久遠の休暇

中原恵一

久遠の休暇





 何かがおかしかった。

 ただ、それが何なのかが分からない。

 それはそれで、またおかしな話だが。





「――――久遠の休暇」

 ナジ・イシュトヴァーンは、大衆食堂の外に幾つか設置されたテーブルで、電子新聞を読んでいた。目に留まった一文を思わず口にしてしまったのだ。

 ここはドゥナ川沿いにある大都市の一つで、彼の職場にして住処だ。

 町に櫛比する建造物の多くは、ネオゴシック様式のカトリック教会や、ハプスブルク家ゆかりの歴史的建造物など、数百年は前に建てられた古いものばかり。

 しかし、屋根や柱を埋め尽くす数々の灰色の彫刻や装飾、そして壁一面に広がる極彩色のステンドガラスは、それを忘れさせるほど洗練された美しさを保っていた。

 通り沿いのこの席は、夕方の帰宅時には多くの人が行きかう様子が丁度良く見える。

 スーツ姿で携帯電話を片手に歩く人、ふざけ合う恋人たち、噴水広場で遊ぶ子供――

 その全てが、平和なこの町の温かい雰囲気を醸し出している俳優であり、出演者だった。

「それが、今の時代を一番的確に表現している言葉とでも?」

 隣から声を掛けたのは、二十代前半と見受けられる女性。笑顔を浮かべつつ、彼の方をじっと見つめている。

 他の席はみなガラ空きだというのに、二人は並んで腰かけていた。

「あたしたちなんてまだ外出してるし、こうしてお茶してるんだからいいじゃない」

「僕にはさほど変わりないように思えるけど」

 彼は隣の女性には興味なさげだった。冷たい対応に、少し彼女の余裕の表情が崩れる。

 そして彼は構わず饒舌な口調で続ける。

「ナカガラ・ケースケも歳とったよな。新進気鋭の若手とか、期待の新星とかいう触れ込みが出回ってた頃が懐かしいよ」

「何、その人?」

「東洋の経済評論家」

「ああ、そんなのいたかしら。でも私、二十一世紀前半の時代の人間には興味ないの」

 そう言って彼女は湯気のたっているコーヒーをすすった。彼女の頬は白い肌が歪み、消滅した笑窪の皺が僅かに残っている。

 彼は気づかれないように、視線だけで彼女の全身像を窺う。

 それは粗方奇妙としか言いようがなかった。

 服装はと言えば彼女はいかにも妖艶という形容詞がぴったりで、露出度の高い服を造形の良い体に纏っていた。

 ここまでは良い。

 この女の顔は、じっくりと見れば見るほど、最近彼が夢中になって捲っている週刊誌の映画女優に似ていないこともない――とてもよく似ている。

 更には服についても、色遣いはやや派手だが、なぜか不気味なまでに彼の趣味と合致しているのだ。

「今、私のこと見とれてたわね」

「違うよ」

「自分に正直になってみてよ。私のこと、気になってるんでしょ?」

「それより、さっきから気になっているんだが……」

 彼は困惑の表情を浮かべながら、表面にキリル文字で成分が記載された液状甘味料をコーヒーに注ぎ込んだ。

 そして彼はその容姿云々ではなく、最大の疑問を彼女にぶつけた。

「お前誰だ?」

 彼の方を見つめていた青い真珠のような彼女の瞳が動きを止めた。

 取っ手を握ったカップの中には、渦状に溶け込んだ白い液体がこげ茶色のコーヒーを肌色に染めていくのが見える。

「誰だっていいじゃない。他に言う言葉はないの?」

 彼はここで彼女と待ち合わせをしていたはずだった。

 しかしその人と思しき人影は見当たらず、いるとすれば彼の脳内で構築された妄想に近い女性が横にちょこんと座っている。しかもそいつは、大胆にも彼のテーブルに突然同席して、誘惑しようとばかりに迫ってきているときた。

 答えは一つしかない。

「良くないだろ。っていうかお前あれか、こんな昼間から客引きなのか?」

「女性に対してそんなこと言うなんて、あなた紳士じゃなくて?」

「僕は列記とした紳士だ、だからこそ怪しんでるんだよ」

 彼女はさっきからテーブルに両肘をついて、こちら側に顔を乗り出している。

 厄介な人間に話しかけられたもんだ。この手に何度乗ったら気が済むんだ?

