ある学校の物語(第1編:春の嵐)

@keselburg

第1話 夜明け(1)

 柏葉校の近代化が開始されたのは開校から88年が経過した年、のちに発明暦元年と呼ばれる年の春のことだった。

 発明暦元年4月に1人の5年生が西一校(区の西部に位置する公立校)の友人に宛てた手紙にはこうある。

 「最近は毎週のように、何かしら公開実験が行われている。先週は糸電話がどれだけ遠くまで聞こえるのか、今週は鏡で反射させた光で通信を行うにはどんな間隔で基地を作るべきかの実験が行われた。北校舎1階西端から3階東端までレーザーの光や反射した日光を繋ぐというのだ。見物に来た連中は、小さな鏡の入った木箱を一生懸命に調節する技師生徒を面白そうに見つめていた」

 当時、柏葉校は入学希望者数が減少していた。生徒会と職員室は学校全体を活性化させるため、生徒自身の手で校内環境の改善を図る計画を立てた。これまでどの学校も思いつかなかった、校内の開発事業を生徒たちに開放するという革命的なアイディアであった。

 工作や設計に自信のある生徒たちは、公示を見るや、早速研究を開始した。ある者は教師しか使うことのできない内線電話から、いつでも誰でも使える生徒のための電話網の開発を思いつき、ある者は南北校舎間の連絡に飛行機を使うことを提案し、またある者は校内で郵便を開設するよう建白書を出した。

 当時の生徒会長はこう語っている。

 「我々の言う文明開化というのは別に校庭にガス灯を置いたり、養蚕を奨励したりすることではありません。生徒自身が、今の学校をより良くするために工夫を凝らすこと、それに意義があるのです。今の設備の改良という点では、通信交通の分野が盛んになるのは仕方ないことと言えます。もちろん、きちんとした計画書と審査に耐えうる熱意があるのなら、牛鍋屋を開いても構いませんが」

 ある技師生徒は友人にこう語った。

 「糸電話なんて、幼稚園児の遊び位にしか考えていないだろう。だが偉大な発見や発明と呼ばれるものの多くは、過去の遺物を新しい視点で見つめ直すことで生まれた。太陽の下、新しい物は何もないのだから」

 生徒会がいわゆる「文明開化の布告」で一般生徒に校内開発の自由化を発表したのは発明暦元年4月3日だったが、当初の研究は組織的なものではなく、気の合う仲間数人が昼休みや放課後に集まる程度だった。生徒会内務局の報告書によればそうした集団が全校に約30も存在していたという。その意欲も技能もばらばらで、郵便飛行1つとっても、物理室やパソコン室に設計図を引く者も居れば、理論より実践だとばかりに中庭で山のような紙飛行機を飛ばす者も、飛行実験と称しラジコン飛行機を体育館で飛ばして遊ぶ連中まで居た。校内ではこの状況を皮肉って、日本史の史料集からこんな狂歌を引用する者も居た。

 「上からは明治だなどと言うけれど、治まるめえ、と下からは読む」

 ある生徒の日記にはこうある。

 「学校がこんなに賑やかだったことはない。文化祭前の喧騒が1月も続いているようだ。中庭では飛行機が舞い、校庭では人力鉄道の試験車が持久走の列に突っ込み、花壇の測量班と喧嘩し校舎内では糸電話の実験があちこちで行われ、光点滅信号の実験班と場所の奪い合いを繰り広げ、物理室や化学室では大量の設計用紙が消え、コピー機の前には長蛇の列が出来ている。良く言って賑やかな、悪く言って騒々しい日々が続いている」

 この校内各地で公開実験が乱発された時期は「発明狂時代」と呼ばれ発明暦元年4月いっぱい続いた。職員室側が近代化の体系的な推進を生徒会に命じ内務局内に文明開化と技術開発の中枢を担う「推進総合本部」(略称SSH)が設置されたのは発明暦元年5月5日のことだった。


 SSHは技術開発に関心のある生徒たちをまとめ、組織的かつ効率的な研究を行うことを目的としていた。技術開発の為の公開実験や各教科教室の利用はSSHに所属する参加する生徒に限ると布告が発され、無秩序な発明狂時代は終焉の時を迎えた。

しかし、発明狂時代は揶揄されるほど無意味な時間ではなかった。近代化を担う殆どの技術開発の基盤がこの1月で整っていたからである。

 SSHの募集に応じたのは1年から6年までの81名だった。SSHは研究分野によって彼らを4つの部門に分けた。後に生徒電話、生徒電報、校内郵便を生み出すことになる「校舎内通信部」郵便飛行機を担当する「飛行輸送部」人力車や校庭鉄道の実用化を目指す「交通部」そして、小校庭や校舎内の再開発を担う「整備企画部」である。所属する生徒の数は校舎内通信部が30名、飛行輸送部が28名、交通部が12名、整備企画部が11名だった。

 発明暦元年5月10日。SSHはいよいよ本格稼働した。「叡智と努力が未来を照らす」をスローガンに生徒たちは今までの研究成果を持ち寄り、それを土台として各種技術の実用化に向けて活動を開始した。


