英雄の門出に祝福を

 意識が覚めれば、少女は石膏造りの神殿にいた。果てはなく、終わりは見えず、地平線の彼方まで同じような光景が続いている。誰かの気配は感じられず、その景色が美しいだけに、喉の渇きに似た寂しさを覚える。喉を押さえ、唾を呑み下す。渇きはやまない。

 少女の前には玉座があった。その造りは簡素だが、玉座としか思えない椅子があった。

(ここは――……もしかして)

 少女の予想を裏打ちするように、玉座の上空で橙赤色の閃光が弾け、一人の男が姿を現す。

「よくぞ辿り着いた。異界からの来訪者よ」

 少女の気色に驚きは滲まず、畏怖など垣間見えず、冷めた眼差しとともに歩き出す。彼我の距離は詰められ、玉座の前に立ち、少女は虫けらに向けるような蔑視を男に向けた。

「あなたが神ね?」

「如何にも」

「――……一発くらい殴られても、文句はないわよね?」

「許そう。貴様にはそれだけの権利がある」

 神は頬を差し出した。少女は拳を握り、神を睥睨して振りかざす。

そんなもので済むと思ってたの?」少女は変わらず、平坦な口調で告げた。

 差し出した頬ではなく胸を殴られたことに神は堪えられず、玉座へと頭を打ち付けた。玉座に沈んだ体を正そうとすることはなく、神は手で目元を覆い、真に愉快そうに哄笑する。

「クク……神である我に対してここまで強気に出る阿呆は貴様が初めてだ」

「連打しないだけ慈悲深いと思いなさい、この性悪!」

「……ふと気にかかったのだが、貴様はどちらに怒っているのだ? つまり、安穏な世界から掃き溜めへと放り込まれたことへか、我が貴様の器を蔑ろにしていたことへか」

「両方よ!」

「なるほど。ならば、一発で済んだことはむしろありがたいと思わねばならぬな」

 神の指が弾かれる。神殿が揺らぎ、世界は一変する。サレマナウの工房にも似た、暖かな空間に二人はいた。暖炉では薪が燃え、床には毛足の長い絨毯がひかれている。壁には鍋やロープ、外套コートがかけられている。神の居室としては似つかわしくないほどに、人間味に溢れた部屋。絨毯の上にあぐらをかき、神は居心地のよさそうに目を細めるとレンを手招きする。

「ひとまず座れ。貴様に聞かせねばならん話は随分と多い」

 レンが座したことを認め、神は手掌を躍らせる。中空に金色の裂け目が現れ、その中に手を入れる。掴み取ったものは透明な瓶と銀白色の杯だった。瓶口のコルクを抜き、バーガンディの液体を注ぎ、レンに差し出す。芳醇な葡萄の香りとともにアルコール特有の臭いが広がる。

「……お酒?」

「貴様のために用意した美酒だ。酒を嗜んだことくらいはあるだろう?」

「お生憎様。向こうの世界では、私はまだ飲酒を許されていないの」

「こちらの世界には年齢で娯楽を縛るなどという法は存在しない。そもそも、貴様の体はゆうに数十年は生きているのだ。何かを考慮する必要などあるまい」

 その言葉には、言外に、アガレシアという庭に対する諦念が秘められていた。娯楽を縛るもの、幸福の享受を制限するものが年齢ではなく生まれであることを皮肉めいて表していた。

「……そうね、頂くわ」

 杯に唇を触れさせ、生まれてから初めての飲み物に僅かな抵抗を覗かせながら傾ける。洗練された美酒に「美味しい」などという感想は似合わない。乾いた砂地に水が浸み込むように、肉体の奥底、魂にまで潤いを響かす。命そのものが歓喜するような格別された味わいに目を丸くさせながら、その幸福を途切れさすことのないように最後まで杯を傾けさせる。

「恨むわよ、神様。こんなの知っちゃったら満足できなくなるじゃない」

「世界とは奥深いものだ。過去の至高などたやすく塗り替えられる。数多あるうちのひとつでしかなくとも味わい深く、どれが化けるか、頂へと達するかは我にも分からない」

 杯を傾けさせるだけで口を付けることはなく、どこか悄然とした眼差しで、ここではないどこかを神は見つめる。それは記憶の中、神の歩んできた道を振り返っていたのかもしれない。

