夜の森、闇を切り裂く光のように

羽鳥(眞城白歌)

闇から逃れた夜のこと


 緋色の翼がきらめき、男の命を刈り取った。

 彼の薄い唇が最後に紡いだのは、もう顔も覚えていない母の名だった。




 霧をはらんだ風が窓を叩いている。薄いカーテンが引かれた窓の外、満ちているはずの月は雲に閉ざされて見えない。

 暖炉の前でソファに腰掛け、ぼうっとくうに視線を投げていたら、目の間に湯気の立つミルクセーキが差しだされた。


「大丈夫? 気分が悪いなら、奥で休んでもいいんだよ」

「……ありがと、先生」

「今は何も聞かないけど、話せるようになったら聞かせてね」


 優しく囁かれる気遣いも、耳を通り抜けていくだけだ。降り重なって凍りついた根雪が春の雨では解けないのと同じく、優しいだけの言葉はわたしの心に届かないのだと思う。


「霧が出てきたね。今夜の夜警は大変そうだなあ」


 カーテン越しに外を見て呟く先生の声を聞き流しながら、わたしはカップを手に取り、揺らぐ湯気に息を吹きかけた。


「わたし、朝には出ていくから」


 え、と先生が振り返って聞き返す。わたしは答えず、空にしたカップをテーブルに置いて、ソファに身を縮めて横になった。

 霧が晴れたら、あるいは朝になったら、出ていこう。

 わたしの出自がバレてしまう前に。





 わたしは母の顔を覚えていない。

 父を殺し、母を追いつめて死に追いやったに復讐をすることが、すべてを奪われたわたしの生きる道だった。

 とにかく必死に生き延び、魔術を覚え、ついに願いを遂げて——……、全部が終わったあとにどうするのか、なんて、何も考えていなかった。


 あんなに望んでいたことなのに。

 どうして今、わたしの中には、何もないのだろう。





 低い声で交わされる会話に、ふわふわしていた意識が覚醒した。薄く目を開けこっそり様子をうかがえば、テーブルを挟んで先生と誰かが話をしている。


「それで、……検死は」

「ああ、必要ない。明日、村の男手できっちり埋葬するさ」


 その会話が意味する所を理解して、鳩尾みぞおちが冷える気がした。

 思ったより早く、わたしの所業はバレてしまったようだ。


「……で、彼女は?」

「寝てるよ。奥のベッドを勧めたけど、落ち着かないみたいで」


 先生と話していた人が、席から立ったのがわかる。床を叩くかかとの音が近づいてきて、わたしはどうすべきかを迷う。

 森の中に人の死骸。傷を負い倒れていた、余所よそ者のわたし。——その関係がバレないはずがなかった。


 居た堪れずに跳ね起きて、ナイフを引き抜く。驚いた表情かおで立ち止まった男の人に、わたしはまっすぐソレを突きつけた。

 先生が息を飲んだのがわかって、胸が痛む。


「来ないで」

「わかったから、落ち着け。別にあんたをどうしようってんじゃない」

「わたしもできれば、傷つけたくない」


 睨み合うような数秒が沈黙をはらんで通り過ぎる。わたしは距離を保ったまま、ソファから降りて逃げるつもりだった。

 ……のに。


「駄目だよ! 女の子がそういう物騒な物を振り回すのは!」

「うぇ? あ、おい、バカ!」


 心底から青ざめた様子の先生が、まるで空気を読まずに飛び込んできたものだから。

 彼は止めようとしたけど、先生の体当たりに跳ね飛ばされてよろめいた。わたしはびっくりしてしまって、ナイフを取られるのに反応できなかった。

 よく理解できず見あげたわたしを、目をつりあげたまま見つめ返して、先生が言う。


「駄目だよ。いい? 君は女の子で、少し怪我をしていて、お腹が空いてるんだ。ナイフ持って暴れるなんて言語道断なんだからね!」

「…………」


 よくわからない理屈に言葉もない。得意げに胸を張る先生と固まるわたしを見比べていたもう一人が、ついに、ブハッと吹きだした。


「違いねえ。……おまえ本気マジでわかってないのかー」

「え? なになに? 彼女の事情? それは彼女が元気になったら聞こうと思って」

「違うって。いや、いい、それでいい。大丈夫だろ、彼女すげー元気じゃん」


 ええ、と抗議めいた声をあげる先生を押しのけて、彼のつった目がわたしを見る。


「聞かせてくれよ。ワケがあるんだろ? 俺たちは、事情も聞かずにあんたをどうこうしたりはしないよ」


 その言葉に嘘は含まれていないように思えた。

 どの道もう、わたしに選択権はなかった。





 あの男も、暗殺者アサシンだった。この村でをするとの情報をつかみ、森に潜伏していた奴を待ち伏せし、追いつめて殺した。

 相討ちを覚悟していたけれど、彼はわたしの姿を見た途端、驚いたように目を見開いて無防備に近づいてきたから——完全に、優位に、事を進めることができて。


「……だから、わたしは大丈夫。迷惑をかけないよう、すぐに出ていくから」


 痛ましそうに眉を寄せる先生と、黙って聞いていた夜警の彼にそう告げる。

 先生は目を瞬かせ、二人で顔を見合わせて、夜警の人がわたしを見て口を開いた。


「わかった。そういう事情なら……あんた、この村に住めばいい」


 ——思いもかけない言葉だった。


 意味がわからず、二、三度目を瞬かせる。

 先生を見れば、優しい笑顔で頷かれた。夜警の人が、言葉を続ける。


「ソイツが誰を狙ってたか判らないけどさ、……ってか、誰であってもさ、あんたはうちの村の者を助けてくれたってことだろ」

「傷ついて、傷ついて、今も深く傷ついてる、そんな女の子を追いだそうなんて意地悪な奴、ここにはいないよ」


 二人が静かに畳みかける言葉が、わたしの胸の最奥おくを叩いた。ぎゅうと喉を締めつける感覚が込みあげて、視界が一気にぼやけた。


 ——傷ついて、いたのだろうか。

 望みを果たしたというのに、胸を裂く痛みの正体は、それだったんだろうか。


「大丈夫だ。ここはとにかく辺境いなかだからさ。……ワケアリが隠れ住んで、傷を癒すのにちょうどいいんだよ」

「そうだよ。君、帰る場所もないんだよね? だったら、」


 ——ここにいればいい。


 声を揃えて告げられた言葉がわたしの中に入り込み、心を揺さぶる。遠い昔に凍ってしまったはずの涙が、あふれだして止まらない。

 とも、とも、言葉を返せず。わたしはただ頷いて、泣きつづけた。





 母が死んだとき、わたしは復讐を誓い、闇の世界に身を投じた。

 もうほかに生きる意味を見つけられなくて。

 その暗闇を切り裂いて、差しのべられた一縷いちるの光。



 ねえ、お母さん。

 こんなわたしでも、しあわせになっていいですか?

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夜の森、闇を切り裂く光のように 羽鳥(眞城白歌) @Hatori

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