第13話 秋季定期演奏会
演奏会当日。良く晴れた空。秋晴れとはまだほど遠い、熱風が人の合間をかけていく気温。
待ち合わせ場所は、演奏会ホール。午前中にリハーサルを行うため、比較的早い時間に集まることになっている。あかりは一番にホールに到着して、事務に挨拶をして、ホール内で準備を始めた。
和也は香鈴に任せてある。演奏会前の最後の練習が終わって、演奏会当日の打ち合わせを3人で何度か行った。
一生懸命話してみたものの、和也は練習で神経がすり減っていて体力もほとんど底をついていたのが目に見えてわかったから、演奏会の日程をまとめたプリントを渡した。
「わからないことがあったら、すぐにメールしてね!」
最後の練習が終わって別れ際、駐車場であかりは和也に明るく声をかけた。だが、和也はあかりを見る体力すら残っていなかったようで、何度か頷いて軽トラに乗ってしまった。
不愛想なわけじゃない。手いっぱいなんだ。香鈴から何度も説明してもらったし、わかっているつもりでいたけれど、いざ和也からツンとした態度をとられてしまうと、あかりの心のどこかがチクンとする。
私は、彼に無理ばかりさせている。
あかりの心の中に、ずっとある罪悪感。和也はそれにきっと気がついていないだろう。いつも寝る前、ベッドに横になったときに襲い掛かってくる罪悪感に、あかりはいつも音を立てずに蓋をする。
ホール内で雑務をしていると、楽団員たちが続々とホールに入ってくる。演奏会用の燕尾服やドレスと自慢の楽器を一緒に持ってくる人が多いので、一人が抱える荷物は多い。
ひとり、ふたりだったはずの楽団員はすぐに大人数になり、あかりの準備を手伝う。楽団員たちの表情は晴れやかで、スッキリした笑顔があかりの目に映る。
演奏会がこうして無事に開演できるのも、和也がこちらに歩み寄ってきてくれたから。毎回頭痛薬と熱さましのシートを持参して、最後はふらふらになりながらも練習に参加してくれた。あかりは和也の行動をうれしく思うと同時に、やはり罪悪感がぬぐえない。練習期間中は自分と楽団のことを最優先にしてきたのに、演奏会の当日になって、今になって後悔のような後ろ向きな感情が心の一番上に霞がかっているのだ。
「お疲れ様です」
ホールのドアを開けて、客席に座る楽団員に香鈴が声をかける。
「おつかれ、おはよ……」
女性楽団員の元気な声は、一瞬途絶えた。彼女の目の色が、見る見るうちに輝いていく。
「恵実君!髪切ったの?!」
想像を超える彼女の大きな声に、和也はビクッと肩を震わせて目を丸くした。一瞬固まってしまったが、和也にもそれなりの耐性がついてきて、すぐにニコっと笑って2回頷く。
彼女の声につられて、ステージで作業をしていた楽団員たちがわらわらと集まってくる。
「超イケメンじゃん!」
「昨日は後ろでちょっと結べるくらいの長さだったよね?」
「誰が切ってくれたの?」
声のする人、その方向に視線を向けるが、回答する前に次々声が上がってしまって、和也は困惑の笑顔を浮かべる。助け舟を出そうかと香鈴が思っていた矢先、和也が口を開いた。
「おばあちゃんに、切ってもらった」
若干たどたどしいが、出会ったころとは雲泥の差さえ感じるほどに、和也は愛想が良くなった。決して無理をして笑っているわけではないが、やはり愛想笑いなのでだんだん和也も疲れてくる。彼女たちには警戒心を持っていないけれど、心を開いたとも言えない。
ニコニコしてなんとか時間を稼ぎ、ようやくリハーサルの時間が迫ってきた。彼女たちは和也に手を振って、自分の担当楽器の席に着く。和也と香鈴もさっさと支度を済ませて、ステージに上がった。
リストのピアノコンチェルトも、チャイコフスキーのくるみ割り人形も、いい具合に仕上がってきていた。だから、特別な練習はせずに、明るい雰囲気でリハーサルを終えた。
集合時間までに各々早めの昼食を摂ることになっていて、楽団員は財布や携帯を持ってぞろぞろとホールから出ていく。
彼らが出払った、静かなホール。ほんの少しだけ先ほどの余韻と余熱の残っているこの場所に、今は香鈴と和也とあかりしかいない。二人は必要なものをポケットや小さなバッグに入れているが、和也は微動だにせずにステージを見つめていた。
ピアノ以外の楽器がずらりと並ぶそこに、自分もつい今しがたまでいた。そう思うと、どうしてもそれが夢みたいだと思えてしまう。