「貴様には何の期待もしていなかった」と神は吐露する。ほのかな赤ら顔を整え、杯を床に置くと背筋を正し、レンは神の告白へと耳を傾ける。

「貴様を喚び寄せたのは、変革を期待したためではなく、諦めるためだった。全てに見切りをつけ、衰退する庭から目を逸らすためにこそ貴様を喚んだのだ。――二百年前。そう、人間が共存ではなく支配を欲したあの瞬間から、我の庭は狂い始めた。等しくあるべき世界に格差が生まれ、知性ではなく暴力で運命が決定付けられ、支配する者は礼節を忘れ、隷属する者は意思を失くした。美醜の垣根は破られ、世界は理想から遠ざかった」

 煩わしい記憶から逃れるように、神は白髪を掻き上げる。

「だが、いくら醜悪であろうと、庭の行く末はそこで生きる者に任せるべきだった。神だの管理者だの呼ばれたところで、我にできることは傍観のみ、庭で起きた出来事を《創世の記憶》に書き付けるだけなのだ。不干渉こそが我に定められた摂理だった」

 たとえ種族が滅びたところで、それがアガレシアに生きる者によって導かれたのであれば、歴史として書き付けるのみだ。あるがままに任せること。生命の選択を善悪によって切除しないこと。冷徹無比なまでの中立性こそが、神が創世の時から貫いてきた法則だった。

 故に二百年前の大戦でも敗者の運命を捻じ曲げようとはしなかった。一時は貶められようとも、その成就がいつになるとは分からずとも、いつかは亜人の権限も回復すると信じて。

 神に対する誤解を正すべきとすれば、そこだろう。大戦が終結したとき、勝者は「神は我等に味方した」と喝采を上げた。「神は我等の行為を許された」と声高々に主張した。敗者は「私達は神に見放された」と絶望した。「神は助けてくれなかった」と怨嗟を募らせた。

 どれも違う。神の真意はそうではない。傍観することしかできない神は、ただ信じたのだ。支配する者が慈愛を思い起こすことを。支配される者が圧政に叛逆することを。

 だが、全てはアガレシアに生じた不穏分子イレギュラーによって脅かされ始めた。

 死人族の誕生――サレマナウの旧友、イシュタルの蛮行によって世界は歪んでいく。神の元に帰されるべきであった魂が地上に束縛され続けることはどうにか看過することができた。それが種族を産み落とすほどに大規模だったとしても、世界にとっては些細な脅威でしかなかった。だが、能動的にアガレシアの生命を刈り取り始めたとなれば看過などできようはずがない。

「我の元に帰ってくるはずの魂は激減した。輪廻から外されたのだ」

 魔術が存分に花開き、かつて三種族を淘汰した帝国がたかだか一種族との戦争に手をこまねいている理由――それこそが、死者を悪用されることに他ならない。

 死人族により刈り取られた命は、そのまま死人族の末端へと加えられる。

 死者を出してはならない戦争など、犠牲を覚悟することが許されない戦争など前代未聞だ。

「このままでは生死の垣根が崩落する。貴様が魔剣に命じたこととそう変わりはしない。循環していたはずの魂は地上に釘付けにされ、我の管轄から外れた……」

 そこで神は瞑目し、「終末の危機だ」と独言した。

「命あるものの存在しない、抜け殻ばかりが跋扈する世界を《存続している》と定義するならば別だが……そんなことを考えるのは、あの愚か者イシュタルだけだろう」

「サレマナウさんは言っていたわ。世界への叛逆者になれば、神への門扉が開かれると。私で開いたのなら、イシュタルのときも開いたんじゃないの?」

「……条件は揃っていた。だが、貴様と違って奴は望んでいなかった。望まない者を招くことはできない。いっそのこと我の前に無様な面貌を曝していたならば打つ手はあったのだがな」

