第14話 少しずつ、少しずつ

 季節は、夏を終えて秋の真ん中に入りつつある。昨今は春と秋が短くなってきているが、ここは周囲が山に囲まれているので、短い期間内でも紅葉した山々を見られる。

 視界から感じる景色は、脳にも入りやすい。和也は山の紅葉を見て、畑で着る作業着を半袖から長袖に変えたのここ数日のことだ。



 演奏会以降、和也の生活に大きな変化は見られない。今まで通り畑で野菜を育てて、弁当を作って並べ、店の掃除をして牛乳配達のアルバイト。それが終わればピアノを弾く毎日。口数が劇的に増えたわけではないし、笑顔が毎日輝くわけでもない。


 だが、香鈴とは週末になると川釣りに行ったり海を見に行ったりするようになった。毎週顔を合わせる習慣が徐々に出来上がって、今では和也の中では日常の中にそれが組み込まれている。外出した日は、香鈴が夕食を食べていく流れまでできた。


 演奏会が終了して2週間後、香鈴が自閉症の兄がいたことを明かしてくれた。年の離れた兄で、体が弱くて力が強すぎたため施設に入っていたらしい。感情の起伏が激しかったが、とても素直でいつまでもかわいらしい笑顔だったと、香鈴は寂しげに笑って語った。

 和也を見たときに助けたいと思ったのは、兄が施設内の子どもからいじめられていた現場を見ていたからだという。和也とは友達であると同時に、弟のようにも思っていると香鈴は初音に語った。

「弟ってどんななの?」

和也は一人っ子だから、兄弟がどんなものかがわからない。わからないと思ったことは、すぐに口に出てしまうし聞いてしまう。香鈴の話が終わってすぐに、弟とはどんなものかを和也は初音に聞いた。

 今聞くことじゃないでしょ、と初音が和也に諭そうとしたとき、香鈴が初音をみてゆっくりと横に首を振る。彼の目はとてもやさしくて、初音は言葉を飲み込むほかなかった。

「弟っていうのは、年下の兄弟のこと。俺は和也と血がつながっていないし、育った家も違う。でも和也のことを、年下の家族みたいに大切だと思ってるって話してた」

香鈴のそれに、和也は少し難しそうに小首を傾げる。

「今すぐわからなくても、そのうちわかるさ」

香鈴の笑顔は、会うたびに優しくなっていく。時間を費やせば、弟がどんなものなのかがわかるのか、はたまた大切に思う気持ちがわかるのか。疑問はいくつか浮かんだが、それは今聞かなくてもいいやと思い、和也は納得しきれていない顔のまま何度か頷いた。



 週末の外出には、時間ができたらあかりも加わっている。山や海は人が少ない上に、自然も多い。和也の耳にも優しく、水に触れたり砂や土のにおいを感じるようになって、和也の表情がどことなく柔らかくなったように初音は感じている。



 少しずつ変わり始めたのは、和也だけではない。

 あかりの心にも、徐々に変化が現れていた。

 演奏会以降、和也のことが気になって仕方がないのだ。恋なんて、大学時代に少ししたくらいで、自分の気持ちに気が付くまでに時間がかかった。

 毎朝顔を合わせて、いってらっしゃいと送り出し、学校でたまに会えば笑って手を振ってくれる和也に、あかりは心惹かれていった。


 とはいっても、相手は年下でなかなか意思の疎通ができないとわかっている。つもりだった。メールをすれば返信はあるし、事前に誘えばお茶にもいってくれる。だが、それ以上が全くない。

「あーん!大神さーん!」

こちらからのアクションやアピールに対して、察することができない和也を責める気持ちはない。しかし、自分の恋愛感情が和也に全く伝わらず、たまにあかりは大神牛乳店で大神夫婦に和也のことを相談している。この日もその例外ではない。牛乳店の長机に突っ伏してしょげながらある程度騒ぐあかりを、大神は自慢の牛乳を差し出してなだめる。

「まぁまぁ。そう嘆かんでも。相手はあの和坊なんだからさぁ。気長に行こうぜ、あかりちゃん」

「私なんて眼中にないのかも…」

「和坊は会いたくない人からの誘いには乗らないってわかってるだろ?あかりちゃんからの誘いには乗ってるんだから、絶望するには早いって」

毎回こんな流れで小一時間ほど、牛乳店で出るかわからない恋の芽について、あかりはぐずぐずと相談しているのだ。演奏会をきっかけに、大神夫婦もあかりを受け入れていて、彼女の存在は負担にはなっていない。子どもがいない夫婦にとっては、和也同様あかりもかわいい我が子のように思っている。