 彼は、ノスタルジックな街並みを眺めつつコーヒー片手に新聞を読む、といういつもの日課を邪魔されて、正直うんざりしていた。

「いい加減にしてくれ、リューダ・スィダコーヴァ。僕はいつからそんなにもてる男になったんだい?」

 彼は言い慣れたその名前を口にした。

「それとも、今日はロドピスにでもなりたい気分なのか? 僕は古代エジプトの娼婦を彼女にした積りはないけど」

「私は娼婦じゃないわ、イシュトヴァーン」

 そう言って彼女は、外装を覆っていたテクスチャを解除した。

 すると、派手だった洋服が表面からボロボロと崩れ始め、色合いやデザインが一気に元の地味なものに戻り始めた。

 そしてみるみる内に鼻や目の位置など顔の造作が変形したかと思うと、再び浮き上がってきた顔は、見慣れた人懐っこいリューダそのものになった。

「それに彼女はギリシャの田舎に生まれた不幸な子よ。あまりひどく言わないであげて」

「外観適合装置はオモチャじゃないんだ。無駄なことに使うのは止めろ」

「あら、あなただってこれが無かったら浮気でもするんじゃない?」

「僕を試してるのか? だからって、スパイウェア送り込んでハッキングしてまで、俺のニューロンの信号読み取ることないだろ」

 彼女にはこれぐらい言ってやらなきゃダメだ。彼はそう思って大げさにあきれた顔をしながら続けた。

「そんなに僕の行動を一々監視したいのかよ? あんまりやり過ぎると、アクセス過多になって僕の脳細胞が焼き切れるぞ」

「焼き切れるのは、神経細胞に接続したマイクロマシンの回路。それはもうサルでの臨床実験でありえないことが証明されたでしょ。というより、そんなの電脳化を恐れる前近代的な人間の迷信よ」

「だとしても、ウイルスはよくない。おかげで俺が今までウイルス対策ソフトウェアにどれだけ金つぎ込んだと思ってるんだ?」

「彼女の悪ふざけに少しくらい付き合ってくれたっていいじゃない」

「いいか、これは下手したら犯罪だぞ。テクスチャのソフトウェアを弄るぐらいならまだしも、人の脳勝手にハッキングして良いはずないだろ」

 彼女は、知ってたならプロテクトをきちんと掛けておけば良かったじゃない、とかぶつぶつ文句を言いながら、恨めしそうな表情をして小さくなった。

 落ち着いたところで、彼は話を変えた。

「まあいいよ、リューダ。別に僕はお前を叱りたくてここに呼んだわけじゃない」

 彼は徐に椅子を引いて、彼女に正面から向き合った。


 ――見てみろよ、この景色。これもテクスチャ芸術のなせる技だ――

 ――あなたってホント、懐古主義者なのね――

 ――別に良いじゃないか。君だって使ってるシステム自体は一緒だろ?――

 ――あなたはいいの? あそこにいる人たちは電脳空間に舞う枯れ葉のようなものなのよ?――

 ――例え中身が無くても関係ないさ――

 ――どうして?――


 落ち着きはらった苦笑。

 大手を振って駆けずり回る無知と無自覚、

 それは、彼という存在そのものと同義。


 ――そんなことを言ったら、君だってデジタルデータかもしれない。僕に悪態をつく、小悪魔的な若年女性気取りのAIってところか――

 ――冗談は止めて。私はこれでもアバターと現実世界の顔を同じに登録している良心派なのよ――

 ――さっきまで違ってたのに?――

 ――だから元に戻したんでしょ――

 ――なら今度、実際に会ってみたいね。君の美しい顔を拝みに――

 ――無理よ、あなたが信用できないもの――

 ――それじゃ話は振り出しに戻るよ。君はホントにリューダか?――


 潮騒のようなざわめきが、

 とめどない雑音が、

 彼の中で反響しては大きくなっていく。


 ――そういうこと言う。私があなたをからかうと、いつもそうやって拗ねるじ……ない。

 ……から普段はやらないの。たまにはあなたの苦悶に歪んだ顔が見てみたい――

 白、

 黒、

 ――急にサディスティックだな――

 黒、

 ――これだっ……ら、動物を弓矢で撃……殺してた時代の方……嘘がなくてい……ね。今の人は、家の外に一歩も出なくてい……からって、猜疑心ばっかり強……なる一方よ――

 黒、

 白、

 白、

 白、

 白、

 ――違うよ、リューダ。人類はね、“久遠の休暇”の時代を迎えたんだよ――

 白。


 混濁する意識、


 ヒューズが、飛ぶ。

 その刹那、彼の見ている世界を、光の爆発が白く染め上げる――。



 ≪ログアウト≫

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 悪魔のささやきが、彼を現実世界へとたたき起こす。

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久遠の休暇 中原恵一 @nakaharakch2

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