穴に落ちた時は

安佐ゆう

歩き出しちゃダメ

 どこまで続くともわからないうす暗い通路を、京子はさほど気に病むこともなくスタスタと歩いていた。

 事の始まりは数時間前。

 家の庭に生えた草を、嫌々ながら抜いていた時のことだ。草取りは大切な仕事だということは、京子にもわかっている。放っておくと、やがて庭を覆いつくしてしまうし、そうなる前にご近所様からの苦情があちらこちらから耳に届くだろう。

 抜いた草はコンポストに放り込んでおけば、やがて堆肥になって家庭菜園を潤してくれる。


「生えてる草がそのまま堆肥になってくれれば楽なのに……」


 誰が聞いているということもない、庭の奥まった場所だからと、京子は遠慮なく大声で愚痴をこぼす。

 そして、ひときわ大きな雑草の株に手をかけて、思いっきり引き抜いたその時だった。京子の足元がドンという音とともに崩れ落ちたのだ。


「きゃあああっ」


 悲鳴を上げて土埃と共に落とし穴にはまった京子。そのままザザザッと滑るように深く深く落ちていった。

 幸いなことに穴の壁に体をこすりながら落ちたことで、落下のスピードは減速する。また一緒に落ちた土がクッションになり、着地の衝撃を和らげたのも良かった。幸運が重なって、京子は怪我一つなく立ち上がる。

 地盤が緩んでいたのだろうか。それとも地下水脈か何かがいつの間にか京子の家の下に空洞を作っていたのか。

 見上げれば地表は遥か上だ。よじ登ろうとしても土がぼろぼろと崩れて頭の上に降りかかる。このままだと、周りの土地も崩落して生き埋めになってしまうかも。

 暗い穴の底に、徐々に目が慣れてきた京子は、落ち着いて辺りを見回した。

 二、三歩離れたところに、草むしりの時に首にかけていたタオルが半分土に埋まっている。拾い上げてパタパタとはたき、そのタオルで顔についた土をぬぐった。

 一応はすっきりしたわと、小さくつぶやいて顔を上げると、目の前に暗い闇があった。


「あら、横穴があるわね」


 立って歩くのは難しいが這えば容易に通れそうな横穴がある。このままここで誰かの助けを待つべきか。いや、今週は夫は出張で、家には数日間、誰も訪ねてくる予定もない。

 落とし穴の壁は、ぼろぼろと今も少しずつ上から土を降らす。

 悩むまでもない。肩をすくめて、京子は膝をついた。


 横穴の地面は意外と小石など少なく、膝を痛めることもなく進むことができた。

 やがて穴はだんだん大きくなり、立って歩けるようになる。土ばかりだった地面に石が目立つようになった。大きな岩が壁から飛び出しているのを避けて歩く。


 ぴちゃん。

 水滴が落ちる音がする。

 壁はいつの間にか滑らかな岩肌に変わった。足元に水が流れ、通路は広くなり、そして狭くなり、上り、そして下る。方向感覚も狂うほどに向きを変えた。


 今更戻っても仕方がないと、さらに奥へと進む京子。

 大きな広間に出ると、その先はいくつもの洞窟に分かれていた。明かりがあればさぞかし美しいであろう巨大な石柱がいくつも立ち並ぶ。

 広くて迷子になりそうだ。何か目印をと思うけれど、ポケットを探っても何もない。仕方なく首にかけていたタオルを、今出てきた通路の壁の突起に結び付けた。

 タオルは真っ暗な洞窟の中でも、白く分かりやすかった。


 京子は人並みには夜目が効く。真っ暗なはずの洞窟内だが、ヒカリゴケでも生えているのだろうか。ぼんやりと岩肌が見える場所と闇の深い場所を見極めながら、進むべき方向を決めた。

 最近は異常気象というのだろうか、昼間でも夜のように暗い日が何日も続いたりする。まるで不幸を待ち望むように、テレビでは不吉な予言が取り上げられて、面白おかしく語られる。太陽の寿命が近づいているだの、政府の高官が異世界へ行く方法を探しているだの。

 そんな噂が本当か嘘か、末端の一市民である京子にわかるはずもなく、さして興味も覚えなかった。

 そもそも京子は外に出ることさえ好きではない。好き好んで強い日差しに身をさらさなくても、案外室内に引きこもったままでも健康的な生活はできるものだ。


「……そんなことを思ってるから、草むしりごときで酷い目に合っちゃうのね。ま、仕方ないわ。息ができるならどこかに出口もあるはず。先に進みましょう」



 鍾乳洞は蜘蛛の巣のように複雑に枝分かれしていたが、元来あまり頓着しない京子は右、左とさほど悩むこともなく交互に道を選ぶ。迷いそうな気もするが、京子に言わせれば「だってすでに迷ってるから悩んでも一緒よね」ということらしい。

 いくつかの分かれ道を適当に選んで進んでしばらく経ったころ、ふと気づくとそれまでの鍾乳洞っぽい道が人の手によって整えられたトンネルになっていることに気が付いた。

 足元は平らで歩きやすく、壁には等間隔に光る石が埋め込まれている。

 通路は薄暗いながらもぼんやり前が見えるくらいの明るさもあり、緩やかに上に向かって伸びていた。通路の向かう方向は何度も折れ曲がったが、分かれ道はない。ここまでくれば迷うこともないと、スタスタと歩いていく京子。


 真っ暗な中でひたすら歩くと、時間の感覚もあいまいになる。どれくらい穴の中に居たのだろう。疲れてしばらく座り込んだりもしたが、少しでも早く外に出たいと思う気持ちが、疲れた足をどうにか動かした。


「こんなに上がっても地上に出ないなんて……そんなに深く落ちたかしら?」


 つぶやく声が反響して不安を増す。ずいぶん上った気もするが、途中で下り道もあったのでそのせいかもしれない。とにかく独り言はしばらく控えようと、京子は黙々と前へと進んだ。


 穴に落ちて、どれくらい経っただろう。

 ようやく眩しい光が通路の先に見えた。


「外だわ!」


 新鮮な空気が流れ込んでくるのが分かる。

 もう二度とこんな探検はごめんだが、自宅の地下にあった洞窟がどんな場所に繋がっているのか、京子は少し笑いながら、浮き立つ気持ちを押さえて出口まで歩いた。

 洞窟の出口は見たこともないほど濃い緑色の草に覆われている。


「こんな場所、近くにはないわね。どこまで来ちゃったんだか……」


 とはいえ、無事外に出ることができたのだ。それだけでもありがたい。

 草をかき分けて、京子はようやく日の光の降り注ぐ場所に降り立って、眩しそうに空を見上げた。


「変ねえ。あれ、何かしら?」


 青い空に、真っ白い雲がいくつも浮かんでいる。

 京子は首をかしげながらも、ただ空を見上げていた。

 それは京子の住んでいる地下世界にはありえない、まるで異世界のような、不思議で幻想的な光景だった。

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