ホールのドアが、ゆっくり開いた。3人の視線がそこに集まる。
「すみません、本日はよろしくお願いします!」
ホールに入ってきた黒い大きなカバンを持った女性に、あかりが駆け寄っていって頭を下げる。するとその女性も、あかりに頭を下げた。
見たことのある女性。どこで見ただろう。去年、たぶん会ってるんだけど。と和也は、彼女をじっと見つめながら考えていると、彼女が和也に小さく手を振った。
「お久しぶりです。今日、頑張ってくださいね」
彼女が誰だかよくわからないが、相手は自分を知っている。と、頭で理解していても、人が少なくなって愛想をよくするスイッチを切ってしまっているから、和也はほとんど無表情のまま軽く会釈をした。
ホールを出て、近くのパン屋に出向く3人。日差しが痛いくらいに晴れているから、地下道を使うことにした。
「和也君、彼女のこと知ってたんだね!」
あかりのそれに、和也はうなずく。
「どこかで会ったんだけど、どこか忘れた」
誰だったっけ。と小さくつぶやくが、思い出そうという意思は伝わってこない。
「彼女、調律師ですよね?」
「そうだよ!調律さんだよ、あの人!見たことあるはずだ!」
香鈴があかりに返した答えに、和也が食いついた。
「和也くんのピアノの調律もしてくれてるの?」
「たぶんそう。だと思う」
他人に対して興味が薄いため、たぶんとしか答えられない。
「今度来た時、挨拶して顔覚えとこ」
少し視野が広がった和也のそれを聞いて、香鈴とあかりは視線を合わせて少しうれしさを笑顔にしてこぼしたのだった。
昼食に買ったパンは、ホール近くにある自然公園で食べた。比較的静かなで、日影が多いため風が吹くと涼しい場所だった。
昼食を終えて、ホールに戻る。楽団員が先に数名戻っていて、着替えを行うために楽屋に向かう。この楽団は、男性は燕尾服で女性は派手すぎないドレスが正装と決まりだ。
和也は、一二三のおさがりの燕尾服を着用。和也自身、決して背が低いわけではない。ただ、一二三は和也よりもさらに背が高かったため、燕尾服の袖と裾が少しだけ長い。気にならない程度ではあるが、そのわずかな大きさの違いに、和也は一二三の背中を思い出す。
公演時間が迫ってきて、楽団員たちは舞台裏から自分の担当楽器のもとへと向かう。にぎやかでリラックスしているが、やはり独特の緊張感が漂う。
楽団員たちがみんな出払って、それぞれの楽器がチューニングを始める。ステージと舞台裏を仕切るドアは開いていて、そこからホールの方を確認すると、たくさんのお客さんの姿が確認できた。
「はーっ!緊張する!いっぱいお客さん、来てくれてるね!」
あかりは緊張して冷たくなってしまった自分の手をこすり合わせて、緊張を分散させながらも目が輝いている。あかりの様子を見て、和也もステージの方に目を向けた。
「人がいっぱいいる」
普段目にすることのないような、ぎっしりとした人数が、狭い聴衆席に座って楽しそうに隣の人と談笑している。目に映る現実は、ありのまま受け止める他ない。
「そうだ、先生」
和也は振り返り、あかりに声をかける。
「どうしたの?」
燕尾服姿の和也は、いつもよりも少し大人っぽく見えて、あかりは内心緊張でドキドキしているのかそうではないドキドキなのかわからない状態なのだ。
「先生はドレスじゃないんだね」
「わ、私…?そうだね、私は指揮者だから、燕尾服だよ」
「そうなのか。残念だな」
そういって和也は、あかりのもとに歩み寄ってきて、あかりの手を自分の手で包み込んだ。
「か、和也くん!?」
「手、冷たいんでしょ?僕はあったかいから」
和也の手は、本当に温かい。大きくて、小ぶりのあかりの手をすっぽりと包むこんで熱を譲ってくれる。せわしなく脈打つ心臓。あかりはその音を鼓膜の向こう側で聴きながら、和也の顔をちらりと上目遣いで盗み見る。すると、和也とばっちり目が合ってしまった。
「先生、ありがとう。僕をここまで連れてきてくれて。こんな大きなステージで、たくさんの人と音楽が作れて、僕は今すごくワクワクしてる。先生が僕に声をかけてくれたからだよ。ありがとう」
今までに見たことのないくらい、穏やかで温かい和也の笑顔を目の当たりにして。あかりの心臓は、一瞬だけ息をし忘れてしまった。