―可愛い娘だけどなぁ…。和也相手じゃ正直どうなるかわからん


大神はあかりをなだめつつ、彼女の気持ちが和也にどうすれば伝わるか考えるのが習慣になりつつある。


 以前大神は、配達のバイトに来た和也にあかりのことをどう思っているのか聞いたことがある。

「あかりさん?いい人だと思ってる。毎日お店に来てくれるし、遊びに行くときも、迷子にならないように手を引っ張てくれるし。ごはん作ってあげると、毎回おいしいおいしいって食べてくれる」

和也からの返答から察するに、普段あかりに対しては仲がいい人くらいにしか思えていないのかもしれないという印象だった。

 だが、大神の妻からの質問に対して、和也の表情が曇った。

「あかりちゃんが、実は結婚するのって言いだしたら?もちろん今は結婚なんてしないけどね」

大神はてっきり「いいんじゃないの」くらいの返答が来るかと思っていたのに、和也がっ黙ってしまってどうしていいかわからなくなってしまった。

 しばらく黙って考えて、和也が出した返答。

「…それは嫌かも。よくわかんないけど」

それを聞いて、大神夫婦は驚いて目を合わせたし、あかりには脈なしではないと感じている。ただ、あかりや和也に直接的に何かアクションを起こしてしまうのは後々責任が取れないため、今は静観している状態だ。




 少しずつ変わっていく、和也の周囲。あまり大きな変化を好まない和也にも、変化は見られた。

 まず、母親である久美と時間を決めて約束を厳守することを条件に、何度か食事に出かけた。お好み焼きや焼き肉に連れて行ったようだが、もともと薄味で育ってきているため、和也には味が濃すぎたようだ。

「ご飯食べに行ったら、のどが渇く」

と、久美にお店の注文を付けない代わりに、帰宅後に一気に水を飲みほしていた。これは、和也なりの心使いなのだ。

 気を使う、気を使いあって距離を確かめつつではあるが、久美と和也はようやく向き合えるようになってきた。初音はそれをうれしく思うし、義兄との関係も徐々に改善しつつあるのも知っている。

 自分の知らないところで和也の視野が広がり、世界が豊かになっていく。それは初音にとってだけでなく、曾祖父母にとっても嬉しいこと。


 そして、和也なりに踏み出した一歩もある。

 演奏会終了後、1か月ほどして和也は初音に話を持ち掛けた。

「僕ね。演奏活動をしてみようと思う。中学校を途中で投げ出して学歴は誰にも及ばないけれど、誰かのためにピアノを弾くことはできるから。一二三さんみたいなすごい音楽家にはなれないと思う。でも、少しでも近づきたい。お店にピアノ演奏を受けつけてるって紙を貼り出したいけど、ダメかな」

朝食時。なんてことないいつもと同じ朝に持ち掛けられた、和也からの提案。最初は驚いたが、初音も曾祖父母も反対はせずに和也の行動を応援した。

「やれる範囲でやったらええ」

「無理せずやんなさいね」

曾祖父母は笑顔で頷き、初音も嬉しそうに頷いた。


 張り紙はシンプルなものだ。

 白いコピー用紙に、マーカーで『ピアノ演奏、受け付けます』と書いてある。下には自分が発達障がいであることと注意書きが書いていて、話し合いを行う前に事前に打ち合わせをする時間を決めること、急な予定の変更をしないことなど、和也自身がパニックを起こしてしまうようなことを禁止事項にしてまとめている。

 演奏活動については、予約が殺到するとも思っていなかった。その思いとは裏腹に、演奏会を一緒に行ったオーケストラのメンバーから伴奏を頼みたいという声が多く上がり、演奏家活動も和也のペースで行っている。

 軌道に乗るまでにそう時間がかからないと思えるほどの好調なペースで、演奏の仕事も入ってきている。


 そして、今日も一人。演奏の仕事で打ち合わせをする人が駄菓子店にやってきた。

 和也は約束の時間前に駄菓子店に入って、在庫確認を行いつつ相手を待つ。

 がらがらと音を立てて駄菓子店のドアが開き、相手が入店してくる。時計を見ると、約束の時間ぴったりだった。

「こんにちは。約束の時間を守ってくれてありがとう」

和也がにこやかな笑顔で出迎えた相手。

「まさかあなたと仕事の話をするなんて、こんな未来があるとは思ってなかったわ」

和也と保つ、絶妙な距離。その距離を、少しずつ少しずつ縮めていく。それが今ここに足を運んだ久美の願い。

「奥にどうぞ。お茶を淹れてくる。仕事の話はそれから」

「そうね。ありがとう。お邪魔します」

和也なりの前進。少しずつではあるが、止まっていた彼の時間がピアノの音色とともに流れ始めた。



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訳ありピアノ演奏者 みほし ゆうせい @mihoshi-s

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