神に挑んだ少女

アガレシアの管理者

 爆発的に溢れ出したエピグラムの靄がソメリアに襲いかかり、彼を夢の彼方へと連れ去った。そればかりではない。靄は窓を突き破り、カロニアの全土へと流れ出す。無差別に呪いが蔓延する。人間も亜人も見境なく、エピグラムは主人の死に呼応するように猛威を振るい、幻惑の死を誘い、カロニアに深い傷を刻んでいく。――否、カロニアだけで終わるはずがない。やがてはアガレシアをエピグラムの靄が埋め尽くし、この世に破滅をもたらすことだろう。

「何が起こった……」

 異変を前に、叫ぶ人間がいた。魔術で防御結界を張り、辛うじて難を逃れたファメリドだ。同じようにして靄から逃れたサレマナウはレンを見つめ、張り裂けそうな声で言う。

「そうか。……そなたは、赦してなどいなかったのだな」

 レンの生き様を見て、彼は心を震わせた。あの娘はなんと高潔なのだろうと、清廉なのだろうと胸を熱くした。けれど、違った。魔術の深淵を覗こうとも、神に拝謁したところで、所詮はサレマナウもヒトの子、完全ではない。他人レンを見る目が曇っていた。

 少なくとも、初めからではないだろう。初めは真っ当に志していたはずだ。

 清廉なままで友を救う手段を探っていたはずだ。

 だが、イスメルと出会ったことで、彼女から魔剣エピグラムを授けられたことで彼女は揺らいだ。或いは初心が思い出されたのかもしれない。すなわち、世界への憎しみを。怒りと怨嗟を。

「ファメリド。貴様が彼女を欲した理由は何だ?」

「――……魔術刻印を刻まれ、魂を蹂躙されてなお立ち上がったことだった。そんなことはあり得なかった。奴は抜け殻だった。辛うじて魂を収めているだけの形骸に過ぎず、叛逆など、できるはずもなかった。……故に惹かれた。その魂を精査したいと欲した」

「では、その時に彼女が抱いていた感情を憶えているかね?」

 ファメリドは思わず腹部を押さえる。あのとき向けられた、苛烈な感情の正体。

 あぁ、そうか。ファメリドは瞑目した。

「貴様は――人間が己を顧みなければ、愚かであり続けたならば全てを滅ぼすつもりだったのか。それに足るだけの理由を、踏み出してしまうだけの憎悪を俺が植え付けたのか」

 ようやく、彼女がどうして笑っていたのか、理解できたような気がした。

 今際の冷笑が意味することは、そういうことだったのだろう。

「……この惨劇を収める方法はあるのか?」

 縋るように訊ね、けれど、崇拝する父は首を振った。

「彼女は命と引き換えに、魔力をエピグラムに供給するだけの装置となった。魔力が枯渇するのを待つか、或いは彼女をどうにか止めたところで、エピグラムの呪縛を解くことができるのは彼女だけだ。すでに呑まれた者は帰って来ない。永劫に、死を視続けるだろう」

 悲哀に満ちた目でレンの亡骸を見つめ、サレマナウは胸を掴む。

「これは――……罰なのだろうな。生命としての礼節を忘れ、邪知暴虐に振る舞い続けた我等に対する……。惨状を前に目を逸らし続けてきたのだ。儂も同罪だろう」

 外界魔力を増幅させれば、或いはレンの暴走を止めることもできたかもしれない。

 だが、その資格があるとは思えなかった。デムウラテスがもたらすはずの終焉を彼女が担っただけのこと、ならば、こうして難を逃れていることに意味などないのだろう。仮初めだとしても、終わるならば彼女の手に誘われたいと結界を解こうとしたとき――声がした。

「違うな。自惚れるなよ、サレマナウ」

 空間が旋転して一人の男が姿を現す。逆立った白髪と、衰えを感じさせない若々しさを備えた男だった。野卑にならない程度に煌びやかな装束で身を飾り、その瞳の奥からは、計り知れないほどの思慮深さを覗かせる。傅かずにはいられぬほどの高貴さを男は宿し、直視することが許されないという思いを抱かずにはいられぬほど、彼は「畏怖」がかたちを得たものだった。

「あなた様は――……」

「我の面貌を忘れていなかったこと、まずは大儀である。それでこそ我が忠臣ともよ」

 男はサレマナウを眇め、満足そうに微笑を浮かべる。彼を覆うように皮膜が張られているのか、存在する領域から異なるのか、エピグラムの靄を直に浴びながら、彼は平然としていた。

「隣にいるのは貴様の息子か。ハッ、優秀そうだが手入れが足りんな」

 実体の不可視化などではない。あれは明らかに空間の切断、魔法の領域に指をかける魔術、空間転移そのものだ。父と言葉を交わす男を見つめ、ファメリドは呻くように問う。

「あなたは――何者だ」

「水臭いぞ、我が忠臣サレマナウよ。実の息子にも我のことを伝えていないのか。我に拝謁した名誉など凱歌とともに世に知らしめても足りんというのに。あぁ、だが、そういう契りを交わしていたな。だからこそ我は貴様に恩恵を授け、神秘をひとつ語ってみせたのだから」