ほんの一瞬時が止まったが、それも木本のバイオリンのチューニングの音がきっかけで動き始めた。
一部はチャイコフスキーのくるみ割り人形。和也の出番はない。ステージ裏まで来たのは、ここでみんなの演奏を聴きたいと思っていたからだ。でも、それだけではなかったんだと、自分の心の隅にあった気持ちに気が付く。
「時間だよ」
和也はあかりの手を放し、ステージに向かう彼女の肩にそっと両手を添えた。
「大丈夫。きっとうまくいくよ。ここから見てるからね。あとで僕も行くから」
この人の背中を押したい。そんな思いが、いつの間にか和也の心に芽生えていた。
「ありがとう、いってくる!」
「いってらっしゃい」
和也に肩を押され、あかりはステージに出て行った。
柔らかい拍手が沸き上がる。これがステージ。キラキラ輝くライトが、みんなの楽器や汗を宝石みたいに輝かせる場所。静寂。緊張。タクトを振る、風を切る音さえ、和也の耳には聞こえてきそうだった。
くるみ割り人形の小序曲が始まる。小さな子どもが、草原で駆け回るような音楽に仕上がったこの曲。最初聴いたときは、ただ楽譜の上の音を拾っていただけだったはずなのに、いつの間にかこんなにもいい音で歌う楽団になった。
この人たちに出会えてよかった。距離はある。でも、それは必要なものだ。こんなにも素晴らしくて、かわいらしい音楽を作る人たちの近くに、今自分は居られる。それだけで、とても幸せに思える。
会場スタッフの女性が椅子を勧めてくれて、和也は小さく会釈をしてみんなが見える位置に座った。
この楽団の音楽は、夢を見せてくれる音がする。自然と和也の表情が、優しく綻ぶ。
「この楽団の、ピアニストさんですか?」
椅子を勧めてくれた女性が、声をかけてきた。
「いいえ」
和也の意識は、完全に楽団の中にある。音楽に乗ったまま、和也は横に首を振って答えた。
「お若いですね」
「この楽団の人は、みんな若いんです」
「いえ、そうじゃなくて」
こんなに心の踊る音楽が進んでいるのに、どうしてこの人は話しかけてくるのか。和也の心が、ほんの少しだけ曇って彼女に視線を向けた。今までの優しい表情が、まるで別人のような無表情な彼を見て、彼女は少し息をのんだ。
「……すみません」
話しかけてはまずかったのかもしれないと、彼女は和也に一言謝って、立ち去って行った。
話しかけられたことが不快だったんじゃない。長く話されることに、抵抗したのだ。今流れている音楽は、もう二度と作れない。次に奏でられるとすれば、似て非なるものになる。彼女には後で謝ろうと思いはしたが、今楽団が歌う音楽の方が魅力的なわけで、和也の頭の中から女性の影はすぐに消え去ってしまったのだった。
演奏の合間、ちょうど中間地点くらいの、中国の踊りという曲に差し掛かった時点で、頭痛薬を飲んだ。この距離でも、和也の耳には大きすぎる音量なのだ。これからのことを考えると、これくらいの時間に頭痛薬を飲んでおくのがベスト。意識は楽団と音楽に入り込んでいるから、薬は無意識に飲んでいる。もちろん水なしで。
くるみ割り人形は、花のワルツで幕を閉じた。約30分ほどの比較的短い演奏時間だったが、大きなミスもなく無事に第一幕が終了。10分のトイレ休憩のあと、第二幕が始まる。
演奏が終わったときの拍手は、耳に刺さるような音量だった。舞台裏にいる時点でそれだから、いざステージに上がってあの拍手を浴びたら、自分の耳はどうなってしまうんだろうかと、和也の中に小さな疑問が浮かぶ。
楽団員たちは舞台袖や廊下で水分補給やメイク直しなどを各々行っていて、和也にも声をかける人もいた。
「行けるか?」
香鈴に声をかけられて、和也は椅子から立ち上がる。
「うん」
和也の表情は、最初に比べて柔らかくなった。だけど、いざとなるとやはり無表情に近い。
「緊張は?」
「してない」
「アンコールの曲は?」
「準備できてる」
「何を弾くか教えてくれないか?」
香鈴からのそれに、和也は小さく微笑んで横に首を振った。
「教えない。内緒なんだ。びっくりさせたい」
困った顔や愛想笑いはたくさん見てきたが、和也のこんな自然な笑顔を見たのはいつぶりだろうか。
「6分くらいの曲だから」
そう言い残して、和也はあかりのもとに歩いて行った。
時間いっぱい。楽団員たちが、ぞろぞろと持ち場に向かう。
「じゃあ、待ってるから」