 ほとほと呆れ返ったように眉を顰める。それから、神はレンを見つめた。

「なればこそ、第三の手だ」

 手をこまねいている余裕など残されておらず、それでもなお傍観を決め込んでいられるほどアガレシアを愛していないわけではない。終焉など受け入れてなるものか。

「庭に干渉することは許されず、愚か者と接触することもできない。だからこそ《創世の記憶》が及ばない世界、貴様の世界に我は目を付けた」

「…………私で、何人目だったの?」

 諦めるために、見切りをつけるために喚んだと神は言った。変革を願い、異界の英傑に縋っておきながら初めから期待していないなどあり得ない。それでは言動が一致しない。

「忌々しい記憶だ」

 神は吐き捨て、杯を煽る。

「招き寄せるにしてもそちらの世界の摂理を乱してはならなかった。故に、死者の魂を喚び寄せ、アガレシアに転生させた。変革を促すためには相応の地位が欠かせない。自然と、転生させた先は人間へと限られた。だが――だが! 転生ではいけなかった! 記憶を継承させなければアガレシアの歪みになど気付けず、権力を笠に着て傍若無人の振る舞いをするだけだった! 掃き溜めで育った者は掃き溜めにしかならんのだ! 貴様の命を付け狙ったソメリアという男、奴も我が期待して、違うことなく腐り切った駒のひとつだ!」

「………………ソメリアが地球からの転生者?」

「記憶などないがな。あれが末路だ、分かりやすかろう」

 鼻で笑い、一転してそれまでの怒気を鎮めさせると神はレンを指差した。

「死者の転生ではいけなかった。ならばと、アガレシアの人間とそちらの人間の中身を転換させた。目論見通り記憶の継承はうまくいったが、恵まれた環境にいながら変革へと踏み出す者など現れなかった。果てには嗜虐心を増大させる者まで現れる始末だ。人間とはなんと度し難く、醜悪で、自分本位なものかと呆れ果てた」

「だから、あなたは諦めたのね。人間への期待を捨てた」

「そうだ。そして、まだ試していなかったものは、アガレシアの亜人とそちらの人間を転換させることだけだった。――……結実するとは到底思えなかった」

 記憶を継承したまま不遇の存在へと貶められるのだ。まず間違いなく変革を願うだろう。だが、彼の庭に於いて、亜人はすでに隷属の存在だった。無力の象徴、搾取の対象だった。だからこそ、見限るためのものだったのだろう。手練手管は尽くしたと諦めるためだったのだろう。

「……やっぱり、一発じゃ足りなかったみたいね」

「今からでも遅くはないぞ? 貴様を捨て駒にしたのだからな、当然の報いというものだ」

「あなた、本当に神様よね?」

「どういう意味だ?」

「いえ、なんだか……俗っぽいなって。サレマナウさんから伝え聞いたあなたの印象は《全知全能の体現》とか《人智の超越者》だったのに、今のあなたは、そう――人間みたい」

 世界の全てを俯瞰しているどころか、世界の秩序を掌握しているどころか、その真逆。感情を発露させ、躍起になって世界を変えようとしている。仮にも神だというなら、矮小な生命の動向など気にかけるはずもない。滅びたところで感慨にふけるはずもなく、一笑に付してから好みの世界を産み落としてもおかしくはなく、むしろ、その方が妥当だろう。

 ましてや、先程のレンの言葉には神への崇敬など微塵も存在していなかった。大地に平伏して崇めていればよいだけの存在に対して、まさに唾を吐きかけたようなものだ。痴れ者と呼ばわれ、無礼という名の罪によって首を落とされたとしてもおかしくはなかった。

「貴様には遂行してもらわねばならんことがある」

 少女の疑問に明確な答えを示すことはなかったが、神は冷笑を浮かべた。

「一度は開いたが、もう向こうから門が開かれることはない。貴様が元いた世界に戻れるか、このまま掃き溜めで朽ち果てるかは我の意向によって決められる」

「……神の代理人として、世界でも救えばいいのかしら? 救うとしてもいろいろあるけど。イシュタルを殺すことなのか、亜人を解放することなのか。どこまでを望んでいるの?」

「デムウラテスの侵攻を食い止めることは、まずやってもらわねばなるまい」

「まず、ということは他に狙いがあるのね?」

「然り。――……貴様には、恒久平和を実現してもらう」

 現在の争いを収めるのではなく、今後一切の争いをなくせと神は言う。

「馬鹿げた理想ね。だけど、望むからには何か策があるのよね」

「無論だ。それほど難しいことではない。貴様の隣にも、すでに体現者がいるであろう?」

 神聖とはほど遠い野卑な声音に、サレマナウのことを、彼が立てた誓いを思い起こす。傷付けないのではなく傷付けられない。殺さないのではなく殺せない。たとえ初めの誓いが自分にあったとしても、意志ではなく心臓に穿たれた楔により平和の体現者であらねばならない。

