庭の終わり

「そなたはどちらだ」

「私よ。香蓮よ」

「戻ったのか。いや、また来てしまったのか」

「愚かな選択をしたことは分かってる。けど、放っておくわけにはいかなかったの」

「構わんよ。そなたがそういう人間であることは分かっていた。不思議ではないさ」

「状況は?」

 周囲に目をやりながら、レン――香蓮――は訊ねた。自分が寝かされているのは粗末なベッドであり、どうにも質素な宿屋といった雰囲気の部屋だった。

「すでにカロニアの内部には入っている。聞こえるだろう、外の喧騒が」

「私の首にはファメリドの刻印があるのにどうして見つかっていないのかしら。彼にとって、私が戻ってくることは不都合以外の何物でもない。従者ウミを遣わすにしろ、彼自身が来るにしろ早急に身柄を確保したいと思うんじゃないの?」

「その答えは簡単だ。息子は些か以上に、儂に劣っているだけのことだ」

「ホント、規格外よね」

 頼もしそうに目を細め、レンは立ち上がる。一度は戻れたというのに、否、戻ったからこそ彼女の気迫は増している。自由意思など関係なく巻き込まれ、神に振り回されるだけのこれまでとは違う。彼女は自分自身の意志で選択したのだ。レンを幸せにしてみせると。

 ケルビムとの戦闘で失くしてしまったアゾット剣の代わりにダガーナイフを腰の後ろに取り付け、エピグラムを横に提げ、魔術刻印を指でなぞると彼女は前を向く。

「さぁ、向かいましょう」



 赤髪の精霊種が正面から訪れてきたことで城内は俄かに騒がしくなっていた。足早にソメリアの元へ急ぎながら、ファメリドは焦燥に身を焼かれる。

(何故だ。何故、戻って来た。いや、そのようなことなどどうでもいい。奴が口を開き、奴の逃亡を俺が企てたことが知れれば全てを失う。失ってしまう。魔術師として研鑽するための後ろ盾も、世俗的な地位も何もかも。そうなれば俺は破滅だ。ただでさえ裁定者から離反した愚か者を拾った主人さえも裏切ったと知られれば、この世界に俺の居場所はなくなってしまう)

 気概だけでは、魔術師はやっていけない。どれほどの才能と大望を秘めていようと、家柄、血脈、世俗的な地位といった後ろ盾、成就するかもしれぬ研究に巨額な資産を捻出してくれる後援者スポンサーがいなければ糊口をしのぐこともままならない。野心も何もかもを失った傭兵フリーランスとして生きていく道が残されてなくはないが、一度でも根源を夢見た魔術師が、斯様な落伍者になることを受け入れられるはずもない。矜持が邪魔をするのだ。

 ファメリドの内心を知るウミも平静ではいられない。いっそのこと出会い頭に首を刎ねてしまえば。だが、そんなことをすれば疑惑の種を生むだけだ。追求は免れない。

 願うしかない。レンの気紛れに全てを託すしかなかった。

 歯痒かった。あれはファメリドの所有物のはずだった。飼い犬のはずだった。それなのになぜ、今更になって手を噛まれようとしているのか。それとも初めからか。彼女を占有したいと欲した瞬間から、この結末は避けられなかったのだろうか。

 謁見の間の扉を開ける。ソメリアはすでに来ており、部屋の隅では兵士に剣を向けられる少女の姿があった。何よりもファメリドを驚かせたのは、少女の隣にサレマナウがいることだった。

(何故、父がいる)

 混乱するファメリドの頭に声が割り込む。肉声を伴わない意思の伝達、念話だ。

『久しいな。だが、再会を祝すのは後にするとしよう。今の儂は彼女のために動いておる。貴様は彼女の道に塞がる敵でしかない。それくらいの意味は理解できるだろう?』

『……なるほど。全て、あなたの差し金か。それならばケルビムを破ったことも理解できる。幻惑の死を事実として脳に刻むなどという厖大な魔術をそこの精霊種が使えるはずもない。だが、あなたが手を貸していたならば話は別だ。あなたはまた、俺の邪魔をするのか』

『エピグラムのことはすでに聞いていると。ハハ、あの男、存外回復が早いな。それにしては儂に関する情報を知らせてはいないか。戦士としてはともかく斥候としては頂けないな』

