挙止進退

 雪がしんしんと降る中、倒壊しかかって廃墟と化した高層集合住宅の階段で、一人の女兵士が機関短銃を握り締めて落ち着かない様子で辺りの様子を伺っていた。彼女が陣取る建物の周辺、その視界に入る建物はいずれも何らかの形で破損しており、酷いものは完全に倒壊している。道には壊れた建物から出た石やコンクリート片が散らばっていた。

 まるで大規模な地震が発生した様だが、これは人の手で作り出された光景だった。

 このジルブロック市は、帝国軍と王国軍が市の西部に架かる鉄橋を巡って争っている為に熾烈な市街戦の最中に置かれていた。彼女は帝国軍に属しているのだが、今いる場所は王国軍の勢力圏である。

 彼女は、味方からはぐれた訳でも迷った訳でもなく歴とした任務でここにいるのだが、それだけに恐怖は大きい。敵に見つかればすぐに包囲されてしまうだろう。そうなれば、帰還は絶望的だ。

「まだなの……」

 焦りと苛立ちから、独り言が自然とこぼれる。彼女の役目は、廃墟と化して無人となった高層集合住宅の最上階に、誰も行かせない事だった。建物の最上階には、狙撃手と観測兵が陣取って王国軍の参謀を狙撃する手筈を整えている。

 彼女が腕時計――反射光を出さない様にガラスをわざと汚してある――を見ると、事前に知らされていた時間を大きく過ぎていた。雪のせいで、標的となる敵参謀の到着が遅れているのだろうか。

 秋から始まった市街戦は両軍を泥沼に引きずり込んだが、冬が到来してからは帝国軍が不利になっていた。ジルブロック市内で硬直した前線に物資を運び込むには、帝国は市の西にある道路と鉄道の併用橋一本を頼りにしなければならなかったが、越冬用の装備を送り込むために弾薬が削られ、犠牲者の数に反映された。また、王国軍が砲撃と航空攻撃で妨害を行う為に、輸送は円滑とはいえない。加えて、荷役施設を持つジルブロック中央駅は既に王国軍の勢力圏内に入っているため、荷役に向かない線路上で荷役をせざるを得ず、鉄道輸送の効率は極端に悪化していた。

 そんな折、帝国軍情報局は王国軍の高級参謀が現地視察を行うという情報を掴んだ。その参謀はジルブロック市攻略作戦の立案者であるといい、自分が立てた作戦の進捗具合を確認する為に前線にまで出てくるのだという。

 参謀を殺害することで王国軍の士気をくじければ、戦況が有利に展開できる可能性がある。よしんば士気低下に繋がらなかったとしても、立案者そのものがいなくなれば実施中の攻略作戦は修正が難しくなり、進撃速度の低下が期待できる。

 そんな奇手に一縷の望みを託し、帝国軍は狙撃兵、観測兵、護衛兵それぞれ一人ずつ計三人から成る特別攻撃班を編成し、ジルブロック市に放った。廃墟に陣取る彼女もまた、その班の一員で護衛兵だった。

 彼女達は、出撃前に上官から『特別攻撃班は、貴様らの隊だけだ』と説明を受けていたが、誰一人としてその言葉を信じていなかった。自分達が失敗してそれだけで頓挫してしまう作戦なら、やらなくても同じだ。他にも同様の班が潜入しているに違いない。ただ、それについては頼もしさよりも恐ろしさを感じる。そういった他班の連中が王国軍に捕まり、王国軍の巡察や警戒が厳しくなると、自分達も捕まりやすくなってしまう。

 不意に風切り音が耳に入ったかと思うと遠くの方から爆発音が響き、建物が倒壊する音が続く。そちらに目をやった彼女は、巻き上げられた埃がもうもうと立ち上る様子を見た。帝国軍は、王国軍が占領した地域に散発的な砲撃を行うことで嫌がらせをしているのだが、その砲弾だろう。

「あんなのに当たって死にたくないわね……」

 ジルブロックの住民の中には戦闘や嫌がらせ砲撃の巻き添えを食って犠牲になった人々がいると聞く。帝国軍、王国軍共にこの土地の帰属を巡って争っているのだが、その争いに無力な人々が巻き込まれて命を落としている現状は、悲劇でしかなかった。

 護衛兵は砲撃跡から、自分の持っている機関短銃に目を移した。この辺りの住民にしてみれば、あの砲弾と自分の持っているものに変わりはないだろう。いや、持っている銃どころか、彼女の存在自体が砲弾と変わらないものと認識されていてもおかしくはない。どちらも、専ら人を殺めることが仕事だ。違うのは、砲弾は彼女と違って意識を持たないこと、そして、その砲弾を撃っている張本人は“人を殺している”という感覚が薄いことだ。