 男はファメリドに向け、その御名と威光を示す。

「我こそが、貴様等が根源と称する極地に座する者。アガレシアの管理者――神だ。この姿、とくと目に焼き付けておくがよい。貴様は我に拝謁する誉れを与えられたのだ」

「だが……神よ、そうだとすれば、なぜこの場に現れたのですか」

「忌々しくもな――」

 神は精霊種の少女を示す。

「そこの女が救済と引き換えに自害するところまでは我も予測していた。死の間際に我へと怨嗟を吐き出すだろうとも。だが、ここまでとは思わなんだ。あの女の最期の言葉を教えてやろうか? 『……いつまで傍観者でいるつもりだ。私はあなたの庭を破滅させる。あなたがアガレシアに存在する生命を軽んじているとしても、せめて自分の庭を愛しているならば私の暴挙を止めてみせよ』などと、身に余るどころか、傲岸不遜な言葉を吐き散らかしおった。ハッ、神に正面から喧嘩を売るとは、見下げ果てた胆力の持ち主よ」

「それでは、あなたはこの惨状を鎮めるために現れたのですか」

 そこで、思うところがあるのか神は沈黙した。腕を組み、苛立たし気に指を打ち付ける。

「あの女一人の暴走を止めることなど容易い。容易いがな――……」

 彼女の精霊回廊を破壊すれば魔力の放出は止まる。動力炉を断たれたエピグラムは沈黙し、呪いが撒き散らされることはなくなるだろう。多少の傷跡を残すだけで世界は平穏を取り戻す。だが、それでは神にとって甚だ面白くない。

「あの女は我に挑んだのだ。ただただ崇めていればよい我に向かい、唾を吐きかけたのだ。それなのに我は破壊するだけだと? 貴様等でも可能な些事を代行しておいて、それで勝ち誇れたものか。神が威光を示すとはな、摂理を捻じ曲げるくらいでなければならんのだ」

「……ならば、どうされるのですか」

「くだらぬ問いをするな。神の偉業とは、まさにこういうものを指すのだ」

 高らかに謳い、神は魔力炉と化した少女に手を翳す。可視化されるほどに濃密に練り上げられた魔力の糸が手掌から溢れ、少女の矮躯を取り巻くように踊る。

「願いを聞き届けることは許されていない。だがな、矮小な人の身で我に挑んだ益荒男に対峙することは禁じられていない。誇るがいい、女よ。貴様は、我に定められた禁忌目録を掻い潜ることができたのだ」

 レンの体を外界から隔離するように皮膜が張られ、重力の縛りから解放されて彼女は宙に浮かぶ。生気と輝きを失い、のっぺりと澱んだ瞳。頸動脈から噴き出した血で体の前面は赤く染め上げられ、生体機能を失くした心臓は波打たない。乱れた髪と、蒼白を通り越して白皙となった肌。それは紛うことなき死体だった。胸を痛めることはあれど忌避する以外にない代物だった。だが、何故だろうか。無残な遺骸に成り果ててなお彼女は美しかった。腕のよい人形師が仕立て上げた陶器人形ビスクドールのように、視る者のこころを奪おうとする。

「苦悶すらも滲ませずに逝くとは、甚だ癇に障る女だ」

 死体に張り付いた微笑には一点の曇りもなく、死後の惨事を言祝ぐようにも見えた。

「だが、その心意気や是。貴様の抜けた庭など、些か以上に面白味に欠けるというものよ」

 そして神は、神秘をひとつ体現する。傷が――少女の頸に開いた傷が消滅し、続いて心臓が脈動を始め、呼吸が戻る。治癒か、蘇生か。我が目が信じられずに戦慄くファメリドを見遣り、神はあっさりと偉業の正体を明かす。

「あの女の体を異界化させ、時を逆行させただけだ。そこまで物珍しそうな顔をするな。貴様が我の元に辿り着きたいと望むならば、あの程度の神秘は解き明かしてもらわねばなるまい」

 哄笑を滲ませ、神はサレマナウに向き直る。

「解呪は女自身にやらせよ。つまらん茶番だったが、貴様と再度まみえることができたのだ。それだけを褒美として、我は戻ることとしよう。……客人も待たせていることだからな」

「客人ですか?」

「貴様と同じく、そこの女は我の座に辿り着いたのだ。面通しくらいはせねばなるまい」

「感謝します、朋友よ」

「貴様の礼などいるか。我を引きずり出した、あの女の一人勝ちよ」

 どこか愉快そうに応え、神は座に帰る。

 世界への叛逆者と成り果て、神へと至る門扉を叩いた少女へと、すべてを聞かせるために。

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