香鈴は和也に手を振った。和也もそれにこたえて、みんなを見送る。
チューニングが始まる。微調整をしていた調律師が、舞台裏に引き上げてきた。
「頑張ってくださいね!」
調律師の女性は、かわいらしい笑顔で和也にエールを送る。
「はい」
最近会得した笑顔を振りまき、和也はうなずいた。
「いこうか」
「うん」
あかりの小さな背中に続き、和也はまばゆい光があふれるステージに出て行った。
拍手は思ったほど大きくない。でも、笑顔を作って礼をするような余裕はなくて、無表情のまま聴衆席に礼をして和也は椅子に座った。
静まり返る、ホールの中。客席から伝わる期待と好奇のまなざし。敵か味方かわからない人がたくさんいる。不安がないわけではない。
でも今は、この楽団の人が、味方でいてくれる。
あかりと視線を合わせて、和也は小さく頷く。あかりのタクトがあがり、楽団員は楽器を構えた。
ふわりと揺れたタクトの先。のどかな管楽器の音色が歌う。緩やかなその音に乗って、和也のピアノが声を上げ始めた。
豊かな音色、色白で長い手足、幼い顔立ち。この子はいったい何者なのか。
「どこの音大を出てるのかしら」
「まだ学生?」
「学生でこんな音が出せるの?」
「名前は?」
「何歳なの?」
聴衆席に徐々に広まる、和也への疑問。ピアニストはシークレットとされているため、名前がわからない。音楽通の人もたくさんいるが、その人たちが追いかけたくなる、詮索に走りたくなる音色。
聴衆席の一番音響のいい席に座っている、初音と大神夫婦。その後ろには、香鈴の母親がいる。
「こんなに立派になって」
「あの和坊が……」
大神夫婦の涙腺は、演奏開始前からすでに崩壊済み。持参したハンカチがびしょびしょになるのに、時間はかからなかった。
この曲には、初音にとっても思い入れがある。
絶対に仕事をしている姿を見せない一二三が、初音に聞きに来いといった時の演奏曲。ピアニストとしての最後を飾り、和也が唯一聴いた指揮者だった一二三が振った曲。
和也の姿は、本当に若いころの一二三と瓜二つだ。ただやはり、一二三のようにひとつひとつの音が主張する音色ではない。流れるように、楽団の中に溶け込んでいく、ピアノの音色。それは和也の持ち味であり、一二三と決定的に異なる部分。
泣くな、なんていう方が無理な話。人とのコミュニケーションを全くとろうとしなかった和也が、多少の無理を押し切ってまでピアノをステージで弾いているのだから。
「本当に。大きくなって。一二三さんにも、見せてあげたかった」
どんな時でも、和也のすべてを受け入れていた一二三の背姿が、初音の脳裏をよぎっていく。今の和也を見たら、一二三をどんな顔をするだろうか。
―きっと、いつもと変わらない顔ね
和也によく似た、無表情に近い一二三の表情が、ポンと初音の目の裏に浮かんだ。
自分の手元を見ない和也の演奏は、やはり若干の違和感を聞き手に感じさせる。ソロパート以外は、ずっと楽団の方に視線が向いている。
リストのピアノ協奏曲第2番は、決して簡単な曲ではない。オクターブでの両手の素早い移動や、跳躍だってたびたび盛り込まれている。
どんなに技術に自信があるとはいえ、全く手元を確認しようとしないピアニストは非常に少ない。しかも、ミスがほとんどない。
どうなっているのか、和也だけを見ていたら訳が分からなくなってしまう人もいるだろう。目さえ閉じていれば、彼の音色はとても甘く、艶やかで、心奪われてしまいそうなくらいに音色が光り輝いているのだから。
その音色と全く比例しない、楽団ばかりを見つめる彼の姿。どんな顔をしているのかも、大半の聴衆が確認できない。
「楽器や楽団の音色と、話しているみたい」
どこの誰ともわからない女性が呟いたそれが、今の和也の姿には、あまりにもしっくりくる。
和也の目に映る楽団員は、みんなとても大人だ。
音楽で会話ができる。中盤を折り返した、オーケストラとピアノの激しい掛け合い。最初はケンカみたいになっていた音色だったのに、今はそうじゃない。激しい川の流れのような流れから、崖を落ちていくようなピアノ音。
一つ一つの音色を消化していく。あまりにも美しく、整っている。リストはスケールの大きな音を出すと、曲に張りが出る。もともと優しい音色の和也を、オーケストラが先導して、曲全体に臨場感が溢れる。
