探してみないか?」


 少女はその時の男の顔を鮮明に覚えている。

 黒々とした両の目は少女の眼を真っ直ぐ見つめていた

 それはまるで、彼女のこれからの生涯を見透かしているようにも感じた。

 そして、人の気持ちなど全く考えない彼の言動に多少嫌な気もしたが、それ以上に彼の提案が意外であった。


「このところ俺はヤサカニノマガタマについて色々調べてるんだが、どうも一人じゃ手が回らなくてね。俺と出会ったのが運の尽きだったと思って、ついてこいよ」


 あまりのことで、少女は肯んずることなくその場に佇んでいた。


「別に、悪い話じゃないだろ? 働け、ってんじゃないんだし」


 少女はむしゃくしゃして、乱暴な口調で尋ねる。


「……一つ、聞いていいか?」


「何だ」


「お前には何の玉が宿っているんだ?」


 少女はかねてより思っていた疑問をぶつけた。

 さっき、男は自分の碧についてあまり多く触れなかった。


「そいつは教えられんな」


「なぜだっ」


「無理なものは無理だ」


 少女は噛みつくように男に食い下がるが、男はがんとして少女の質問を受け付けようとしなかった。


「もう一度聞く。お前は、どうして私を助けたんだ?」


 少女は射抜くように男を鋭く睨みつけた。

 しかし男は相変わらず、木で鼻をくくったような対応だった。


「さぁ? 気紛れだよ」

「ふざけるな……っ」


 ふて腐れたような男の返答に、少女は再びいきり立った。


「お前は、私がもう二度と人殺しも盗みもできないと言った。

 もしそうなら、もし本当にそうなってしまったとしたら、私はこれから先どうやって生きていけばいいというんだ!」


 少女は目を赤く腫らしていて、声もがらがらだった。

 彼女は盗みと殺し以外に生きる方法を知らない、哀れな子供だった。

 カヌチは心底モガリという少女の人生を憐れんだ。

 彼女からその二つをとってしまうことは半ば生きながら死んでしまうことに等しいのだ。


「知らん。お前の人生は、お前が決めるんだ」


 男はあくまで冷たく突き放して、切り札にこんなことを言った。


「見た所、お前の背負っているその刀、大分傷んでいるようだ。直してやらぬこともない。

 それだけ見せてみろ」


 男は颯爽と立ち上がった。

 そして少女から刀を奪い去ると、「すまんが、俺はちょっと仕事があるんでな」とだけ言い残して、こともなげに庵を後にした。


 引き戸をがらっ、と開けてそそくさと男が立ち去った後――

 しんと静まり返った部屋の中で、少女は一人、呆然自失してその場に取り残された。

 

 どうやって生きていけばいいというんだ――少女の耳に木霊する、自身の叫び。

 少女は心の中が空っぽになってしまったようだった。

 お前の人生は、お前が決めるんだ――男の冷徹な口ぶり。


 しばらくの後、少女は男と共に自らの生きる道を探すこととなる――。

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八神大玉伝 中原恵一 @nakaharakch2

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