『はぐらかさないで頂きたい』

『……どうやら勘違いをしているようだ』

『あれがあなたの仕業ではないと世迷言をぬかすつもりか?』

『貴様は彼女を見縊りすぎだと、そう勧告しているのだ』

 ファメリドの瞳が揺らめくように動き、赤髪の精霊種へと、ファメリドに破滅をもたらすやもしれない女の面貌へと向けられる。

『…………奴が?』

 信じることは到底叶わず、ふざけるなといきり立つほどだ。そもそも彼女が魔術回路を獲得したのは僅か先日のこと。しかも自前ではなく、借り物、作り物の回路だ。連綿と受け継がれてきた特級品ではなく、一世一代ばかりの低級品のはずだった。

『それなのに奴はすでに俺を凌駕しているというのか。あなたに逼迫するというのか。魔術のみに生涯を捧げてきた俺を、奴の如き急造が越えていくというのか⁉』

『これが、未知に対して敬愛を、他者に対して畏怖を抱かなかった貴様の末路だ』

 恐ろしい夢を視せられているようだった。これは現実なのか。これもまたサレマナウが弄した幻惑ではないのかと疑ってやまない。しかし嘘を吐く理由がないことも確かだった。ケルビムが破られたことは事実であり、それが誰の功績であるのか偽る理由など存在しない。ファメリドを謀る理由など、サレマナウは欠片ほども持ち合わせていないのだから。

 狼狽するファメリドの背をウミが突く。彼女はレンを静かに一瞥した。

(そうだ。あのことは、俺の裏切りはソメリアに知られているのか)

 彼の縋るような眼差しを受け止め、レンは肉声を伴わずに唇だけを動かす。

『ま・だ』

 安堵と同時に敗北を悟る。

 首を刎ねる鎌は、すでにあてがわれている。傀儡にするはずが、彼はレンの傀儡に成り下がってしまった。修正不可能、抵抗すらも無駄と知る。魔術で彼女に干渉しようにも、それを見過ごしてくれるほどサレマナウは易しくない。もう、彼女のために動く以外にない。

 優秀な走狗イヌとならなければ、待ち受けるものは破滅だった。

「俺を謀っておきながら戻って来るとはどういう了見だ」

 厳かに吐息を響かせ、ソメリアが開口する。

「あなたと交渉するために」

「奴隷如きが同じ席に着けると思っているのか? 手順が僅かに狂ったようだが……」

 そこで、ソメリアは非難の眼差しをファメリドに向けた。

「その首、即刻刎ねてやろう」

 ソメリアは手を浮かす。レンの傍らの兵士へと、彼女を捕縛させるために。

「何か、勘違いしていない? 話し合いで手を打ってやると、私はそう言っているのよ」

 傲岸不遜なまでの言葉が放たれた刹那――彼女を守護するように真っ黒な靄が湧き上がった。次いで大音声の悲鳴が響き渡る。靄に襲われた兵士が躍るような奇行とともに倒れ伏した。

(あれが報せにあった靄か。魔術とは僅かに違う。幻惑を引き起こしているのはあくまで劔であり、奴はただ魔力を供給しているだけだ。だが、桁が違う。注がれる魔力の量、練り上げられた魔力の質があまりにも異なる。そう、それこそ精霊回廊で練り上げられたような――)

 はたと思考を鎖し、ファメリドは苦々しく笑んだ。

(あぁ、違うか。俺の研究は、魔術の全ては成功していたのか。あの娘はもはや無力な亜人ではない。絢爛たる魔法を宿した星の継承者、伝承に謳われる精霊種なのだ)

 嬉しくもあり、ただただ、追い打ちをかけられただけのような気もした。

「……ボードウィン卿。交渉に応じるべきだと判断します」

「腑抜けたことをぬかすな、ファメリド!」

「我々では彼等に敵いません。なるほど、娘だけならばどうとでもできたでしょう。しかし奴には敵いません。アガレシアの裁定者、星の神秘を司る男には――……」

「貴様の父親ではないか。俺に拾われたときの言葉を忘れたとは言わせんぞ。父を越えてみせると息巻いたではないか。立ち向かうくらいの気概は見せたらどうだ」

「もう、しています」

 重苦しく間を取り、ファメリドは虚偽を告げる。

「すでに数多の魔術を行使しましたが、その悉くが破られました。並の魔術師であれば知覚するまでもなく死に至る必滅の呪詛の数々が、発現すらも許されずに掻き消されました」