終盤に向けて、オーケストラのスケールは、大きく大きく膨らむ。それに和也も引っ張られて、音のスケールがどんどん増していく。
音楽は、自分ひとりの世界だと思っていた。
でもそうじゃない。
こんなにも素敵な人たちと、今まで感じたことのない音楽が作れている。
終盤。曲が最高潮の盛り上がりを迎える。
楽団員たちの額には汗が光り、和也のこめかみからも汗が落ちる。
終盤にピアノのソロパート。あかりと目が合う。
それでいい、とてもいいよ。と、表情とタクトから伝わる。
この人と出会えてよかった。
この楽団と出会えてよかった。
曲の終わりが、いよいよ見えてきた。
ピアノは弾ききってなんぼ。止まることは許されない。音楽は、始まってしまえば終わりまで立ち止まってはいけない。わかっている。わかっているはずなのに。
最後のソロパートを奏でる和也は、心が軋んでいた。
もう終わってしまう。こんなに楽しい時間が、終わってしまう。終わりたくない。もっと弾いていたい。ずっとここに居たい。
明るい調子のピアノの音色。指は勝手に動く。大好きなはずのグリッサンド。きれいに決まって嬉しいはずなのに。
和也の目には、涙が浮かんでいた。
泣いちゃいけない、楽しく弾ききりたい。気持ちと心がかみ合わない。鼻水が出て、すすりながらピアノを弾いた。
鼻をすする音に気が付いたあかりは、和也に視線をやった。和也は、涙をこらえていた。いったい彼に何があったのかと驚いたが、動揺は楽団全体に影響を及ぼす。楽団員も、何名も和也の異変に気が付いて、目を丸くしている人がいる。
最後の最後。和也は、涙をこらえられずに。ぽろぽろっと涙をこぼした。ピアノの最後の音。オーケストラの最後の音。素晴らしいフィニッシュだった。
和也はうつむいたまま椅子に座っていて、服の袖で目元を拭う。
急いであかりが和也に駆け寄り、彼の肩に手をやった。
「和也君、大丈夫?立てる?」
あかりに促されて、和也は何度か頷き、涙をぬぐって立ち上がった。
赤くはれた目元は、白い肌によく映える。あかりが差し出した手を握り、握手をすれば、また和也の目に涙が浮かぶ。心配していると、木本が立ち上がって和也のもとによって来た。
コンサートマスターの木本と、和也が握手をする。
「情けないわね!泣かないの!男でしょ!」
最後の最後で叱られて、和也は苦笑した。
聴衆席に一礼して、和也とあかりは一旦舞台裏に引いた。
「どうしたの?和也君」
舞台裏に引いてすぐ、あかりに問われた。
「もう終わっちゃうと思うと、寂しくなった」
和也は素直に理由を話す。
「今日の公演はアンコールで終わりだけど、和也君と私たちがもうお別れってわけじゃないからね?また一緒にコンチェルトを演奏する機会があるかもしれない。だから泣かないで?」
「お別れじゃないの?先生は、ピアニストを探してたんでしょ?もう今日で演奏会はおしまいだから、僕と会う理由はなくなったでしょ?」
「そんな寂しいこと言わないで?確かにピアニストを探していたけど、私は和也君のことを、ただのピアニストだと思ってるわけじゃないよ?これからも毎日お弁当を買いにお店に行くし、休みの日が一緒になればお茶しに行こうって誘いたい」
あかりのそれを聞いて、和也は少しきょとんとしたような顔をした。そして、嬉しそうににっこり微笑んだ。
「ありがとう。お別れじゃないって聞いたら、安心したよ」
鳴りやまない拍手が、ようやく和也の耳に入ってきた。
「アンコール、弾きに行く」
「そうだね」
あかりから離れた和也の視線は、もうステージを向いている。
真っ直ぐに前だけを見つめる和也の背中を見つめつつ、再びステージに向かうその背中の後に続いて、あかりもステージへと歩いた。
聴衆席からの拍手は、やはり和也には十分すぎる音量である。耳を塞ぎたくなる気持ちはたしかにあるけれど、聞き手から気持ちのこもった拍手は不快感よりも心地良さが強い。
最初ステージに立ったときにはなかった心のゆとりが、今はそれが持てている。ステージから聴衆席を眺めると、聴衆席の中央くらいに大神夫婦が泣きながらこちらに手を振っているのが見えた。大神夫婦に挟まれて、初音が拍手をしてくれている。
和也の目に入った彼らの姿は、そのまま強い衝撃となって和也の脳の表面部分に音もなく焼き付いた。焼き付いた箇所に痛みさえ感じるほど、言葉にならない衝撃だった。