 SSHで最も重視されていたのは情報の共有だった。物理室や化学室には専用の大きなホワイトボードが設置され、技師生徒たちは今自分が行なっている研究の経過や、抱えている問題などをそこに書き込んだ。糸電話の良質な糸の情報が、郵便飛行機の空中レールのアイディアに繋がったり、物理の得意な人力車製作係が、光点滅信号のより機能的な鏡を提案したりすることもあった。こうした横の繋がりは研究開発の前進に大きく貢献した。

 また部内での分業も進んだ。設計器具の扱いに長けた生徒は、持ち込まれるデータやアイディアを片っ端から紙面に書き込む。煩雑な計算は横に控えるパソコン係が表計算ソフトを駆使して瞬殺する。そうして出来上がった設計は製作班に送られ、ベルトコンベアー方式に作られる部品がすぐに組み立てられる。試作品が揃ったら各班の代表と係が集まり、実験を行う。記録係の報告は直ちに会議にかけられ、改良策が練られ、その案はすぐに設計図班や作業班に伝達され、意見が交換された後に新たな設計図の作成が開始されるといった具合だった。

 「このサイクルを、だいたい2日から5日かけて行っていた。自分たちは、とても立派な仕事をしていると誇りをもって働いていた」

 発明暦4年に発行された「先輩が語る文明開化」にはそう綴られている。


 通信システムの開発が進むなか、最初に実行に移されたのは小校庭の再開発であった。当時の小校庭は草原のなかに放棄された花壇が点在するさびれた場所だった。2年前から学校は同窓会と協力し小校庭の整備を計画しておりすでに予算準備や生徒からのデザイン公募も済んでいた。SSH・整備企画部の任務は計画案の整理が中心だった。彼らは全校から寄せられた212件もの提案を再検証し、それぞれの案の共通部分や、整備企画部による新たな提案を盛り込み、27の草案にまとめた。


 発明暦元年6月1日、最終的な小校庭再開発計画を決定するための生徒投票が行われ「第17号計画」が賛成多数で採用された。小校庭を赤煉瓦で綺麗に舗装し、大小の円形花壇や人工湧水、小川を整備する大規模なもので、既に存在すら忘れられていたビオトープの復活も決定された。2週間後には着工し、基礎工事は業者に委託し、草刈りや花壇整備などは志願した生徒たちが行うことになった。彼らは自らを「屯田兵」と呼び、10月の工程終了までに計400名が参加した。 

 これは発明暦元年6月15日に開かれた着工式の写真である。半袖の体操着や作業着を着た生徒たちが鎌やシャベルを持って笑っている。参加していた生徒の手記には「梅雨時の薄暗い天候は私たちに味方した。多少の雨よりも、かんかん照りの方が辛い。最初の1週間は昼休みや放課後にひたすら草を刈り、二輪車に乗せて運び出した。初めは雑談しつつであったが、まもなくシャキシャキと草を刈る音だけが、草原のあちこちで聞こえるようになった」とある。


 発明暦元年6月19日。1年生から6年生まで無作為に選ばれた70名もの生徒が正確に30秒おきに南校舎4階の階段を駆け下りていった。北校舎1階の端に到着すると、計時係が次々とタイムを記録していった。

 これは、SSH・校内通信部が実用化の最低条件を設定する為の実験だった。すなわち、校舎内の通信で想定される最遠距離、北校舎4階の西端若しくは東端から、南校舎1階の東端若しくは西端に、生徒が走って行くよりも迅速に情報を伝達できることが校内通信が達成すべき目標だったのである。実験は1階から4階に駆け上るコースでも行われ、その結果、生徒が最遠距離を移動する平均時間は上りで2分10秒、下りで1分40秒と判明。このデータをもとに、SSHは校内通信の認可条件を「北校舎東端または西端から、南校舎の西端もしくは東端までを2分以内に接続できる」ことに決定した。更に、最低でも100回の公式実験を行った上で95パーセント以上の成功率を達成しなくてはならなかった。但し、校内郵便は、後に「特別飛脚」と呼ばれることになる特別便のみ条件を満たせば良いとされた。


だが、当時開発が進んでいた生徒電話や生徒電報にとってはこの条件は過酷だった。発明暦元年6月に提出された報告によれば、この時点での生徒電話の最大伝達可能範囲は25メートル、生徒電報も50メートルだった。また接続速度も遅く、認可には更なる研究開発が求められた。


その頃、生徒電話の研究を進めていた生徒たちは難問に直面していた。即ち通信糸が25メートルを超えると、音の減衰が甚だしく会話が不可能となる問題である。糸の性質や張り方に工夫を凝らしても、学校の隅々にまで行き届く通信網を構築するには全く不充分だった。また、特定の場所に電話する方法も確立されていなかった。


そこで生徒電話の開発班は全校各地に交換局と中継施設を設置し、送信者と受信者を最短の通信糸で接続し、音の減衰を最小限にすることを立案した。シャボン玉の表面張力を利用した調査で最も能率的な交換局の配置が判明し合計28か所の普通交換局と南北校舎の接続を担う2か所の大交換局を設置することになった。一方、生徒電報の基地もほぼ同じ数だけ必要とされたが光の点滅を利用したリレー方式のため生徒電話の交換局の出入り口と廊下に設置されることになった。


 交換局の配置は決まったが、生徒電話は音の減衰に関する改良策を練る必要があった。音波に関する研究を行っていた物理科の教師や近隣の大学研究室にも協力を要請し、通信糸の増幅装置を開発するチームが編成されたのは、発明暦2年6月25日のことであった。

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