 刃物や鈍器よりましとはいえ、目に映る距離で敵兵を撃ち殺すのは実に嫌なものである。咄嗟に、あるいは命令で撃って、殺して、吐き気をこらえ、えずき、実際に吐き、暗澹たる気持ちになったことは数知れない。敵兵は、少なくとも帝国兵を射殺した事のある王国兵はこの気持ちが分かるだろう。そして、分かってもなお戦わなければいけないことも、お互い了承できることだ。

 しかし住民は違う。彼女が、兵士が、いかに内部に葛藤を抱えて戦っているか知らないし、理解できない、理解したくないだろう。銃を持っているから平気で人を殺せるのだと、そういったことを進んでやっているとも思っているかもしれない。

(銃を……力を持てない人を守りたい。そう思ってたのに……)

 今や、彼女自体が彼女自身の夢を壊す存在となりかけている。こんなことなら警察官になるべきだったと考えても、もう遅い。

 周辺に気を配っていた護衛兵だったが、守るべき上層階から慌ただしい足音が聞こえたため、そちらに視線を回した。銃声が聞こえなかったのに狙撃兵が降りてくる訳がない。ならば、中に残っていた住人がいたのかと警戒していると、階段の曲がり角から姿を現したのは観測兵だった。

「逃げるぞ!」

「はあ!?」

 あまりにも唐突な言葉に、護衛兵は素っ頓狂な声をあげた。そんな間にも、観測兵は階段を慌ただしく、しかし警戒しながら降りてゆく。仕方なく彼女もそれに続く。

「逃げるって……あんた、もう一人は?」

「死んだ! いや、殺されちまった!」

「どういうこと?」

「敵の対抗狙撃だ。標的は来なかった」

「それじゃ、あたし達……!」

「罠に飛び込んじまった。……行くぞ、援護してくれ」

 行きはよいよい帰りは怖い、というほど往路が順調だった訳ではないが帰りが怖くなったのはまったく間違いなかった。そもそもこうなってしまっては、帰路は生還できるかどうかも怪しい。

 なにしろ、前線を超えてきたのだ。前線の隙間を縫ってここまで到達できたと思っていたが、下手をすればわざと見逃されていた可能性すらある。

 疑心暗鬼に取り憑かれそうになる頭を振り、護衛兵は先を行く観測兵に話しかけた。

「どうするの、来た道は使えない!」

「なんとかしてジルブ河に出るしかない。まずは下水を――」

 階段を降りきって玄関広間に出た観測兵は、唐突に言と足を止めた。

「どう――」

 したの、という残りの言葉は観測兵の手によって止められる。彼はもう片方の手の人差し指を口にあてて、静かにするよう促した。

 どこからか自動車の発動機音がする。大所帯ではないが、それでも一台ではない。

「やつら……対抗狙撃する前から観察してやがったんだ……畜生……!」

 自らの手抜かりに観測兵は血が出るほど唇を噛み締めた。それから自分の手榴弾袋をあさり、手榴弾を準備し始める。

「ここは俺が引き付けるから、貴様は行け」

 女の兵士は帝国軍にはいるが、王国軍にはいない。この不均衡から生起する悲劇的な末路の逸話には事欠かなかった。

「死ぬ気でしょ」

「俺の落ち度だ」

 戦友、というほど長く共にいた訳ではない。泥縄式に掻き集められた人員の臨時編成だ。それでも死線をくぐる濃厚な時間を共にした。

「無事にジルブ河の西で会えたら、やらせてあげるわ」

「……そうか、そりゃあいいな」

 観測兵はこわばりながらも精一杯の笑みを浮かべてみせ、護衛兵もなるべく妖艶に見えるように笑ってみせた。お互いにそれが叶うとは思っていないが、必要な嘘だった。

 護衛兵はたすき掛けにしていた手榴弾袋を身から離すと、観測兵に差し出す。

「使って」

「早く行け」

 お互いにすれ違った言葉をかけながら、護衛兵はその場を立ち去り、観測兵はその場に残った。




 護衛兵は――その守るべき対象を失っても彼女を表す言葉は今のところ他になかった――、銃声と爆発音を押し殺した心で無視して走り、蓋の開いた下水道を見つけると素早くそこに潜り込んだ。

 久しく人が利用していないが、水分を失った汚泥が極めて不快な悪臭を放っている。冬場でさえもこれなのだから、夏場となれば気絶したかもしれない。彼女は広げたハンカチを顔に結わえ付けて簡易マスクとして、方位磁石を頼りに西を目指した。