聴衆席の上部は、少し空席がある。満員御礼とはいかなかったようだ。それなのに、こんなに大きな拍手の音がする。人が集まるということは、自分の予測とか想像を簡単に超えてしまうことだと、和也は全身の肌で感じる。
聴衆席の最奥。最も出入り口に近い場所。二つの人影がある。和也は彼らを、まっすぐに見つめた。拍手をする二つの影の右側は、男性。涙をぬぐいながら拍手している。その左隣の影は、女性。良く知っているシルエット。
「母さん…」
和也は小さな声を漏らすと、彼女は和也に向けてより一層大きな拍手を届ける。
来てくれたんだ。としか、和也の頭には浮かばなかった。それ以上の何かがあってもいいだろうが、今はあまりぼんやりしている時間はない。
少し間延びした時間に、礼をして終止符を打つ。アンコールを弾くために、先ほど弾いたピアノの前に腰を下ろした。
くるみ割り人形は、とても長い楽曲。今回楽団では演奏しなかった曲も複数ある。和也が選んだのは、楽団が演奏しなかった曲。この曲は、この楽団と時間を過ごしていく中で、自然とアンコールに弾きたいと思った。
どこまでも優しい曲調は、この楽団全体への感謝。たびたび現れる哀愁やひと時の悲しみは、健常者と自分が交われなかったときの気持ちを表すにみぴったりだった。
きれい、なんて一言じゃ片付けられらない。
かけがえのない時間を共にしてくれた人への、和也なりのお礼の気持をのせて。
チャイコフスキー作曲、くるみ割り人形第2幕、第14番パドゥドゥよりアダージョ。
できる限りたくさんの曲を手の中に持っておきなさいと、生前一二三がよく言っていた。自分は、人の前では弾かないのに。どうしてだろうと、思っていた。その理由を聞く前に、一二三は天に旅立ってしまって、その答えはわからず仕舞いだ。
答えはわからなくても、和也は一二三の教えを守り続けた。その結果、この曲も満足いく出来に仕上げるまでに時間はかからなかった。
この曲を一二三が最初に弾いたとき、和也は息をのんだ。指が10本、鍵盤が88鍵、ペダルを駆使するだけで、こんなにもたくさんの音が出せるのかと子どもながらに思ったのを今でも覚えている。
きれいな曲、としか思っていなかった。けれど、今はそうではない。
感謝、悲しみ、壁、その先のもの。口では言えない自分の内側の感情を、ピアノが雄弁に語る。
美しく切なく、情熱的な音色。粒のそろった、優しい音。聴衆の心を奪うのに、時間はかからなかった。
どこの大学を出たとか、どんな先生に習ったとか。全部どうでもよくなってしまう。和也のアンコールには、聴く者にそう感じさせる魅力という名の麻薬がふんだんに盛り込まれていたのだった。
演奏の終わりは、とても静かで上品だった。
「ブラボー!」
一瞬の沈黙ののち、聴衆席から声が飛び、それを封切に惜しみない拍手が送られる。和也は椅子から立ち上がり、ニコリと微笑んで聴衆席に礼をして、舞台裏へと去っていった。
演奏会が終わり、和也はすぐにホールの入り口に駆けた。お客さんたちは、和也に群がり、たくさん声をかけてくれる。
だが、みんな一緒に話してくるから、誰が何を言っているのかわからない。自分が聞きたい声だけを聞き分ける、いわゆるカクテルパーティ効果がアスペルガーの和也は著しく弱いのだ。どうしていいかわからなくなってしまって困っているところに、和也でもわかるくらい大きな大神の声が響いた。
「和坊!」
手を振る彼のもとに、和也は人をかき分けて駆け寄る。
「すごかったぞ!想像してたよりなんてもんじゃ」
「母さんは?来てたでしょ?帰っちゃったの?」
大神の声を遮り、息を上げたまま和也は大神に焦った様子で問いかける。
「来てたぞ。先に帰ったようだが、花を置いて行ってるはずだ。演奏会が始まる前に会った時、そういってたから」
大神のそれを聞き、和也はまた人の波をかき分けながら事前に用意された楽団への花束を置くためのテーブルに向かう。彼女は今、何を思っているのか。チケットを郵送し、それを握りしめてここまで来てくれた。
こちらからの提案に乗って、ここまで足を運んでくれた。自分から彼女に何かを持ち掛けたのは初めてだったし、彼女がそれに答えてくれた経験も初めてだった。だから、会って一言お礼が言いたかったけれど、それはかなわなかった。置き土産の花束に何かあるとは思えないけれど、送ってくれたそれを今すぐい手に取りたくて、和也は走った。