 乗ってくれ。嘆願を眼差しに込め、ファメリドはサレマナウを見つめた。偉大なる父は静かにほくそ笑み、息子を嘲笑するかのように野卑な言葉を吐き出した。

「あぁ、あれは魔術を試みていたのか。妙に魔術回路を騒がせていると思ったが、ハッ、あの程度の力量で儂を越えるだと? 青いな。何も成長しておらんではないか。たとえそれが幻惑の死を刻むだけだとしても、彼女の方が上を行っているぞ?」

 豪胆な態度を前に、それが虚偽だと見破れるほどの慧眼は持ち合わせておらず、また、レンがエピグラムの靄を揺らめかしたことも後押しし、ソメリアは忌々しそうにレンを一瞥した。

「交渉と言ったな。座れ」

 精霊種の少女は落ち着き払った様子でソメリアに歩み寄り、彼の対面に腰を下ろす。

「話を始める前に彼等を解放しろ。大事な俺の部下だ、『幻惑』ならば解呪できるのだろう」

「意外と優しいのね。えぇ、いいわ。彼等には罪がないもの」

 エピグラムの白刃が燐光を発する。意識を取り戻した部下を認め、されど彼等が正常とは程遠いことに一抹の不安を抱く。もしも帰ってくるのが遅れたなら、エピグラムの『夢』に連れ去られた時間がもっと長引いていたならばどうなっていたのだろう。

 考えることは恐ろしかった。眼前の精霊種は自分に殺意を向けているのだから。

 彼女がその気になれば、夢の彼方に永劫に連れ去られることもあり得るのだ。

「何を望む? 俺に何をさせるつもりだ」

 問うておきながら大方の予想はついていた。自分を解放しろだとか、或いは一緒に連れてこられた精霊種の少女も対象に含めるのかもしれない。いずれにせよ口約束で何とでもなる。この場さえ凌ぐことができればそれでよい。相手が想定外の戦力を有していたからこそ、ここまでの狼藉を許したのだ。未知だったから。斯様な弱者に後れを取った原因はそれ以外にない。すでに手の内は知った。それならば、この程度の敵などどうとでもなる。ソメリアが駆け抜けてきた半生は、そう確信させるに足るほどの困難で満たされていた。

 彼は運が悪かったなどという言葉で片付けられない逆境をいくつも覆し、今の地位にある。名将と謳われた胆力、それを裏付けるだけの武勇の数々。彼は未だ己を敗者だと認めていない。

(さあ、望みを口にしろ。己を解放しろと口走れ。その時点で、俺は反攻の一手を握る)

 ソメリアの瞳が狡猾に燃え立った。

 不老不死ユメに囚われた愚か者。少なくともこれまでのソメリアはそうだった。だが、死力を尽くして立ち向かうべき相手に出会ったことで、彼は全盛期へと立ち返る。

 ファメリドは肝を冷やす。ここまで血気に逸った主君を見るのは久しかった。

「カロニアの領主、ソメリア・ボードウィン辺境伯に私が望むことは――」

 それでもレンは越えてくる。【香蓮】はソメリアを凌駕する。


「カロニアが所有する全ての亜人の解放」


「………………は?」

 そんなもの。そんなこと。内々で処理できる範疇を越えている。口約束では済まされない。

「全ての亜人に自由を、尊厳を、権利を。知性ありしとして生まれた生命に対する最低限の保障を。生命に対する最低限の礼節を。あなたが、人間として保障しなさい」

「そんなこと――できるはずがない! それは帝国の意向に逆らうということだ!」

 反駁の声に逆らったのは、サレマナウだ。

「儂が誰なのか、忘れたわけではあるまい。裁定者の称号は伊達ではない。皇帝陛下にも、元老院にも少なからぬ発言力を持つ。全ての辻褄は儂が合わせよう。卿はただ宣言すればいい」

「もちろん、宣言だけでは十分といえない。あなたにはその後の政策を執ってもらい、亜人の保護を先陣切って行ってもらう。ただ、ね」

 そこでレンは言葉を区切り、ファメリドを一瞥した。

「私はあなた達との口約束なんて微塵も信頼していない。契約書を交わしたところで揉み消されると思っているわ。だから、契約するなら【魂】にまで刻まなくちゃ――」

 彼女は懐から、一枚の羊皮紙スクロールを取り出した。

「あなたには私と『ギャサの盟約』を交わしてもらう」

 ギャサの盟約、サレマナウ・エリが神の元より持ち帰った儀式。世の魔術師は外界魔力を扱うためにそれを行うが、提唱者と批准者に『絶対遵守の盟約を結ばせる』構図は、何も神との契りに縛られない。人間同士であれ、或いは猜疑心に長ずる人間だからこそ、それは有効に働く。