「悪くはなかろう? 我と平和を約束するだけで、永劫の恩恵が得られるのだから」

 なるほど、効果的な手段だと思う。斯くいう彼女自身も、全く同様の手段で以って、カロニアに於ける亜人の権利を勝ち取ったのだから。人間も亜人も、人類種も神獣も、地を這う獣も空を飛ぶ鳥も、この世にあまねく全ての生命は《宿業》として刻まれている。争うことを。奪うことを。蹴落とすことを。理性と知性、矜持と誇り、清廉であろうとする心が紛らわすことはあれど、所詮、生きている以上は逃れられない。他の生命を傷付けずにはいられない。

 だからこそ、絶対者である神と、この世の権威とは隔離した存在である極限の中立者と契約を交わすことには、たとえ自分の身命を差し出すとしても一片の価値がある。

 恒久平和の実現という点に限れば、それは唯一無二の確実な方法ともいえよう。

「貴様には――……そのための伝道者となってもらう」

 誓いに対する恩恵も、きっと、相当なものだろう。少なくとも、生きるために争うことも、傷付けることも、傷付けられることも、奪うことも、奪われることも必要でなくなる。全ての不幸は神の下へ送られ、涙は隠され、秩序と幸福に満たされた世界が訪れる。

 調和された世界ハーモニクス、それこそが神の理想、庭師の望んだ庭園アガレシアの在り方。

「その体――」

 神の指先が少女の赤髪に触れる。梳かれるたびに、髪の色が少女の視界に映り込む。

「赤いというだけで欲望の標的まとにされ、呪いを刻まれた不遇な少女。彼女にも、今後一切、侵害されることのない人生が確約される。貴様が望んだ幸福がもたらされる」

 神は語る。異界からの来訪者である《香蓮》に向けて。

 髪に絡められていた手は頬に移り、そのまま首筋へと降ろされる。首に刻まれた《首輪》がなぞられる。狗の証、所有物であることの証明。幸福の享受を認められなかった少女。

「奴隷でなくなったところで、特異性が消えるわけではない。あの男は外道だが、法を破りはしなかった。大金を投じてその少女を買い求めた。だが、次はどうだ? 不老不死に縋る者があれ一人だと思うか? 見果てぬ夢に憑りつかれたものが一人しかいないと思うか?」

 神の目に輝きは見られない。光を失した眼差しの中に、人間への期待など見られない。

「この世界は醜悪だ。この世界は裏切りに満ちている。デムウラテスを破り、人間の帝国に勝利をもたらしたとしよう。褒めそやす者は多いだろう。救世主だと囃し立てるだろう。その少女のために詩が作られ、凱歌は響き、饗宴が開かれるであろう。だが、衆目に晒すほど、その体には欲望の歯牙が食い込んでいく。奴等は舌なめずりをして機を窺っているだけだ。デムウラテスを破ったなら、いや、破れるはずなどないと見限るかもしれん。必ずや、その体を我が物にしようとする不埒な輩は出てくる。その少女が真の幸福を得るためには、世界が変わらねばならんのだ。世界が慾から解き放たれ、相互に統一される必要がある」

 神の額が下げられる。命じるばかりだった神は、そこで初めて、ヒトの子に願う。

「我の道を歩んでくれ、紅代香蓮。理想の成就には、貴様が必要だ」

 世界の衰退を憂えた神にとって、それが最後の希望。最初で最後の願いだった。

 アガレシアの醜さを知る少女は、そっと目を伏せ、呪いの刻まれた躰へと手をあてがう。初めのうちは、自分が生き延びることが全てだった。この世に顕現した地獄の中でいたぶられ、汚され、貶められていく中で生存のみを希求した。だが、運命は流転した。少女は力を得て、守りたい人ができた。救いたい人ができた。幸福にしたい人ができた。