たくさんの花束が、高足の長机の上に置かれている。控室の大きな花とは違う、サイズこそいろいろあれどどれも花束ばかり。どれが母親の置いて行った花束かわからないから、ひとつひとつ確認していく。
花束が誰宛のものかを確認していると、背中をつつかれているのに気が付いた。和也が振り返ると、中年の女性が数人こちらを見上げている。
「やっと気が付いた!」
「お名前、なんて言うんですか?」
「そこの音大出てるの?」
彼女たちの目が輝いているのは見てすぐわかるけれど、今それどころではない。それに、知らない人にいきなり自分のことを話す性格でもないため、和也の目がじんわり泳ぐ。
「何歳ですか?」
「ピアノ、上手ね」
「ご両親が音楽家なのかしら」
質問攻めにあってしまい、何から答えていいかわからなくなってくる。それでなくても人と音が多いこの環境は、和也にとっては大きなストレスになっている。じわじわ上がってくる自分の体温に和也は気が付いていたが、彼女たちを退ける手立てがわからず、頭の回転も鈍い。これはちょっとまずいんじゃないかと思った矢先だった。
鼻から思ってもみない速度の鼻水が垂れてきてぬぐい切れずに落ちたそれが、和也の白い肌と燕尾服のシャツに赤い道を作った。
「あら!鼻血!大変!」
先ほどまで勝手に盛り上がっていた女性に顔色が一変する。鼻血?と思っていたら、音が遠のいていくのも感じる。視界がだんだん暗くなってきて。ここまでは周囲が見えていたのに、視野が消え、体が地面に雪崩れていくのをなんとなく感じた。
「ちょっと!大丈夫?!誰か!誰かー!」
女性の声。
「和也!」
大神の声。
「どうしましたか?…和也!どうした?!」
香鈴の声。わらわらと聞こえる周囲の心配の声と、聞きなれた楽団員達の声。
「和也君!」
あかりの声。
いったい自分はどうしてしまったのか。力の入らない体を起こされて誰かの背中に乗ってどこかに運ばれていくのを感じながら、和也の意識は徐々に遠のいていった。
目が覚めると、どこだかよくわからない場所の畳に寝転んでいた。白い天井。額に乗った少しぬるいおしぼり。ジャケットは脱がされていて、ワイシャツと長ズボンだけになっていた。
「気づいたか?のぼせたんだってさ」
男性楽団員から声をかけられて、そうだったのかと感じる。声はまだ出せない。顔を覗き込む彼の顔は、心配そうなどこかほっとしたような苦笑を浮かべていた。
「ばあちゃんと大柄な夫婦が迎えに来てるから、今日はもう帰りな。香鈴を呼んでくるから、そのまま寝てろな」
彼の声は優しくて、和也は何となく安心した。
起きた?よかったよかった。そんな声が、和也の耳に入ってくる。優しい人たちでよかったと、再度心底思った。
「和也、帰れそうか?」
香鈴の顔が和也の視界にひょこっと入ってきて、和也は彼の目を見てゆっくりうなづいた。
香鈴からおぶってもらい、楽団員から背中を押され、和也は楽屋を後にした。廊下ではあかりと初音と大神夫婦が待っていて、すぐに駆け寄ってきた。
「鼻血は比較的早く止まりました。多分人が多すぎて、脳内が情報過多になってしまってのぼせたんだと思います。今まで体験したことのない環境に1日身を置いていたので、熱を出すかもしれません。自宅でゆっくりと休ませてください」
香鈴は大神に和也を引き渡しながら、現状の説明をする。
「無理をさせてしまって、申し訳ありません」
あかりが初音に頭を下げると、初音は焦ってあかりの肩を抱いた。
「そんなことないわ、頭を上げて、先生」
ステージでの和也の表情を見ていればわかる。和也はあの時、とても楽しんでいた。心の底から楽しそうに笑った和也を見たのは、一体いつぶりだろうか。こちらこそ声をかけてくれてありがとうと、初音があかりに声をかけていると、和也が大神の背で少し動いて、なにか小さな声で言っている。
「どうした?」
大神から問われ、和也は今出る一番大きな声で囁いた。
「お花……。母さんの……。」
「持ってるから安心しろ!手紙も入ってるから、帰って起き上がれるようになったら読んだらいい」
身長の割には軽い和也の体を再度背に背負いなおし、大神はほんの少し苦い笑みをこぼす。
