空に墜ちる

野宮有

空に墜ちる

 幸福な日々は、空に堕ちて死んだ。


 俺は金網の向こうに広がる街の情景を眺めながら、短くなった煙草をコンクリートに投げ捨てる。高層ビルの屋上から見下ろす灰色の世界は沈黙を決め込み、青い空の下で重たく沈んでいた。

 頭の中ではずっと、この三メートル程はある金網をどうやって乗り越え、どうやってその向こう側へと堕ちていこうかという思考だけが居座っていた。


 何故わざわざこの街で一番高いビルの屋上に忍び込み、空に向かって堕ちていくことを人生最後の作業として選んだのか。

 答えは解りきっている。

 これはただの当て付けだ。

 誰に対する当て付けなのか。

 答えは解りきっている。

 投身自殺して俺を独りにしやがった、恋人だった女に対してである。


 ここから飛び降りたあと、俺の身体はどうなるのだろうか。

 上空の強風や空気抵抗に煽られて、いったいどこまで飛ばされるのだろうか。

 アスファルトに叩き付けられて潰れたトマトのようになった成れの果ての姿は、目撃者の心にどんな影を残すのだろうか。

 「もう大丈夫」という俺の嘘を聞いた両親や友人は、いったいどんな表情をするのだろうか。


 最期の最期まで下らない想像をしていられるのは、俺の悪い癖だ。

 だから、金網を必死によじ登る俺の背中に、誰かが声を掛けていた事にも直ぐには気付けなかった。


「……誰だ、おまえ」


 両手と両足を金網の隙間に引っ掛けながら首だけで振り返る俺の姿は、さぞかし滑稽に写っていることだろう。

 高校生と思しき制服姿の少女は、缶コーヒーを片手に眠たそうな目をこちらに向けていた。


「ねえお兄さん、あんた死ぬんでしょ」


「そのつもりだけど」


「どうせ死ぬなら、余ってる煙草くれる? さっき切らしちゃったんだよね」


 少女に投身自殺を止めようという気概などはまるでなく、言っていることが出任せだとは到底思えなかった。

 つまり彼女は本当に、今まさに死のうとしている男から余った煙草を譲り受けようとしているのだ。情けない格好で怪訝な目を向ける俺を気にもせず、女子高生は欠伸と共に缶コーヒーを啜るのだった。


 成り行きに任せて金網から下りた俺は、半分ほど残っていた煙草を大人しく投げ渡す。

 左手でそれを受け取り、取り出した煙草を咥えると、ライターの火を近付けている。紫煙を吐き出す彼女の慣れた手付きに、俺は眩暈すら覚えた。


 そもそも、この銘柄は女が吸うには強すぎる代物だ。この歳にして、少女はニコチンとの付き合い方を心得ているようだった。


 今になってよく見ると、彼女はいわゆる「非行少女」には到底見えない格好をしている。肩までのショートヘアーが茶色や金色に染められているなんてことはなく、膝下一〇センチと長いスカートの丈も進学校にありがちなものだ。

 どう見ても、オフィスビルの屋上に忍び込んでコーヒー片手に煙草を吹かしている不良だという印象はない。

 ぼんやりと眺めている俺に、少女はあからさまな不快感を示してきた。


「…………なに」


「いや、煙草はハタチになってからって標語は迷信だったんだなーって、軽く驚いてただけ」


 たいして興味もないが、一応聞いてみることにした。


「そんな悪い子には見えないけど、なんで煙草を?」


「別に。今日は空が青くて綺麗だったから」


 空が青かったから。

 格好付けるわけでもなくそう答えた彼女に、俺は妙に納得してしまう。


 雲一つない空を仰ぎながら、大して美味くもない有害物質を肺に吸い込む。冷えたブラックコーヒーでもあれば最高だ。心地よい苦味と共に思春期のしがらみや葛藤を嚥下して、退屈な午後に身を委ねる。俺は初めて親に隠れて煙草を吸った日のことを思い出していた。


「別に、何か悪いことして友達に自慢してやろーとか、そんなことは考えてないよ。たぶん誰も知らないだろうし」


「分かるよ」


 高校生が煙草を吸う理由は二つしかない。

 ひとつは単に、悪い仲間に唆されて吸ってしまう場合。

 そしてもう一つの理由は、「なんとなく」である。

 別に、グレてやろうとか、社会に唾を吐いてやろうとか、そんなつもりは毛頭ないのだ。言語化出来ない正体不明のもやもやに火を点けて、ニコチンと一緒に肺を巡らせる。そして月日が流れ、昔の自分はなぜそんな意味もないことをやっていたのだろうと苦笑するのだ。はるか昔から、倫理観や教育観念が赤ん坊の時代から、無意味な行為は世界中で繰り返されている。


 ふと気が付くと、俺は、自分が死のうとしていたことを忘れてしまっていた。


「こうやって仰向けになって空を見上げてると、なんかすごく気持ちいいんだよね」


 気が付くと少女はコンクリートの上で大の字になっていた。ほとんど死人と変わらない俺に見られたところで羞恥心も何も無いのだろうが、かなり螺子の飛んだ行動である。


「コンクリートの冷たさと、雲一つない青い空と。どこまでも続く空に吸い込まれていくような感覚がして、だから、このビルの屋上は私のお気に入りの場所。この時間帯はセキュリティも緩いしね」