 神の理想は全てを叶えてくれる。神の理想はこの世全ての悪を淘汰する。

「……あなたの言っていることは、きっと、間違ってない」

 それは確かな人類救済のカタチ。恒久平和へのシナリオ。実現可能な――人類のユメ。

「ならば、共に歩んでくれるか?」

 僅かに開いていた唇を結ぶ。焦がれる心は消えず、意識はずっと傾倒している。

「……神様。顔を上げてくれる?」

 上げられた顔を見つめ、少女は瞳を震わせると、神の額に自らの額を触れさせた。

「ごめんなさい、神様。私はあなたの理想には付き合えない」

「――理由を、聞かせてはくれないか」

「あなたの理想は効果的だと思う。けれど、最善だとは思えないの。何よりも、私がこの子に望んでいる世界とは違う」

 レンの胸を握り締め、香蓮は首を振る。

「私は、この子に、誰にも縛られずに自由に生きて欲しいの」

 ギャサの盟約を全人類が結んだとして、たとえ恒久平和が訪れたとして、世界の構図は何ら変わらない。身命を握らせる相手が人間であるか、神であるか、それだけだ。

「人間は醜悪――それは神様の言う通り。だったら、自分が殺せないとしても、誰かの命を犠牲にしようとする人間は必ず現れる。大切な人を守るために蜂起しなければならない時は必ず訪れる。不条理に抗うためにも、他者を傷付けるという選択を捨ててはならないの」

 殺戮を賛美するわけではない。略奪を看過するわけではない。

 ただ、脅迫により訪れる平和など長続きしないと予感がする。

「それに――」赤髪の少女は回顧する。自分を傷付けたヒト、傷付けられたからこそ気付かされたこと、流血で彩られた道のりを共に歩んでくれたヒト。

「傷付けられるからこそ、傷付けないと選択できる。痛みを知っているからこそ他者ヒトに優しくなれる。理想論だと詰られてもいい。私は、あなたの理想は世界を狭めるだけだと思う」

 盟約により縛られ、飼い馴らされたまま傷付けないことを強いられるのではなく、自らの意志で《傷付ける必要のない世界》を構築しようとする。そこにこそ人類の可能性がある。

「…………そうか」

 考え直すようにと神が縋ることはなかった。

「貴様なら、そう言うだろうとは予感がしていた」

「呆れた?」

「いや……、可能性とともに生きよと望んだのは、他ならぬ我だからな」

 神の気性には僅かな乱れも見られず、執着や未練など併せ持たず、断られることを初めから望んでいたようでもあった。

「愚か者の暴挙を食い止めること、亜人の権利を回復することで手打ちとしよう。それさえ果たしたならば元の世界に戻してやる。その娘が平和のうちに存する世界を取り戻すのだ、貴様の本意にも適うであろう?」

「そうだけど……とてつもない無理難題を押し付けてるってことは理解してる?」

「無理難題、だと?」

 神は嘲弄するように笑みを漏らし、レンの額に指を触れさせた。刹那、神の指先を通して熱いうねりが少女の内に流れ込む。精霊回廊を充たし、細胞の一片に至るまで体が再構築されていく。脳裏には《神代の智慧》が刻まれ、少女の視界は開かれる。

「神が手ずから神秘を明かし、奇跡を与えたのだ。貴様が道を切り開くにあたり、珠玉の武具となろう。それで足りんというならば、また我の門を叩くがよい。貴様には世界を救ってもらわねばならんのだ。英雄に相応しい加護ならば、我がいくらでも授けよう」

 刷新された己を噛み締め、授けられた加護へと思いを馳せ、少女は情動に突き動かされる。理想が近付いたと確信を抱き、レンが幸福に生きられる世界を瞼の裏に描き出す。

「………………ありがとう、神様」

「礼など口にするな。それは、貴様が勝ち取った栄光だ」

 だが、と神は言葉を翻し、獰猛な笑みを浮かべた。

「我に頼れば頼るほど、貴様の理想が脆弱であることの証明となる。くれぐれも注意するがいい。そのうち、うっかりそういう加護を与えてしまうこともあるかもしれん」

 神はまだ理想を諦めていない。少女の道が困窮するならば、もうそれ以上進むことができないと判断したならば、統一された意思は世界に降されることとなる。

「上等。あなたの理想は決して成就しない。私が再編する世界に、それはいらないわ」

 少女は神殿を後にする。神から託された秘奥を胸に、爛れた世界を調停するために現世へと舞い戻る。あらゆる苦難も不幸も踏み砕き、ただ、愛した少女が笑って過ごせる日常を取り戻すために、愛したヒトの元に帰るために、地獄へと身を投げる。