「とりあえず今日は、このまま和也を回収して帰ります。今後も和也と、仲良くしてやってください」
大神はあかりにペコリと頭を下げ、大神の妻と初音が続けて頭を下げる。
「そ、そんな!こちらこそ今後ともよろしくお願いします!」
あかりは急いで頭を下げて、みんなで顔を上げて目を合わせて笑ってその場を後にした。
演奏会以来、数日間お店に和也の姿はなかった。
「熱を出しちゃってね。多分知恵熱だと思う」
初音はそういって、いつも弁当を買いに来るあかりの背中を押して見送った。
ほんの数カ月前まで知りもしなかった青年。何とか自分の楽団で演奏してほしくて、強引に強引にこちらに引き込んだ。
彼はほかの人とは違っていて、意思の疎通もなかなかできない日が多かった。
でもだんだん慣れてきて、笑うようになった。演奏会で触れた手は、思っていたよりも大きくて、暖かかくて。それがどうしても忘れられない。
数日間、顔を合わせていないだけなのに、どうしてこんなに不安なのかと、あかりは職場でふとした時に思う。
演奏会から4日後。今朝の駄菓子店も、やはり混んでいる。
今日もいくぞと気合を入れて店に入る。相変わらずもみくちゃにされてしまって、なかなか弁当までたどり着かない。
まだ弁当を手に取れていないのに、あかりは少し疲れてしまって、店の隅で休むことにした。
―そういえば、前にもこんなことがあったっけ。お弁当が取れなくて、疲れちゃって、この辺で休んでて。
「はい、これ」
聞きなれた声に顔を上げると、和也が少し照れ臭そうに微笑みながら弁当を差し出している。
「か、和也君!?」
和也の顔を見ただけで、あかりの心臓が跳ね上がった。
「そうだよ。熱が下がったから。今日から仕事。はい、お弁当。今日もありがとう」
和也はいつ見ても和也だ。どこか飄々としていて、涼し気で。透明感があるようにも、あかりの目には映る。手渡された弁当を手に取ると、和也はスッと店の中に視線を移す。すぐにいつもと同じ無表情になって、何も言わずにせっせと仕事をこなす。
見慣れたはずの光景なのに、あかりはぼんやりと和也の姿を目で追っていた。
ぼんやりなんて、するもんじゃない。遅刻しそうな時間になってしまい、急いで会計を済ませて店を飛び出した。弁当を保冷バッグに入れて、自転車のロックを外す。
すると、隣にスッと人影が通ってきて、自転車のかごの上に何かを置いた。顔を上げると、店の前掛けを付けた和也だった。
「演奏会に出させてもらったお礼。休憩のときにでも食べて」
保冷バッグの上には、きれいにラッピングされたクッキーがおかれていた。
「ありがとう」
急いでいて、なかなか和也の顔が見られない。身支度を急いで済ませて彼の方を見ると、和也はあかりと目が合って一瞬だけ視線を右に外した。
そして、すぐにあかりを見て、自然と笑顔が咲く。
「いってらっしゃい」
和也のその笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも、柔らかくて温かくて。かっこよくて、かわいらしかった。私の心臓は、きっと少しだけ止まったんじゃないかと思うほど、あかりの心臓は驚くほど静かだった。
「いってきます!」
笑顔を返して、あかりは自転車をこいでいった。
店に戻ると、初音が嬉しそうに笑っている。
「なに?」
和也はいつもと同じ無表情に近い表情になっていて、さっさと店の後片付けを始めた。
「先生のこと、好きになったの?」
初音から吹っ掛けられた質問を聞いて、机をたたんでいた和也の手が止まる。そして、難しそうな顔になった。うーん、とうなり声をあげて少し考えていたが、和也はすぐにいつも通りの表情になって、初音を見上げる。
「よくわかんないや」
多分、和也の中に何かしらの感情はある。だけど、それについて考えても、今何か解決するとは思えない。だから考えるのをやめた、という具合なのかと初音は思う。
「そっか」
それでも、和也の成長が初音にとっては嬉しい。
「母さんの手紙の返事、書かなきゃ」
「そうね」
大きなステージを経験した和也は、少しずつ大人になっていく。
なんてない会話も大切にしたいと、初音は胸の奥で今の気持ちをかみしめたのだった。
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