 煙草を咥えながら蒼穹を仰ぐ少女は、俺のことなど見てはいなかった。だから俺も、この空に向かって独り言を呟いているだけだ。


「付き合ってた女が飛び降り自殺したんだ。二ヶ月前、結婚も考えてた子だ」


「聞いてねェし」


 少女が呆れて笑うと、彼女が咥える煙草も大きく揺れる。俺はその隣に腰を下ろしていた。


「まあアホみてえに仕事に没頭して、家帰って酒飲んで寝てはまた起きてを繰り返しとけば忘れられるだろって思ってたんだけど、……駄目だった」


 思考の入り込む余地がないほど仕事を詰め込んでも、度数の高いアルコールに浸かってみても、全ては無意味だった。

 家に帰り部屋の電気を点けて、そこで俺は毎日、もう誰もいないという事実を思い知るのである。日々の絶望に擦り切れた心は風に吹かれて、気付いたときには俺をこの屋上へと運んでいた。


「何より俺を苦しめたのは、彼女が飛び降りる前に、俺に何も言ってこなかったことだ。最期の最期まで彼女はいつもと変わらない笑顔で俺を見送って、そして家に帰った時にはもう世界から消えていた。彼女が死んだ理由も分からずに、復元し切れず潰れたままの顔を見た訳だ」


 寝転がったままの女子高生が何も言わず差し出してきた缶コーヒーを一口啜って、更に俺の独白は続く。口の中を満たす苦味を吐き出すように。カフェインがもたらす多幸感に抗うように。


「俺は今でもあの時の俺を、彼女の異変に気付いてやれなかった間抜けな自分を憎むよ」


「それでわざわざ投身自殺を選んだってこと? 性格わっる」


「……何も言わずに死んでった彼女に恨みが無いって言ったら嘘になる」


「にしても最悪」


「分かってるよ。だから死ぬしかなかったんだ」


 女子高生はまるで、屋上にいるのが自分ひとりしかいないかのように静かに空を見上げている。しばらくして、やはり俺に目を合わせることなどなく呟いた。


「まあ、自殺を止めようって気は無いよ。あんたが本当に死にたいなら、さっさと死ねばいい」


 ただ、と彼女は弾かれたように上体を起こす。


「ただ、ここでは止めてくれる? せっかく見つけたお気に入りの場所に入れなくなるなんて最悪だし、それこそあんたをぶっ殺したくなる」


 女子高生は起き上がり、スカートについた埃を手で払うと、俺を見下ろしながら言い放った。


「それに、この綺麗な青空と、煙草と缶コーヒーの最高の組み合わせと、眠気混じりの退屈な午後を汚されたくない」


 少女の後ろから差す陽射しの束が眩しくて、俺は目を細める。何者にも邪魔されずに存在している青い空と、嫌気が差すほどに広い街の群青と、そこに根差す人々の営み。


 確かにそうだ。

 この美しく退屈な世界を俺の血で汚すというのは、確かに何かが、致命的に間違っている気がした。


「まあ、私が言いたいのはそんだけ。死にたいなら誰にも迷惑が掛かんない場所で、ひっそりと死んで。そんなことしてるくらいなら、ここでアホみたいに空見上げて煙草吸ってるほうがマシだと思うけど」


 じゃあ私はテスト勉強があるからとだけ言い残して、女子高生は煙草の箱を投げ返して去っていった。平日のこんな時間にどうしてこんな所にと思っていたが、テストのために午後の授業が休講にでもなっているのだろう。


 首を振り、もう誰もいないということを入念に確認して、俺はさっき彼女がやったようにコンクリートに倒れ込む。


 それから残っていた煙草を吸いながら火を点けて、呼気に白い煙が混ざっていくのを眺めてみた。

 仰向けになって吐き出した煙は真上へと立ち昇り、やがて空の青さに耐え切れず霧散していく。


 この冷たい屋上のコンクリートと、あの底すら見えないほど高い空は確かに繋がっている。

 気が遠くなるほど広い世界に、俺の苦悩もいつか、この煙草の煙のように掻き消されていくのだろう。


 ならば、俺はそれを待とう。

 仕事もしばらく休もう。

 哀しみに背中を預け、死にたくなくなるその日が来るまで待ってみよう。


 そう決めたのはなにも、あの風変わりな女子高生に唆されたからではない。ただ単に「なんとなく」だ。あの頃、親に隠れて煙草を吸ったのと同じように。

 そんな下らない動機だった。


 さっき少女が言ったように、俺は不思議な感覚に包まれていた。

 このどこまでも続く青い空を、皮肉のように綺麗な昼下がりの空を、大きく見開いた両の瞳に焼き付ける。

 唇からは思いもよらず、静かな溜め息が漏れていた。



 ……ああ、そうか。

 俺はいま、

 空に向かって堕ちているのだ。

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