 消えゆく少女の背中を見つめながら、神は杯を掲げた。

英雄の門出に祝福をアーメン

 杯は飲み干される。勝利の美酒が早すぎるとは、誰が思えたものか。



 旅立ちの日、赤髪の少女は複数の人影に囲まれていた。彼等はみな同じ景色を見ている。心胆は知れずとも、理想を共有している。少女は孤独ひとりではなくなった。

「よかったの? カロニアに残れば、平和な生活を送れたのよ」

 マルタ・セレナハイム。精霊種の末裔、金髪の乙女。

 この世に顕現された地獄の釜に落とされることを許してはならないと赤髪の少女は行動したが、結果として、全ては終わったあとだった。牢獄で再会した彼女の肌には、少女と同じく魔術刻印が彫られていた。唇は渇き、痩せ細り、彼女は極限まで憔悴していた。

 老師によって治癒の魔術が施され、目を覚ました彼女へと、少女は全てを告白した。自らの正体、自らがアガレシアの寵児ではないこと。この体はあなたにとっての親友、家族に等しい大切な人のものだとしても、その中身は見知らぬ存在であることを明かした。

 受け入れられるとは思っていなかった。だからこそ、抱き締められたことに、少女は狼狽する。マルタは微かに体を震わせながら、確かな口調で「ありがとう」と言った。

 ありがとう。あの子のために戦ってくれて。私のために戦ってくれて。

 マルタの涙腺は決壊した。歯止めは効かず、少女の胸に縋りながら言い表しようのない感情に揺さぶられ続けた。大切な家族が生きていてくれたこと。大切な家族のために、犠牲を顧みず立ち向かってくれた人がいたこと。見捨てられた私達に奇跡が訪れたこと。全てが夢ではないかと疑わずにはいられず、されど、その腕で抱き締めたものは偽物などではなかった。

 涙が収まる頃には、無謀ともいえる覚悟が胸に宿っていた。

 愛しい人が笑っていられる世界を共に作りたい。異邦の旅人りょじんに任せて、一人だけ安穏な場所で待っていたくはない。彼女ならば一人でもやってくれるだろうし、自分など足枷にしかならないかもしれない。これはエゴだ。けれど、そうだとしても、私に自由が与えられたというならば、私はレンを笑顔にするためにその権利を行使したい。それが彼女の決意だ。

 一度は失われたはずの命だから、死地に飛び込むことに躊躇いがないとは言えない。それは傲慢だ。驕っていると糾弾されても仕方ない。故に、彼女の願いはもっと小さい。

「私はレンの隣にいたい」

 たとえ志半ばで倒れるのだとしても、最後の一瞬までレンの隣に立っていたい。

「私は――レンの家族だから――」

 叶うことならば新しい世界を一緒に迎えたいと夢見ながら、マルタは明日の境界を見つめた。

「美しい友情だねぇ」冷やかすように声が割り込む。

「…………意外だったわ。あなたがついてくるなんて」

「先生の言いつけだ。仕方ねえだろ」

 ケルビム・トロイヤード。最強と謳われる勇士、殺戮の寵児。

 ギャサの盟約は締結された。ソメリア・ボードウィン辺境伯は亜人の権利の回復を宣言し、それを以って狼藉の償いとした。一方、二人の少女を貶めたファメリド・エリが申し出た償いがそれであった。人間による支配を旨とする帝国に於いて、カロニアは異端の道を歩き出した。諸侯の反感は拭えず、或いは内戦へと発展するやもしれない。なればこそ、この身は主人の楯であらねばならぬ。領民の前に立たねばならぬ。忠義を語れた身ではないが、それだけは貫き通すとファメリドは誓った。その言葉を疑うほど、真偽を見極められないわけではない。

「先生が我欲を引っ込めてあそこまで言ったんだ。だったら、一番弟子である俺も先生の役に立たなきゃならん。意外といえばそうだが、理に適っているんだよ、この采配は」

 それに、と長槍を担ぎ直し、歯牙を覗かせるとケルビムは言った。

「お前さんについていけば、戦場の美酒にありつけそうだからな」

「呆れたオトコ」

「そう言うな。役に立つからよ、俺は」

「知っているわ、トロイヤード」

 そして、初めから共にあり、終わりまで旅路を共にする人がもう一人。

 サレマナウ・エリ。世界を憂える老師、魔術の最奥を紐解いた賢者。

 交わすべき言葉はない。信頼と敬愛で結び付けられた二人は、共に前を向く。

「行くとしよう、

 異世界よりの来訪者を内に秘めた、赤髪の精霊種はやわらかに笑む。

「私はよ、

 英雄譚アルゴノーツの軌跡は牢獄から始まった。

 そして、

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此の世で最も美しい自殺 亜峰ヒロ @amine_novel_pr

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