『提唱者――アラヤとソラウの子、レン・スフラール

 批准者――スンイルとカリナの子、ソメリア・ボードウィン

 遵守事項――カロニアが所有する全ての亜人の解放および保護

 成立条件――……』

 紙面を読み終え、ソメリアは信じられないといった風情で顔を上げた。

 なぜ、このような文言が刻まれているのか。成立条件は批准者にとって『益』とならなければいけない。それは確かにそうだ。だが、ここまで条件を整えておきながら、これではあまりにもおざなりだ。これでは彼女にとってリスクが高すぎる。

 このような言葉、僅かでも保身を考えているならば刻めるはずがない。

『成立条件――ソメリア・ボードウィンがレン・スフラールに望むこと』

 このような、自分の未来を擲ってしまうような条件を打ち出せるはずがない。

 ふとレンの表情を仰ぎ見て、ソメリアは恐怖に駆られた。

 彼女の貌には冷笑が張り付いていた。ソメリアを試すかのように。それこそ彼の言葉次第で世界の破滅が訪れるのだと語りかけるように。慾をかくなと忠告するように。

 脂汗が噴き出し、視界が眩んだ。ソメリアの中枢を支配した、たったひとつの感情。

 この女は危険だという認識。

 この女は排除しなければならないという恐怖。

 この女を生かしておけば、世界が傾くという危機意識。

 悪魔。悪魔だった。世界の天秤を揺さぶる、人類に叛逆する悪魔が眼前にいた。

 清廉だと評されてきた。高潔だと思われてきた。だが、誰もが見誤ってきた。

 サレマナウもイスメルも、ファメリドもウミも、藤次郎も神さえも『香蓮』の本質には気付けなかった。彼女の胸中で渦巻いている感情の正体に気付くことができなかった。

 消さなければならない。ソメリアは焦燥に駆られ、ふと、その手段に至る。奇しくもそれは彼が初めから彼女に望んでいたことでもあった。

「その頸を――……」

 ソメリアは宣言する。その先に何が待ち受けているとも知らずに。

「その頸を切り裂き、血を俺に捧げよ!」

 凄絶に『香蓮』が笑った。レンの貌を借りて笑った。交渉は失敗したと見做し、サレマナウがレンの肩に触れようとした刹那、彼女は立ち上がり、ダガーナイフを鞘から引き抜いた。

 レンは睥睨する。ソメリアを、ファメリドを、ウミを――嗤う。

「あなたなら、そう願うと思ってた」

 予期していないはずがなかった。彼女はそこまで愚かではない。決定権をソメリアに委ねれば、彼がそう願うと知っていた。そう願わないはずがないと知っていた。

 ダガーナイフが動かされる。鋭利な銀鏡の刃は白皙の肌へと沈められ、抵抗を一切感じさせないなめらかな動きで肉を切り裂き、肉の裂け目から朱色の鮮血が躍るように舞い上がる。

 僅か、一秒の出来事。

 役目を終えたダガーナイフは少女の手から離れ、くるくると旋転しながら先端に付着した血潮を螺旋状に撒き散らし、その刃に、驚愕に囚われた人々の貌を映し出す。

 眼前の光景が信じられず、悍ましい行為に一切の躊躇を抱かなかった少女が信じられず、

 ただ、どうしてか、彼女の姿が美しく見えた。

 生命の断絶。忌避すべき光景が、どうしてか美しいと感じられた。

 諦めたのか。抗うことを放棄したのか。

 そのように感じたファメリドを嘲笑うように、最期にひと際激しく少女の瞳が揺らめき、赫灼を宿した。鮮烈な敵意で滾らせ、少女は彼方へと語りかける。


 いつまで傍観者でいるつもり? 楽園に引きこもっているつもり?

 私は、あなたの庭を終わらせる。

 あの子を苦しめる世界なんていらない。あの子が不幸でしかいられない世界に価値はない。

 あなたがあの子を愛していないとしても、せめて自分の庭を愛しているならば、私を止めてみせるがいい。神様とやら、これは、あなたへの挑戦はんぎゃくだ。


 レンの瞳が輝きを失う。刹那、エピグラムが唸り上がる。主人を追悼するようにさんざめき、その刃から、死を誘う靄が世界を覆い尽くさんばかりに溢れ出した。

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