 ジルブロック市には汚水処理施設が無い。汚水の行き先はジルブ河だった。

 とはいえ、簡単に河へ到達できるとは護衛兵も考えていなかった。こんなにわかりやすい通路なのだから、市街地戦闘の初期段階では下水道内での戦闘もあったほどである。だが、両軍とも下水道を通った兵士に染み付いた汚水の臭いで存在が露呈することに気づき、奇襲にはあまり向かないと判断され、下水道は急速に軍事的利用価値を失っていった。それ以降は、東西方向に行き来できないよう爆破されたり、縦坑から瓦礫を投げ込んで塞がれたりしている。但しそれも戦闘の片手間でやっていることであるから、どこかしらの抜け道はまだ残されているはずだった。

 彼女は暗闇の中、点検用の通路をひたすら歩いては、瓦礫の壁に当たっては引き返し、時として何かにけつまづいて通路に倒れ込むことを繰り返した。けつまづいて倒れた先が妙にやわらかいものが多いことについては、あまり考えないようにした。下水道は行き場を失った住民が逃げ込む先でもあるのだが、それらの末路について今は想像をしたくなかった。

 暗順応した目とはいえ、ほとんど光の差し込まない構造の人工地下坑であるから、いつしか護衛兵は方向も時間も感覚が希薄になっていった。下水道に入った時は光っていた腕時計の文字盤も、蓄光塗料の効果が切れてしまってからは縦坑から得られる光でしか読み取れなかったが、敵兵に見つかる危険性を考えると縦坑の近くには留まりたくなかった。警戒心から出た行動だったが、結果的に暗闇をさまよう選択となってしまった。

 時として壁に――それは果たして壁だったのだろうか――もたれかかったまま、気絶していた事すらあった。かろうじて正気を保てていたのは、所々にある縦坑から差し込む淡い外光のおかげと言ってもよい。護衛兵の時間感覚ではもういつのことだったかとはっきり言えなくなっていたが、怖々と覗き見上げた縦坑の向こうは雪雲で覆われた薄暗い空模様で、暗闇で満たされた下水道とは比較にならない明るさに感じ、意味も無く救われた気持ちになった。

 元々、特殊部隊でもなんでもない、ただの歩兵部隊から選抜されただけの護衛兵は、ここに至って自位置を見失ったことを自らも認めた。どの縦坑から入ったのかさえもわからず、どの縦坑を登れば元の位置より西側、即ち味方に近い方なのかわからない。

「あんなに小説みたいに、かっこつけて別れたのにね……」

 自嘲しながら、姓階級しか知らない観測兵と狙撃兵の顔を思い出そうとしたが、もうわからなかった。それが無性に悲しかった。

 捕虜になって陵辱されようが構うまい。そんな投げやりな気持ちになり、彼女は決意してから最初に見つけた縦坑を登ることにした。




 重苦しい蓋をどけて真っ先に感じたのは、切り裂くような冷たさだった。顔に降り掛かる雪をうっとうしく思いながら緩慢な動きで縦坑から這い出すと、そこには夜のとばりが下りていた。

「何か臭くないか?」

 不意に聞こえた帝国語に護衛兵は安堵よりも羞恥を覚え、さきほどまでの投げやりな気持ちはどこかへ吹き飛んでしまった。

「おいあそこ!」

「誰か!!」

 誰何を受けた護衛兵は撃つなと大声で叫び、自らの姓階級と認識番号、特別攻撃班だと名乗り、上級部隊へ問い合わせるよう伝えた。

「特別攻撃班だって、本当かな」

「いやでもいくらか帰ってきたって聞いてるぞ」

 報告の電話をかけたあと、土嚢で構築した哨所から監視しながらも少々のんきな様子の歩哨二人を見て、前線の雰囲気ではないと判断した護衛兵は、ここはどこで、今は何日だと聞いた。

 すると、ジルブロック中央駅のすぐそばで、護衛兵が観測兵と別れた日から二日経った夜中だということがわかった。

「特別攻撃班のどれかが成功したのかしら」

「いや、戦車師団が上流で渡河して、王国軍の退路を断とうと進撃したら、王国の連中は市街地から引き上げちまった」

「ここは高射砲陣地の外縁さ。駅の復旧に手を付けたら爆撃されたから呼ばれたって訳だ」

 敵は市街地から出て行ったのだから、上層部は高射砲部隊を布陣させても大丈夫だと踏んだ訳だ。悪臭の暗闇をさまよっている間に、ずいぶんと状況が変わってしまった。

「それにしても」

 歩哨の片方が思い出したかのように言った。

「あんたずいぶんと臭いな」

 護衛兵はそいつを思いっきり引っぱたいた。もう一人の歩哨は呆れた顔でそれを見ているだけだった。

 雪がしんしんと降る中でのことだった。

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